渚のInvitation5

渚のInvitation5



 5月1日。
 シュラと紫龍はマリンスポーツを楽しむべく、海に出ていた。
 修業も兼ねて泳いだことはあるが、シュノーケリングは初めてという二人のために、インストラクターが一人ついた。そして二人が止まっているマリンリゾートホテルがある岬の周辺に広がる、浅瀬の海に繰り出したのである。
 マスク、シュノーケル、フィン。
 その3点セットを借りて、身につける。
「まず海面に顔をつけて下さい。マスクの中に水が入ってきませんか?」
 大丈夫だと手で知らせると、シュノーケルを使って息をする方法を教えてくれた。
「まずはシュノーケルから息を吐いて下さい。まず吐いて、それから吸う。それがシュノーケルの鉄則ですから、忘れないで下さいね」
 年齢はシュラより年上なのだが、外見や話し方はシュラよりずっと若く見えるインストラクターの男性の言うとおり、吐いてから吸う、という呼吸法を覚える。
「シュノーケルを付けている間は、顔を水につけたままでいいですよ。シュノーケルが水面に出てますからね」
 呼吸法を覚えたら、今度はフィンを使ってのバタ足の練習だった。
 紫龍は鍛えているとはいえ、まだ成長途中で体重も軽い。
 だが、シュラは……
 7歳の頃から聖闘士になるために修行をし、9歳で黄金聖闘士になった彼は、相当体を鍛えている。身長も185センチを超えるほどに高いが、全身を厚い筋肉で覆われた体はそれなりの重さもある。それ故に、塩分を多く含むため普通の水よりも浮力が強いにもかかわらず、海水の中にあっても浮かずに沈んでしまうのだ。
「俺は水に浮かないんだが、大丈夫か?」
 紫龍に通訳してもらいながら尋ねると、インストラクターは大丈夫だと笑顔で答えた。
「シュノーケリングは泳げない人でもできるくらいですから。フィンでゆっくりバタ足をすれば、前進できるんですよ」
 膝を曲げないように、ゆっくりとフィンを付けた足を動かすと、インストラクターの言うとおり、シュラは少しずつだが前進した。もちろん、日頃の彼らの動きと比べると、コマ送り並の遅いスピードだったが。
 呼吸の仕方、フィンを使っての進み方、そして潜り方。
 もともと聖闘士として常人では考えられないほどに体を鍛え、運動能力もありえないレベルで高い二人は、あっという間にそれらをマスターした。
「凄いですね。こんなに短時間でここまでできる人は初めてですよ」
 インストラクターがそう言うのも、当然であった。
 最初は2メートルくらいの深さで、30秒くらいの長さで潜っては、水面に上がる。
 二人の目の前には、前日水族館で見たような、珊瑚礁の海が広がっていた。
 少し先へ進もうとしたシュラのTシャツの裾を、紫龍がくい、と引いた。
「?」
 何事かと思って見てみると、珊瑚の隙間にクマノミがいた。
 その愛らしい姿に、シュラも思わず目を細めてしまう。だがそれ以上に、シュラの反応に満足してマスク越しに微笑む紫龍の笑顔の方が魅力的だった。加えて、海に入るために髪を束ねて頭の後ろでまとめ、いつも髪に隠されている項がむき出しになっているのが新鮮だった。
 初めは浅く、短かく潜っていたのだが、体力も心肺機能もズバ抜けて優れている二人はすぐに長く、深く潜れるようになった。
 美しいサンゴ礁。
 その間を泳ぐ、色とりどりの魚たち。
 アクリルガラス越しではなく、直接見る光景は言葉も出ないほど美しいものだった。

「想像以上に美しいな」
「そうですね。昨日水族館で見たのとは比べ物にならない」
 ビーチパラソルとマットを借りて、パラソルで日差しを遮りながらマットの上に寝転がる。
 波の音を聞きながら海を眺める穏やかなひと時もまた、格別だった。
「もしあの時、海王ポセイドンをお前たちが封じていなければ、この景色も消えていたかもしれんな」
 海辺にあるショップで買ってきたペットボトルのスポーツ飲料を飲んで、シュラはふとそんなことを思った。
 双子座の黄金聖闘士であるサガの双子の弟、カノン。サガによって聖域を追われたカノンによって封印を解かれ、アテナに代わって地上を支配しようとした海王ポセイドン。その野望を打ち砕いたのも、紫龍たち青銅聖闘士だった。
「ですが、あの時海闘士たちと闘って勝利できたのは、あなたのおかげです、シュラ」
 ポセイドンが支配する海底神殿で紫龍が闘った相手、クリュサオルのクリシュナはかなり手ごわい相手だった。彼が繰り出してくる槍にも苦戦したが、槍を失った後の生身の技によって紫龍は視覚を失ってしまったのだ。
 クリシュナの槍を始末することも、クリシュナ自身を倒すことも。
 シュラが紫龍の右腕に託してくれたエクスカリバーがなければ、恐らく不可能だったのではないかと紫龍は今でも思っている。
「確かに、エクスカリバーを託したのは俺だ。だが、目覚めさせたのはお前自身の小宇宙だろう。俺はほんの少し手を貸してやっただけにすぎん」
「でも、感謝しているんです。あの時あなたが語りかけてくれなければ、俺は完全に戦意を喪失していたかもしれない」
「お前ほどの男に限って、それはないな」
 真剣な口調で話す紫龍に、シュラは笑って答えた。紫龍の真っ直ぐで純粋な心が、シュラにはくすぐったいと感じられた。もっともそういう少年だからこそ、シュラはひと目で命と己の全てを掛けてしまうほどの恋に落ちてしまったのだが。
「さて、もう少しお前たちが守り抜いた世界を満喫するか」
 シュラは空にしたペットボトルと目印にするためのバスタオルをマットの上に置いて、シュノーケルをつけたマスクとフィンを取って立ち上がった。
「ほら、紫龍」
 立てよ、とシュラは紫龍に手を差し伸べた。紫龍がその手を取って立ち上がろうとするのを助けようと、シュラは軽く手を引いたのだが。
「あっ!」
 自分で立ち上がろうとしていた紫龍の勢いと重なって、力が強くなりすぎた。反動でよろける紫龍を、シュラは思わず抱きとめた。
 気温が上がって暑くなってきたのと、日陰に入っているのとで、二人とも濡れたTシャツを脱いでいる。着ているのは水着だけ。
 思いがけず直接触れ合ってしまった肌の感触に、シュラは胸の高まりを抑えることができなかった。
「紫龍……」
 もっと近くに引き寄せたくて、抱きとめた腕に力が入る。
「シュラ……すみません、俺……」
 だが、それもほんのわずかな間だった。
 紫龍は慌てたように呟いて、シュラから離れた。
 普通の人間ならば、瞬きするほどの短い時間。だが、光速のスピードを誇る黄金聖闘士であるシュラは気づいてしまった。
 自分から離れる瞬間。
 紫龍の鼓動がシュラ以上に速くなっていたこと。
 そしてすぐに俯いて背けてしまった顔が、真っ赤に染まっていたことに。




続きを読む


inserted by FC2 system