Vanilla

Vanilla



 その路地に足を踏み入れたのは、偶然だった。
 聖域のふもとに広がる、ロドリオ村。
 千年以上も前からそこに存在し、小さいながらも広場や市場があり、聖域で必要になる生活用品や食料は全てここで手に入れることができる。
 聖域で暮らす17歳以上の聖闘士の中には娯楽を求めてこの村の酒場に足を運ぶ者も少なくないと、紫龍は人伝に聞いていた。
 小さいながらも聖域を守る要塞の一角であり、歴史が古いこの村は、路地が入り組んでいる。慣れた者でなければ、簡単に迷ってしまうほどに。
 聖闘士の修行は中国で、それ以外の時は日本で暮らしてきた紫龍が聖域で暮らし始めたのは、ほんの3か月前。村の入り組んだ構造に慣れるには、まだ日が浅い。
(参ったな……)
 冥界との聖戦を終えて戻ってきた紫龍たち青銅聖闘士の5人は、冥界から戻ってくるとすぐに姿を消した一輝を除いて、4人はそのまま女神と共に聖域で暮らすことになった。女神の血を受けた神聖衣をまとい、今や黄金聖闘士を凌ぐ聖闘士となった彼らは、黄金聖闘士以外は滅多に立ち入ることが許されない12宮はもちろんのこと、女神神殿にも自由に出入りできるようになっている。
 紫龍たちは女神である沙織と共に、女神神殿の横に建てられている生活スペース、奥殿で暮らしている。この日は、切れかけている洗剤や石鹸を買い足すために、紫龍が村へ出てきたのだ。市場をグルグル回って目的の洗剤と石鹸を手に入れ、ついでに紅茶の葉と砂糖菓子と、シャツも何枚か買い足して、帰路につこうとしたら……
 紫龍は、迷ってしまったのだ。
 何となく覚えている方向を頼りに、路地を一つ、二つ曲がってみると、そこは袋小路になっていて行き止まりだった。
 その袋小路の片隅、建物の蔭になる部分に人影があった。
 長身の男が、ヒールの高い靴を履いて背中が大きく開いたワンピース姿の女を抱き締めている。女の腰に回された男の手、重なっている顔。
 紫龍は足を止めた。
(マズイところへ……)
 明らかに、場違いなところに足を踏み入れてしまった、と紫龍は一瞬で悟った。
 引き返そう、と踵を返そうとしたその時。
 重なっていた二人の顔の角度が変わって、男の顔が少しだけ見えた。短い黒髪の男には、見覚えがある。
 思わず声を上げそうになった紫龍を、目を開けた男の視線が射貫いた。
(シュラ!?)
 紫龍はとっさに身を翻して、駈け出していた。無我夢中で、どこを走っているのかもわからないままに、目の前に現れる路地をいくつも曲がって走った。
「紫龍様?」
 呼び止められて、紫龍ははっと足を止めた。周囲を見回すと、見慣れた闘技場の風景が目に入る。
 どこをどう走ったのかわからないが、気がつくといつの間にか聖域まで戻ってきていた。
 出かける時は普通だった紫龍が、紙袋を抱えて猛ダッシュで戻ってきたのを見て、雑兵が声をかけたのだ。
「ずいぶん急いで戻って来られたんですね」
 神聖衣をまとう紫龍たちは、雑兵たちから「様」付けで呼ばれている。
「あ、ああ。見回り、ご苦労だな」
 取り繕うように言葉を返して、紫龍は闘技場から12宮へと向かった。聖域の中でも女神神殿へとつながる道は、この12宮とそれぞれの宮をつなぐ階段しかない。神話の時代から女神の小宇宙が満ちているこの12宮では、光速の動きをする黄金聖闘士はもちろんのこと、女神自身でさえ、自分の足で行き来するしかないのだ。
 何も考えず、ただ足を動かして階段を上がり、最初の白羊宮にたどり着く。聖戦が終わり平和を取り戻した聖域では、12宮を守護する黄金聖闘士も自分の宮ではなく、それぞれの宮の側に建てられている石造りの家に住んでいる。
 今は護り主のいない宮を一つ抜けては階段を上がり、また次の宮を抜ける。
 頭が混乱していた。
 何故あんな所にシュラがいたのか。
 どうして昼間から女性と抱き合っていたのか。
 彼女とどういう関係なのか。
 答える者もいない、答えなど出るはずのない問いが次から次へと湧き上がって、頭の中を埋め尽くしていく。
 気がつくと、そのシュラが守護する磨羯宮まで上がってきていた。
 磨羯宮の中には、山羊座の黄金聖闘士が女神から聖剣・エクスカリバーを授かるシーンを再現した銅像が安置されている。
 山羊座の黄金聖闘士が代々、その右手に受け継いでいく聖剣。それは今、紫龍の右手にも宿っている。
 この十二宮に星矢たちと5人で攻め込んできて、シュラと闘った時。共に宇宙のチリとなって消えるはずだった紫龍を助けると同時に、シュラはエクスカリバーを紫龍の右手に託したのだ。自分の命と引き換えにして。
 シュラは、紫龍にとって命の恩人であり、エクスカリバーを通じて師弟ともなった。
(俺は、シュラにとって何なんだろう?)
 銅像を見上げて、ふと思った。
 シュラは紫龍にとって大切な人ではあるけれど、友人と気安く呼んでいい間柄でもない気がする。
 ただ。

 一度だけ、抱き締められてキスを交わした。

 というか、一方的にキスをされた。と表現した方が正しいのだと思う、あれは。
 事が起きたのは、昨日の体術訓練の時だった。
 シュラが繰り出してきたエクスカリバーを避けて、紫龍は反撃に出た。その瞬間、紫龍が足場にした岩がエクスカリバーの風圧を受けて崩れたため、紫龍は大きく体勢を崩してしまった。
「紫龍っ!!」
 時間にすれば、コンマ数秒ほどの、瞬きよりも速い時間の出来事だった。
 シュラが紫龍の方へ飛んできて、紫龍を抱きかかえて崩れる心配のない場所へと運んだ。
「すまない、シュラ。俺はまだまだだな」
 ありがとう、と礼を言ってもシュラは紫龍を離さなかった。訓練の最中は視線だけで射殺されそうになるほど鋭いシュラの目が、柔らかくなっているのを紫龍は見た。その視線に絡め取られて、思わず見入ってしまっていた。すると…
 シュラが顔を寄せてきて、唇を塞がれていた。
 わずか数秒の出来事だった。
 その後、シュラは何も言わなかった。だから、そんな行動に出た彼の意図はわからない。
 けれど。
 昨日の今日で、見ず知らずの女性とあんな……
 思い出したら、また苛立ちが募ってくるような気がした。


 シュラと顔を合わせたのは、その日の夜だった。
 別に約束をしていたわけではない。
 紫龍はその日、老師と夕食を取るために天秤宮まで下りていた。老師と、第1の宮である白羊宮から上がってきたムウや貴鬼と夕食を共にした、その帰りだった。
 できることなら避けて通りたいところだが、7番目の天秤宮から一番上にある女神神殿まで戻ろうと思ったら、途中で10番目の宮である磨羯宮を通らざるを得ない。
 だが、中から人の気配はしない。そのまま村に泊まっているんだろうと高を括って、紫龍は足早に宮を通り抜けようとした。
 磨羯宮に安置されている女神と山羊座の聖闘士の銅像は、昼には天窓から陽光を取り入れ、夜になれば昼の間に蓄積していた太陽光と、神話の時代からこの宮に満ちている代々の山羊座の聖闘士の小宇宙によって常に明るく照らされている。
「あ……」
 その銅像の下にワインボトルが転がっているのを紫龍は見た。
 この宮で、無造作に空のワインボトルを転がして平然としていられる人間を、紫龍は3人知っている。一人はこの宮の主であるシュラで、あとの二人はそのシュラとよくつるんでいるデスマスクとアフロディーテだ。
 ふいに、紫龍は刺激のある異臭に気づいた。見ると、銅像の脇から一筋の煙がゆらゆらと立ち昇っている。
 3人のうち、煙草を吸うのはデスマスクとシュラの二人。けれどデスマスクならば静かに一人で酒と煙草を味わうことはない。あの男は必ず誰かを巻きこんで、いつも騒々しい。
 となると、やはりそこにいるのはシュラしかいない。
 だが、シュラは完全に小宇宙も気配も断っていた。
 でなければ、こんなに側に来るまで紫龍が気付かないはずがないのだ。
「ずいぶん遅かったな。老師やムウと話すのが楽しくて、時間を忘れたか?」
 銅像越しに声をかけられた。
 気づかなかったふりをしてそのまま通り過ぎることは、シュラは許してくれなかった。
「そう言うシュラこそ、戻ってきているとは思わなかったな」
 天秤宮に下りる途中でここを通った時は、シュラはまだ戻ってきていないようだった。それなのに今はこうして宮にいて、わざわざ紫龍を待っていて、棘のある意地悪な問い方をしてくる。
 老師やムウたちと話しているうちに消えていたはずの苛立ちが戻ってくるのを、紫龍は感じていた。
「昼間の女の所に泊まっているんだと思っていたが?」
「あんな女と一晩中過ごすほど、物好きじゃないんでな。1回抱いたら、それで終わりだ」
 シュラが言い捨てるのと同時に、また細い煙が上がるのが像の向こうに見える。
「あんまりしつこく言い寄ってくるからな、適当に付き合ってやっただけだ」
 吐き気がしそうだ、と紫龍は思った。
 シュラとの付き合いは決して長くない。紫龍が知っているのは、女神の聖闘士としての一面だけだ。第一、シュラは紫龍よりずっと年上であることに加えて、紫龍に会って拳を交えるまでは全てを知った上であえて、前の教皇を殺して自分が成り変わっていた双子座のサガに従っていた。
「口程にもない、あまりいい体じゃなかったがな」
 静寂が支配する宮内で、シュラが煙草の火を消す小さな音が響く。銅像の向こうで、シュラが立ち上がるのが見えた。
 銅像を回りこんで自分の前に出てきたシュラは、シュラの皮をかぶった知らない男のようだった。
 まるで、初めてシュラに会った時のようだと紫龍は思っていた。
 青銅聖闘士である自分たちを虫けらだと侮り、明らかに見下した態度を取っていた、あの時のシュラを見ているような気分だった。
「酷い顔だな。そんな風に眉間に皺を寄せたままの顔で老師に会ってきたのか?」
「誰のせいだと思っている?」
 嘲笑うような口調に、思わずきつい口調で問い返す。だがそれも、一笑に付された。
「俺はお前には何もしていない。お前が勝手に人のラブシーンを覗き見したんだろう」
「あんなもの、見たくて見たわけじゃない!」
「あんなもの、ね」
 思わず声を荒げた紫龍を、シュラは嘲笑った。
「老師の所で純粋培養された、女も知らないお子様だったな、お前は」
「っ!」
 自分より背の高い、冷たい目で見下してくるシュラを、紫龍は睨みつけた。
「そういえば、老師の所には少女が一人いたな、春麗といったか。その子と一緒に暮らしてたんだろう? それでも何もなかったのか?」
「俺と春麗はそんなふしだらな関係じゃない!」
「手を出す気にもならなかったってことか」
「俺はあなたとは違う」
「そうだろうな。俺はお前やお前の師匠のような聖人君子じゃない。聖闘士である前に一人の男だ。美化して見てもらっちゃ困る」
「どうして、そんな……」
 昼間のシュラも、今のシュラも。
 紫龍が知っているシュラとはまるで違っていた。
(こんなシュラは、知らない……)
 怖い、と思った。
 初めてシュラと対峙した時よりも、今のシュラの方が怖いと。
「腹が減ったら食べる。眠くなったら寝る。そんな食欲や睡眠欲と同じだ、性欲ってヤツは」
 そんなことも知らなかったのか?
 言いながら、シュラが紫龍を見据えてくる。
 情事を見られた後ろめたさなど微塵も感じていないのだと、紫龍は理解した。いやむしろ、いるのがわかっていてわざと見せたのかと思うほどだった。
「っ!?」
 次の瞬間、紫龍はシュラの腕に捕らえられていた。
 いつ動いたのか、全く見えなかった。
 小宇宙を燃やすまでもなく、紫龍とシュラでは、まだこれだけの能力の差がある。
 顎を捉えられて、シュラの射抜くような視線をまっすぐに受け止めさせられる。
「膀胱に尿が溜まったら排泄したくなる。大腸に便が溜まったら排泄したくなる。それと同じだ。ここに……」
「っ……あ!」
 言いながら、シュラがもう一方の手で紫龍の股間に手を伸ばしてきた。服の上からやんわりと握られて、思わず息をつめた。
「精子が溜まったら、吐き出したくなるんだよ。そういう風にできてる、男の体ってヤツはな」
「はな、せ……っ」
 表情一つ変えることなく、シュラは手の中に捕らえた紫龍の性器に刺激を加えてくる。
 自分以外の誰かにそこを触れられるのは、初めてだった。
 強烈な羞恥心に襲われて顔を背けようとしても、顎を捉えているシュラの手がそれを許してくれない。同時に、紫龍のそこは確かに快感を訴え始めていた。
「加えて神が人間を創造した時に、神は祝福を下した。生めよ、増えよ、地に満ちよ、とな。おかげで、人間は他の動物と違って特定の発情期を持たない。言いかえれば、常に発情期ってワケだ」
「やめ……ぅっ!」
 シュラの右手に宿る聖剣で切り刻まれる方がマシだ、と紫龍は思った。
「わかるか、紫龍? 体の欲求ってのは、お前が思ってるような特別なものじゃないんだよ」
「誰でも……誰でもよかったっていうことなのか!? それで、俺にも昨日あんな……っ!」
「あんな、とは。こういうことか?」
「んぅっ!」
 シュラの低い声が耳に溶けた、と思った瞬間に。
 紫龍はシュラの唇で口を塞がれていた。
 煙草の香りが、鼻についた。
 開かれた口裂からシュラの舌が入りこんできて、思うままに紫龍の口腔を蹂躙する。逃れようにも、唇を塞がれて、舌を捉えられて、紫龍よりずっと力強い腕と胸板の間に抱きこまれて、身動きが取れない。
「ん……っ、は、んぅっ」
 唇の端から、シュラのものと混ざった唾液がこぼれ落ちて顎を伝う。
 生々しい感触と、燃えるような羞恥心で頬が熱くなる。
 けれど、先ほど触れられた体の中心が疼くような快感を同時に覚えて、頭がぼうっと痺れてくる。
 昨日、ただ唇に触れられただけのキスとは全く違う。
(これが本当のキスってやつだ)
 ぞろりと舌を舐めるシュラの声が、脳裏に響く。
 二人の吐息と、唾液や舌が絡む音が静かな宮の中でこだまする。
 全身から力が抜けて、シュラに全てを委ねようとした時。
(っ!?)
 ふいに、昼間見たあの光景が頭に浮かんだ。
 見知らぬ女性と抱き合って、キスを交わしていたシュラの姿だった。
(あの人にも、こんな……)
「っ!」
 紫龍は全身に力をこめて、一瞬のうちに両手に力を集中させてシュラの体を突き飛ばした。
 シュラは壁まで飛ばされて背中を打ちつけていた。
「昼間の……あの人では満足できなかったから、今度は俺で……そういうことなのか?」
 シュラの巧みなキスに翻弄されて、足元がおぼつかない。紫龍は銅像に寄りかかり、肩で息をしながら精一杯シュラを睨み据えた。
「俺も、単なる性欲の捌け口と……そんな風に見ていたのか、あなたは」
「だったら、どうする?」
 飛ばされて激突した衝撃で少し凹んだ壁から起き上がって、シュラが挑発するように問いかけてくる。
「なっ……」
 紫龍は絶句した。
 そんな紫龍を見て、シュラは余裕のある、意地の悪い微笑を浮かべた。
「ショックか? 自分がそういう目で見られてるなんて、思いもしなかったんだろ?」
 すっかり固まってしまった紫龍に、シュラがゆっくりと近づいてくる。
 しなやかで無駄のない動き、全身から漲る成熟した牡の香り。
 獣のようだ、と紫龍は思った。
 美しい野生の獣が近づいてくるようだ、と。
「長い黒髪、白皙の美貌、切れ長の目。プライドの高い龍の化身で、細腰で、まだ男も女も知らない、穢れのない身体。実に堕とし甲斐のある最高の獲物だ、お前は」
 逃げなければ。
 頭のどこかで警告が鳴る。
 けれど、シュラに魅入られてしまったように、動けない。
 再びシュラの腕に捉われる。今度は紫龍の反応を楽しむように頬に触れ、ゆっくりと頬から顎へのラインを辿って頤に軽く手を添えられて、上向かされた。
「キスの感度も、昼間の女とは比べ物にならないほど良好だったな」
 動かない紫龍に気を良くしたのか、シュラがゆっくりと顔を近づけてくる。
「実に俺好みだ、そういう所も」
 息がかかるほど近くで、ぞっとするほど低い声でシュラが囁いた。鋭い眼光で射抜くような視線が、下卑た笑いに歪む。
「っ!」
 頬を張ろうと振り上げた手は、あっさりと止められた。
「俺を舐めるなよ、紫龍。黄金聖闘士相手に、その程度で通用すると思うか?」
「シュラ……」
 本気なのだ、と紫龍は悟った。
 シュラは本気で自分を抱こうとしている。紫龍の意志など関係なく、自分の欲望を満たすためだけに。息がかかるほど、体温が伝わってくるほど近くにいるのに。シュラという男が遠い存在のように感じられた。
 キスをしようと、シュラがさらに顔を近づけてくる。
 ほとんど反射的に、紫龍は叫んでいた。
「イヤだっ! 離せっ!」
 軽く捉えていただけだったシュラの手から逃れて、顔を逸らした。頬を張ろうとして失敗して捕らえられた右手も、何とか振り解こうとして暴れた。
「離せ、俺に触るな」
 力も、動くスピードも。聖戦をくぐり抜けてきたとはいえ、まだシュラの方が上だ。紫龍が敵うはずもない。そんなことは、すっかり頭から消えていた。
「チッ」
 不機嫌さを隠しもせずに、シュラは舌打ちをして紫龍の動きを封じにかかってきた。
「大人しくしてろ。本当に無理やり犯されたいのか!?」
「離せ!」
「紫龍!」
「俺をあんな女と一緒にするな!」
 強い口調で呼ばれて、紫龍は思わず口走っていた。


 紫龍が思わず叫んでから訪れた沈黙を破ったのは、シュラのため息だった。
「やっと言ったな」
 ほっとした様子で、シュラは呟くように言った。
「それがお前の本音だな、紫龍」
 確認を求めてくるシュラの声が、先ほどまでの、冷たささえ感じられる棘のあるものとは違っていた。紫龍に無理強いしようとしていた時とは全く違う、優しい手つきで紫龍の頬に触れてきた。
「思った以上に強情だな、お前は。本当に犯さなきゃいけないかと思ったぞ」
 苦笑しながら言って、シュラは紫龍を抱きしめた。
「何を、言って……?」
「村から帰ってきたら、お前の様子がおかしいって噂でもちきりだったんだよ。お前は知らんだろうがな」
「そうなのか?」
「ああ。宮を抜ける時はいつも律儀に挨拶を欠かさないお前が、黙って通り過ぎて行っただけじゃなく、こっちが挨拶しても無視したってんでな」
 シュラの言葉には、全く心当たりがなかった。だが言われてみれば、聖域の入口で雑兵に声をかけられて返した後は、ただひたすら女神神殿まで突っ切った気がしていた。
「特にムウと老師の慌てようったらなかったぜ」
 それで……と紫龍は思い返していた。夕方になってから、突然老師とムウに夕食に誘われたのか、と。
「多分昼間のことで怒ってるんだろうと予想はしてたんだが」
 そう言われて、紫龍はやっと気がついた。今までシュラが紫龍の本音を聞き出すために芝居をしていたのだ、ということに。
「騙したのか!?」
「まさかお前が嫉妬してくれているとは思わなかったんでな」
「あなたって人は!」
 ニヤニヤ笑いながら白状したシュラに、紫龍は思わずカッとなって右手を跳ね上げていた。先ほどは楽に避けていたはずの紫龍の平手を、シュラはまともに食らった。
「っ! ……さすがにキツいな」
「どうして避けないんだ!」
 怒りを露にしたのは、打たれたシュラではなく、平手を見舞った紫龍の方だった。
「これで少しは気が済んだか?」
「わざとぶたれたって言うのか、あなたは」
「それだけのことをしたからな、お前に」
 苦笑しながら、シュラは紫龍の髪をひと房手に取った。サラリと掌から流れる黒髪を軽く握って、唇を寄せる。
 さっきまでの成熟した牡の匂いを漂わせていた彼とは全く違う、紳士的な姿に紫龍は思わず見入ってしまう。
「すまなかった、紫龍。だが、俺はお前に嘘をついたわけじゃない」
 視線を上げて、シュラが真っすぐに紫龍と視線を合わせてきた。
「お前が俺の好みなのも、お前を抱きたいと思ったのも。俺の本音だ」
「シュラ……」
 シュラの両手が伸びてきて、温かい掌に両の頬を包みこまれる。それがたまらなく心地いい、と紫龍には感じられた。
「昨日幸運なアクシデントでお前が俺の腕の中に転がり込んできて、どうしても気持ちが抑えられなくなった。気がついたら、お前の唇を奪っていた」
 告白するシュラとの距離が近づく。
 力を加えられているわけでもない、小宇宙で抑えつけられているわけでもないのに、紫龍は動けずにいた。
「このままではお前を傷つけるかもしれないと思って他の相手で紛らわそうとしたんだが、かえってお前でなければダメだと自覚する破目になった。自業自得だな」
 言いながら、シュラは苦笑した。その表情に、胸が苦しくなる。
 いつもの苛烈に睨み据えてくる視線とは違う、柔らかい視線。けれどその柔らかさは、溢れ出ようとする激しさを無理やり抑えつけて柔らかさを装っているようにも見えた。そしてそれは、紫龍の心の奥まで届いた。
 息がかかるほど近くなったシュラの口が次に何を語るのか、紫龍は知っている気がしていた。
「愛している、紫龍。お前が欲しい」
 唇が重なってくるのを、紫龍は目を閉じて受け入れた。
 2度、3度とただ触れ合わせるだけのキスをされる。
「拒まないのか?」
「拒んでほしくないクセに、そんなことを訊くのか?」
「それもそうだな」
 問われて、問い返すとシュラは苦笑した。苦笑したまま、今度は少し長く唇を触れ合わせてくる。
「だが、嫌じゃないのか?」
「嫌って、何が……?」
「俺にこういうことをされるのは、嫌じゃないのか?」
 問われて、紫龍は少し考えた。さっきシュラに半ば無理やり口づけられて、体をまさぐられたことを思い出した。
「無理やりあんなことをされたら、誰だって嫌がる」
「すまなかったな」
「でも……」
「でも、何だ?」
「恥ずかしかっただけなんだと思う。今こうしてあなたに触れられるのは、全然嫌じゃない」
 柔らかく促されて、紫龍は続けた。
「あなたを好きなのかどうか、正直わからない。あなたが俺を愛していると言ってくれたことは、嬉しいと思う。昨日キスした理由も、俺だから……俺を思っているからなんだと、言ってほしかったんだと思う」
「紫龍」
「あなたがさっき言ったとおり、俺は恋をしたこともない。春麗とはずっと一緒にいたけれど、そういう風に思ったことがなかった。家族みたいなものだと」
 こんな風に触れられたのは、シュラが初めてなのだ。
「さっきのあなたは、知らない人のようで怖かった。だけど、凄く魅力的で……俺は動けなかった。そういうあなたも知りたいと思う。――ん……っ」
 それ以上の言葉は、シュラの口腔に飲み込まれた。
 先ほど紫龍の口内を蹂躙したのと同じ激しさで、けれどそのキスに宿る熱と想いが全く違っていた。激しく口づけられて、二人の唾液が絡まって糸を引きながら唇が離れたと思ったら、息が止まるほどきつく抱きしめられた。
「愛してる、紫龍。アテナに誓って、お前だけだ」
「シュラ……」
「すぐに俺を好きになれとは言わない。今は、ただお前に触れるのを許してくれるだけでいい」
 シュラは抱擁を解いて、続けた。
「俺が理性を失って、俺でなくなる前に訊いておく。愛してもいいか?」
 真剣な眼差しで問いかけてくるシュラに、紫龍は頷いた。
 紫龍が頷いたのを合図に、シュラはもう一度唇を重ねてきた。初めは軽く触れるように、そして次第に深く熱くなっていく。
 シュラに体重をかけられて思わず寄りかかった背中に、女神からエクスカリバーを授かる山羊座の聖闘士の銅像の台座が当たる。その冷たい感触に、シュラのキスに酔いそうになっていた紫龍の理性が呼び戻された。
「シュ、シュラ、ちょっと待って……」
「待たない」
「でも、こんな所で……」
「こんな所だから、ここでお前を愛したい」
 誰か来たらどうする?と暗に匂わせる紫龍に、シュラはきっぱりと言い放った。
「ここは俺の聖闘士としての証であり、聖闘士として誇りにしている場所だ。だからこそ、ここでお前を抱く。アテナにかけてお前だけを愛している」
 きっぱりとそう言ったシュラは紫龍の唇に口づけて、首へ、鎖骨へと唇を下していく。
「っ……ぁ………」
 服の合わせ目を解かれ、シュラの指が、唇が直接肌に触れる。
「あ……シュラ……」
 胸の突起を吸われて、紫龍は思わず声を上げた。自分のものとは思えない声音に驚いて、恥ずかしさも加わって紫龍は口を塞ぐ。
「ちゃんと聞かせてくれ。俺にされて、感じてる声を」
 だがすかさずシュラに柔らかく窘められて、口を塞ぐ手を外された。深くて短いキスをされて、再びシュラの唇が胸へと戻る。
 シュラの巧みな愛撫を受けながら、紫龍は肩から服が滑り落ちるのを頭の片隅で感じていた。


「あ、ああぁっ、シュラッ!」
「紫龍……っ!」
「あっ!」
 痛みを感じたのはほんのわずかな間だけで、それはすぐに快楽へと塗り替えられた。
 現在の主のために気をまわしたのか、あるいはシュラが小宇宙で呼び寄せたのか。山羊座の黄金聖衣の背中につけるマントを床に敷いて、紫龍はその上に横たえられてシュラに貫かれていた。
「気持いいか、紫龍?」
「気持ち、いい……っ、気持いい、シュラ――ああっ!」
 情欲に濡れた声で問われるままに、紫龍は繰り返した。突き上げられて脊髄を駆け上がってきた強烈な快感に、背中が跳ねた。
「くっ、そんなに締めるな、紫龍。イキそうだ」
 汗に濡れたシュラの顔が愉悦に歪む。
「あ、あっ……あ―――っ!」
 深く突き入れて、焦らすように腰を回すシュラの動きに翻弄されて、紫龍はシュラにしがみついた。

 もう、どれほどの間こうして揺さぶられているのか。
 紫龍にはわからなかった。
 感じるのは快楽のみ。
 与えられるままに、紫龍はそれを貪った。

「腰、揺れてるぞ、紫龍」
 律動を繰り返しながら、シュラが嬉しそうに告げる。
 紫龍は自分が無意識のうちに取っている行動を言葉にされて、羞恥心を煽られる。
「ヤラしい体だな」
「やっ……あ、ああっ!」
 際限なく与えられる快楽から逃げようとしても、シュラがそれを許すはずがなかった。
「綺麗だ、紫龍。俺のために乱れるお前は……っ!」
「ああぁっ!」
「一緒にイクか、紫龍?」
「あっ、ああ……シュラッ!」
 誘われるままに、紫龍は自分を手放した。
 そしてシュラも、いっそう強く自分を締め付けてくる紫龍の中に樹液を吐き出していた。
 お互いに精を放って、息もつけないほどの脱力感に襲われる。同時に、全身が愉悦に満たされる。
「愛している、紫龍」
 シュラはかろうじて紫龍を抱きしめて、改めて囁いた。
「シュラ……」
 紫龍が浅く荒い吐息に紛れるように呼びかけてくる。
 胸に頬を擦り寄せてくる紫龍の吐息は、まだ熱を帯びている。
「紫龍」
 だが、紫龍もシュラも聖闘士だ。体力は人並みどころではない。
 情事の後、回復するのも早く、すぐに呼吸も鼓動も落ち着いてきた。
 お互いの鼓動や呼吸が収まっていくのを、合わせた胸で、額にかかる息で感じ合っていた。
 それがたまらなく、幸せだった。
「俺はまた一つ、お前に教えられたな」
「え……?」
「真の快楽は、心から愛している者と愛を交わした瞬間にしか味わえない」
「シュラ……」
 さっきまで紫龍を翻弄していた指が、長い黒髪を梳いていく。
「これほど気持ち良くなれるとは、想像以上だったな」
 ニヤリと笑うシュラは、いつも通りの彼だった。
「俺も、その……気持ち、良かったです」
 答えなければと口にした言葉は思った以上に恥ずかしく、紫龍は次第に消え入りそうな声になってしまった。
「それは光栄だな」
「………に、して下さい」
「ん? 何だ?」
 まともに顔を見ることができずに、紫龍はまだ汗が滲むシュラの胸に顔を押し付けた。
「紫龍、もう一度言ってくれ。聞こえない」
 髪を撫でられながら優しく促されて、紫龍はもう一度呟いた。
「俺だけに、して下さい」
「紫龍?」
 自分の中にこれほどの快楽が潜んでいることを、紫龍はシュラによって初めて知らされた。
 お前だけだと囁く唇が、他の誰かに愛を告げることも。
 狂おしいほどに自分を求めてきた腕が、同じように他の誰かを求めることも。
 耐えられない。
 そう紫龍は思った。
 とんでもないわがままを口にしていると自覚はしている。
 それでも、止められなかった。
「こういうことは、もう……俺だけにしてほしいんです」
「お前、俺が言ったことを忘れたのか?」
 思い切って告白した紫龍に、シュラは盛大に苦笑して見せた。
「アテナにかけて、お前だけを愛していると言っただろう?」
「それは……」
「ここにいる、初めてエクスカリバーを授かったカプリコーンの聖闘士と、エクスカリバーを授けた時のアテナがその証人だ。アテナの聖闘士である俺が、その誓いを破れると思うか?」
 そこまで言われては、首を横に振るしかなかった。
「どうしても心配だと言うなら、お前が俺の番人になればいい」
「番人?」
 思いがけない言葉を聞いて、紫龍はおうむ返しにしてしまった。
「俺が、お前以外の誰かを抱いていないか。お前自身が確かめればいい」
 言いながら、シュラが淫靡な微笑を浮かべる。
 紫龍は、思わず魅入ってしまった。
「この体でな」
「あ……っ」
 何を言うんだ、と抗議しようとした言葉は。
 シュラの唇に飲み込まれて、吐息と共に消えた。


Fin

written:2008.4.25





え~、山羊龍第4弾です。
最近、Gacktさんの初期のころの歌を聴く機会が多くてですね。この曲を聴いた時に「山羊龍でHなお話を書きたいなぁ」と思ったのです。

この曲、もともとの歌詞もかなりHなんですけど(笑)
1番は普通に「ヴァニラ」なんですが、2回目・3回目は音はほぼ一緒なんですけど細かく聴くと英語だったり、別の単語だったりして、面白いのです。そして英語なんだけど、日本語としても意味の繋がる音の並びになっていたりして、歌詞がかなり凝っている曲なのです。
気になる方は、カラオケでリクエストして確かめてみて下さいませ(^.^)

で、山羊龍です。
山羊さまって、酒もタバコも女も男も、相当数遊んでそうな気がするんですよ(苦笑)
山羊さまのそういう一面を見て、思わず妬いてしまう紫龍はどうだろう?と思いまして。
そこから書き始めたら、こういう話になってしまいました。
最後は甘々になってしまうのは、クセですかね、もう(苦笑)
でも実際、山羊さまって紫龍には相当甘いと思います(笑)

ちなみに。
紫龍相手にエロいことを言ったり、小難しいことを言っている山羊さまは、初代の戸谷さんの声で聞こえてしまう結月であります(爆)
そして山羊さまの設定は、磨羯宮=アニメ版、山羊さまご自身=原作が好みなので、そのように書かせていただいております。

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