金芙蓉

金芙蓉~dedicated to 浅川麻菜さま


 久しぶりへあそこへ戻ってみようか。
 ふとそんな気持ちに駆られて、王虎は街道を外れた。木々がわずかに割れているだけの、獣道にも似た道。数年振りに通る道だったが、体が覚えているのか、王虎の足取りは変わらない。
 中国の文化遺産に登録されている、廬山・五老峰。幼い頃から修行に励んでいたものの、師匠に破門されて飛び出してしまった苦い思い出の残る場所である。一度だけそこへ戻ったが、それからさらに4年の月日が経っている。
(そろそろ、か)
 五老峰には結界が張られている。神話の時代からこの地を守り、ここを修行地としている聖闘士の手によって張られた結界が。
 小宇宙を知らない一般の者がそこを訪れても、結界があることすら気づかない。結界に気づいて中に入ることができるのは、一定レベル以上の小宇宙を持つ者だけだ。もちろん、入った瞬間に結界を張った主にもその所在を知られることになるのだが。
(これだな)
 目の前を横切る細い沢。その沢の流れに沿って、この先の場所をこの世から隔絶するための結界が張られているのを王虎は見つけた。小宇宙を高めて沢を越えると、空気が変わった。
 そして目の前に現れた風景を見て、王虎は息をのんだ。
「これは、いったい……」 
 4年前に来た時は、沢を越えてもさらに山道を何時間も歩き、ようやく五老峰の大滝にたどり着いた。だが、今は。沢を越え、結界に入ったと思ったら目の前に大滝が迫っていた。
「遅かったな。もう少し早く来るのかと思って湯を沸かしていたんだが、冷めてしまうかと思ったぞ」
 滝の音にかき消されることもなく、小宇宙に直接語りかける形で話しかけられた。共に修行し、4年前は殺す覚悟で挑んだ弟弟子から。
「何を言って……!?」
 近くを見ても、彼の姿はない。あの長い黒髪も、涼しげな目元と整った容貌に浮かべた微笑も、見当たらない。
 ふっと視線を上げると、大滝の前に座している男の姿が目に入った。王虎と、自分に話しかけてきた弟弟子、紫龍の師匠である老人が座していた場所で。
 だが、そこに座していたのは師である老人ではなかった。長い黒髪を背中から地面へと流し、日除けの傘をかぶった若い男だった。
「紫龍……」
 目の前に大滝が迫っているとはいえ、彼が座している場所と王虎が立っている場所ではかなりの距離がある。それほどの距離があっても、王虎は察していた。紫龍の小宇宙が、以前手合わせした時よりもずっと強大になっていることを。
「俺がここに来るとわかっていたような口振りだな。俺はただ、たまたま近くまで来たから立ち寄ってみようと思っただけだというのに」
「お前は星に導かれてここに来た。昨夜の星見で、星が俺に告げていたんだ。お前がここに帰ってくる、とな」
「どういうことだ?」
「言ったとおりだ。聖衣を授かるまでには至らないが、お前にもそれなりに星の守護がある、ということだ」
 最初は小宇宙に直接語りかけられていた紫龍の声が、耳からも入ってくるようになった。滝の前で立ち上がった紫龍が王虎の方へ向かって歩いてくるにつれ、声として聞こえる音の方が大きくなってきた。
「だいたいの時間はわかったからな。それに合わせて茶でも煎れようと湯を沸かしていたんだ。だが、思ったよりもお前が来るのが遅くてな。お前が結界に触れたと同時に、ここへ連れてきてもらうように細工しておいたんだ」
「結界に、か!?」
「ああ」
「そんなことができるのかよ!?」
「結界の中では五老峰の地脈を自由に操ることも可能だ。今は俺がこの結界の主だからな、すぐに従ってくれる」
 五老峰を外界から隔絶し守っているのは、代々ここを守る聖闘士と、遙か昔から五老峰の周囲を巡る地脈だ。それが一体となって働くことで、ここは一般の人々の目に触れることなく、昔の姿のままで滝壺に眠る龍星座の聖衣を守り、自然の営みが行われているのだ。
 それを自由に操るなど、並大抵のことではない。
「お前、4年前に会った時と比べものにならないほどの小宇宙を身につけたようだな」
「ああ。外見はそれほど変わっていないが、俺はすでにあの時の俺ではない」
 王虎の言葉を、紫龍はあっさりと肯定した。
「久しぶりに会ったのに、立ち話というのも無粋だ。庵へ来い。老師や春麗ほど上手くはないが、茶を煎れるくらいのことは俺にもできる。積もる話もあるだろうからな」
 修業時代は共に寝泊まりしてた庵へと誘う紫龍に、王虎は引っかかりを覚えた。
「誘いはありがたいが。まるで一人暮らしでもしているかのような口振りだな、紫龍」
「ああ、庵には俺しかいない。もっとも、俺も6日前にここに戻ってきたんだがな。2年振りに」
「何だと!? だったら、老師と春麗はどうしてるんだ!?」
 紫龍の返答を聞いて思わず詰問する口調になった王虎に、紫龍は庵へ向かう足を止めて振り向いた。
「そのことも話してやる。長い話になるからな、茶でも飲みながら聞け」
 紫龍は静かな口調だが、有無を言わさぬ迫力があった。王虎は促されるままに、紫龍の後を追って庵へと向かった。



 長い話になる。
 その言葉通り、紫龍の話は長かった。二人の師である童虎が愛用していた青磁の茶器で茶を飲み交わしながら、中天近くにあった太陽が西に傾いた頃、ようやくその話が終わった。
 王虎が数年前に感じていた不穏な小宇宙。それは紫龍をはじめとする聖闘士たちが、女神アテナを守るために命がけで戦っていた時にぶつかり合っていた小宇宙だった。
 数日に渡って雨が降り続いた時も、太陽が何日も昇らなかった時も。紫龍たちは海皇ポセイドンや冥王ハーデスとの聖戦を戦っていた。
 それらに勝利し、地上を守り抜き。荒廃した聖域を復興し、世の平和を保つために紫龍は師である童虎と共に奔走していたのだ。この五老峰に戻ることもなく、聖域の地で、天秤座の黄金聖闘士を経て、教皇という聖闘士の頂点に立つ重責を担うに至るまで。
「老師は天秤座を俺に譲った後も、半年前までは参謀として俺を助けて下さっていた。だが今はそれも辞退されて、先の教皇であった方と共に暮らしている。ここから遙か西にあるジャミールでな」
 童虎がここにいない理由も、紫龍はそう説明した。
「お前たちの事情はわかった。だが、春麗はどうしているんだ?」
「………」
 紫龍と共に修行していた頃、いつも王虎たちの身の回りの世話をしてくれていたのが、春麗だった。生まれてすぐに五老峰の結界のそばに捨てられていた彼女を師である童虎が拾い、養い子として育てられていた。働き者で気立てが良く、可愛らしい少女だった。
 その彼女のことを尋ねた途端、紫龍は淀みなく話していた口をつぐんだ。
「ここにいないということは、どこか別の町にでも住んでいるんだろう?」
 結界の中から外へ出るのは自由だが、小宇宙を持たない者は中にいる結界の主が招き入れない限り、中に入ることはできない。小宇宙を持たない春麗は、外に出ることはできても戻ってくることはできないのだ。
「まさかとは思うが、お前。聖戦とやらが終わった後、一度も春麗と会っていないんじゃないだろうな?」
「……そのまさかだ。聖戦が始まってすぐ、老師を追ってこの五老峰を立ってから、俺は春麗には会っていない」
「な、に……!?」
 王虎が授かることのできなかった龍星座の聖衣を授かり、聖戦を戦い抜き、天秤座を継いで教皇の座まで昇りつめたことよりも。紫龍が春麗と会っていないことの方が、王虎を驚愕させた。
「お前、春麗を誰よりも大切に思っていたんじゃないのか?」
「思っていたさ。今でも、彼女は俺にとって大切な人だ。俺は彼女に何度、命を救われたかわからない」
「だったら……」
「だが、会いに行っても、俺にはもうどうすることもできない。教皇として、今回のように余程の任務がない限りは聖域から出ることのない俺は、彼女が望む幸せを叶えてやることができないんだ。俺も老師も、半年以上ここに戻ってこられなかった」
 冥王ハーデスの軍勢である108の魔星を封じた塔の封印が解け、聖戦の火蓋が切って落とされた時。聖域へ向かう童虎は春麗に伝言を託していた。
 紫龍を決して聖域に来させるな。二人で幸せに暮らせ、と。
 だがもし紫龍が自分を追って五老峰を離れ、聖域へ行ってしまったら。そして3ヶ月経っても戻ってこなかったら、その時は。外界から隔絶されたこの結界を出て、五老峰の中腹にアトリエを構える童虎の遠縁の山水画家を頼れ、とも伝えていた。
「結果として、俺も老師も3ヶ月以上ここに戻ってこられなかった。だから春麗は、ここを出て行ったんだ」
 紫龍はそう告げて、童虎が愛用してた古い青磁の茶碗に注がれた茶を干した。
「ということは。春麗はお前や老師が生きていることも、お前が聖域で教皇になったことも知らないんだな?」
「ああ。聖域から使いを出すことも考えたが、聖域に迎え入れたところで彼女の居場所はない。それよりは、長年過ごした五老峰にいる方がいいだろう、と。俺は老師のお考えに従ったんだ」
 聖闘士たちが仕える女神アテナは処女神。ゆえに、彼女に仕える聖闘士たちが住む聖域は基本的に女人禁制だ。聖闘士になろうとする女子は仮面を付け、異性の前で外してはならない掟になっていることは、王虎も知っている。例外としてアテナの身の回りの世話をする侍女たちが女神神殿にいるが、侍女になるには生娘であって異性を知らないことが条件になる。
 もし春麗を聖域に呼び寄せたとしても、この五老峰で暮らしていた時のようには過ごせないのだ。
「どうしようもない、ってことか……」
 4年前、王虎がここに戻ってきた目的は、紫龍から龍正座の聖衣を奪うことだった。だが、それを守り通した紫龍は、あまりにも重い宿命を負っていた。
(最初から、俺ごときが太刀打ちできる相手じゃなかった、ってことか)
 あの時は認めることができなかったが。今の紫龍を前にして、王虎は自分がいかに無謀なことをしたのかを思い知った。
「お前もずいぶんと辛い思いをしてきたんだろうな」
 干した茶碗を見つめたままで動かない紫龍に、王虎は軽くため息をついた。そして王虎もまた、自分の茶碗に注がれていた茶を干した。
 自分を気遣うような言葉をかけられた紫龍は、弾かれたように顔を上げて王虎を凝視してきた。そして少しの間言葉を失ったと思うと、紫龍は微笑した。整った容貌に浮かんだ花が綻ぶかのような微笑に、王虎はつい見とれてしまった。
「お前はやはり、変わってないな」
 低く落ち着いた声で、微笑を含んで呟く言葉が耳に溶けた。
「俺がここに来て間もない頃、修行についていけなくて落ち込む俺を、いつも力づけてくれた。夜の闇や夜通し響く滝の音が怖くて眠れずにいた時も、お前がいつも傍についてくれていた。俺が眠りにつくまで」
「……そんなこともあったかな」
 随分と昔の話を持ち出して、自分を讃える紫龍の言葉が照れくさくて、王虎は覚えていない振りをした。
「そうやって忘れた振りをして照れるところも、昔のままだ。優しくて、強くて、謙虚で。お前は変わってない」
 心の底からそう思っているのだろう。昔から嘘のつけない紫龍が素直に口にする言葉が、王虎の心にまっすぐ飛び込んでくる。
「今日こうしてお前がここに来たのは、星とアテナが俺のために用意してくれた奇蹟なのかもしれないな」
 そう言って微笑する紫龍は、聖闘士としてこれ以上ないほどの地位に上り詰めた男とは思えないほど寂しげで、儚げだった。庵の中まで小さく響いてくる滝の音にかき消されるのではないか、と錯覚してしまうほどに。
 そう思った時。王虎は何かに衝き動かされるように立ち上がっていた。小卓を挟んで向かい合っている紫龍の横へと移動して、紫龍の肩を、頭を、そっと胸の中に抱き込んでいた。
「王、虎……?」
 突然の王虎の行動に、戸惑うように紫龍が呼びかけてくる。だが抵抗はしない。王虎にされるがまま、いやむしろ自分から体を預けてくる。
「紫龍……?」
 戸惑うのは、今度は王虎の方だった。衝動のままに紫龍を抱きしめたものの、どうしたらいいのか迷っていたところへ、紫龍が体を預けてきたのである。
「こうしていると、お前の温かい小宇宙を感じる。実直で、大らかで、優しい……」
 王虎の胸に頬をすり寄せて、紫龍はうっとりとした表情で目を閉じた。
「小さい頃、こうしてお前が傍で一緒に眠ってくれた時、俺はいつも安心できた。あの時は今ほどはっきりと小宇宙を感じることができなかったからわからなかったが、今にして思えば、お前のこの小宇宙を感じて安心していたのかもしれないな、俺は」
 そう言って紫龍は王虎を見上げてくる。
「お前が俺の兄弟子でいてくれたことに、今心から感謝している。今日、ここでお前に会えて良かった」
 紫龍が告げたその言葉に、王虎は固まった。
 一瞬、頭の中が真っ白になる。
「俺は単に任務を果たすためにここに来たが、今日まで待ちぼうけを食らったのも全て、お前に会うためだったのかもしれない……――っ!?」
 それ以上は、聞いていられなかった。嬉しさと照れくささが入り交じって、どちらもが心のメーターを振り切ってしまうほどに強く王虎を揺さぶった。
 自分でも何をしているのかわからないままに、王虎は紫龍に口づけていた。自分の唇で紫龍のそれを塞ぎ、紫龍が師から受け継いだ必殺技よりも遙かに威力のある言葉をそれ以上紡げないようにした。
 一度唇を離して角度を変え、さらに深く口づけようとした時。王虎は紫龍の指と微笑に阻まれた。
「ここまでにしておいた方がいい。でなければ斬られるぞ、お前」
 息が触れる距離で、睦事のようにひっそりと紫龍は続けた。
「俺の恋人は嫉妬深いんだ。俺に会うまでは散々相手を取っ替え引っ替えして遊んでいたらしいんだが、その反動なのか俺が他の誰かとどうにかなるのは我慢ならないらしい」
「お前、恋人がいるのか?」
「ああ。出会ってから、もう2年くらいになるかな」
 あっさりと認めた紫龍に、王虎は納得した。神と戦う聖戦のためとはいえ、あれほど思い合っていた春麗のことを、紫龍がこうもきっぱりと割り切れていた理由を。
「それを先に言え。お前が気落ちしていると思って慰めた俺がバカみたいじゃないか」
「すまない。特に聞かれなかったし、まさかお前がこんな風に誤解するとも思わなかったんでな。許せ、王虎」
 穏やかに微笑しながらそう続けた紫龍に、王虎はそれ以上何も言えずに沈黙した。



 日が落ちて聖域から届けられた夕食を紫龍と共にした王虎は、そのまま庵に泊まることになった。寝床を譲ると言って聞かない紫龍と、教皇を床で寝させるわけにはいかない、と譲らない王虎の間でひと悶着あったが、結局王虎が寝床を借りることになった。
 ふと目が覚めた時、王虎は部屋の中に紫龍がいないことに気づいた。庵の中には王虎以外に人の気配がない。
(どこへ……?)
 起き上がって庵の外へ出てみると、滝に向かってせり出した岩場の上に紫龍が立っているのが見えた。星空を見るともなく眺めているような様子で、空に視線を投げている。その体からは、ゆらゆらと翠がかった黄金の小宇宙が立ち上っている。
(いったい、何を……?)
 声をかけようとしても、近寄りがたい雰囲気が紫龍の周囲に漂っている。攻撃的な要素など微塵もない、極めて穏やかな小宇宙。その小宇宙に、持ち主である紫龍に、天から流れ落ちると言われるほどの大滝も、周囲の木々も動物たちも、五老峰の全てが紫龍に傅いていることを王虎は感じていた。
 ふいに、紫龍が何かに納得したように頷いて微笑し、周囲に漂わせていた小宇宙を収めた。そして王虎を振り返って歩み寄ってきた。
 紫龍は一時的に失明していたことがある。加えて、この五老峰は彼にとって住みなれた場所だ。ましてや今は、周囲の自然が紫龍に傅いている。夜闇に沈んだ中であっても、その足取りに迷いはなく、おぼつかない様子もなかった。
「起きてきたのか、王虎」
「目が覚めたら、お前がいなかったんでな。どこに行ったのかと思ったぞ」
「心配してくれたのか、ありがとう」
 王虎に近づいてくるにつれ、庵から漏れる明かりで紫龍の表情が見やすくなる。
「星を見ていたのか?」
「ああ、これも役目でな。毎晩欠かさずにやらなければいけないことになっている」
「役目?」
「教皇としての、な。毎晩星見をして、星が指し示す情勢を読まなければならない」
 並んで庵へと向かいながら、紫龍は続けた。
「聖域からここにきて6日、俺は天地人、全ての条件が揃うのを待っていた。地の利は、神話の時代の古からすでにここにあって、常に地脈となって廻っている。人の利は、てっきり俺のことだと思っていたんだが、どうやらお前も必要だったらしい。龍虎がここで相見えて陰陽が整う、それが人の利だったようだ」
 紫龍の言葉の真意がわからず、王虎は無言で先を促した。
「地の利があり、星の導きによって人の利が整った。人と地の条件が揃ったことで、天が動いた。明日の朝、五老峰を覆い続けていた朝靄が晴れる」
 そう続けた紫龍の声は、心なしか嬉しそうに聞こえた。
「金芙蓉、か」
「ああ。明日の朝、陽光を受けてこの五老峰が黄金に輝く。金芙蓉の朝を、俺は待っていたんだ。これでようやく、任務が果たせる」
 庵に入る前、紫龍は一度立ち止まった。紫龍よりも背の高い王虎を振り仰いで、王虎が見たことのない自信に満ち溢れた不敵な笑みを唇に乗せた。
「明日の朝、五老峰を守っている結界を張り直す。お前も早く起きてこい。老師から受け継いだ聖衣と、この五老峰の新たな結界の姿をお前に見せてやる」

 翌朝、日の出と共に起き出した王虎は、陽光を見た。
 太陽の通り道である黄道。その黄道の上に位置する12星座を模った黄金聖衣の一つ、正義の女神アストレアの天秤が星になったと言われる天秤座の聖衣は、陽光を凝縮したような輝きを放って王虎の前に現れた。聖衣の主である紫龍の黒髪が、聖衣の輝きを一層引き立てて見せる。そして庵に差し込んできた朝の光を受けて、聖衣は更に輝きを増した。
「それが、老師から受け継いだ天秤座の聖衣か」
「ああ」
「任務を果たすのに、わざわざ聖衣をまとう必要があるのか?」
「これを扱わないといけないんでな」
 言いながら、紫龍は数枚の札を王虎の前に差し出して見せた。札に書かれているギリシャ文字は、アテナ。現代に降臨したアテナが自らの血で名を記した札は、それ自体が強大な力を持っている。あまり大きくないその札は、王虎を怯ませるほどの圧倒的な力を周囲に放っていた。
「五老峰を丸ごと覆い尽くして人の世から隔離するには、それ相応の物が必要になる。二百数十年前に結界を張り直した老師も、先代のアテナから札をもらって使ったんだ」
「なるほどな。それで、俺は何をすればいい?」
 王虎が尋ねると、紫龍は庵の外に王虎を連れ出して大滝を指差した。
「老師が二百数十年の長きに渡って座り続けた場所があるだろう?」
「ああ」
「あそこに座って、自然の流れに身を任せているだけでいい。滝壺には龍星座の聖衣がある。陽の存在である龍を頂く聖衣と、陰の存在である虎の名を持つお前が中心にいることで、地脈の流れが整う」
「お前はどうするんだ?」
「五老峰を覆うように貼られているアテナの札を、全て貼り直す」
 滝へ向かって歩く二人の間を吹き抜けた風が、紫龍の背を覆う黒髪と白いマントを巻き上げた。
 二人の師である童虎が座り続けていた場所に着いた時、王虎は改めて紫龍に確認した。
「ここに座っていればいいんだな?」
「ああ、頼む」
 紫龍に促されて、王虎はかつて師がそうしていたように、地面に座って座禅を組んだ。
 そして王虎が座禅を組むのを見て、紫龍は軽く地面を蹴って瞬く間に姿を消した。
 紫龍の小宇宙が移動していくのを感じながら、王虎は呼吸を整えた。大滝によって程よい湿度を与えられた空気が、王虎を満たす。天の清気を吸いこんで、自分の中にある濁気を吐きだす。それを繰り返すうちに、自分が自然の一部であり、周囲に溶け込んでいくのを感じる。
 どれほどの間そうしていたのか。
 風が王虎の頬を撫で、薄らと閉じていた目を開けた時、目の前には再び紫龍が立っていた。
「終わったのか?」
「ああ、これで全て終わる」
 問いかけると、紫龍は左手にアテナの護符を持ち、空いている右手を滝に向ってかざした。その掌から一気に小宇宙が解き放たれた、と思った次の瞬間。天から流れ落ちると言われる大滝が裂けた。目に見えぬ大きな力に阻まれたように、滝は途中から真っ二つに裂けて流れの軌道を変えた。そして裂かれた滝の間から、左手に盾を、右手に首のない女神の像を乗せた小さなアテナ像が収められた岩場が見えた。
「あれが、最後の一つだ」
 言って、紫龍が地面を蹴って舞い上がった。ヒラリ、と白いマントと黒い髪が中に舞う。
「戦女神アテナの名の下に、今一度この五老峰を結界に封じる。五老峰よ、アテナの大いなる小宇宙を受け入れよ」
 紫龍は右手から小宇宙を放出したまま、滝の流れを遮っていた。それだけでなく、両足からも小宇宙を放出して体を空中で支えていた。そして左手に持っているアテナの護符を、アテナ像へと押し当てた。
「――っ!?」
 目を開けていられないほどのまばゆい光が像から放たれた。だがそれはほんの数秒のことで、光はすぐに像に吸収されるように消えていった。アテナの護符と共に。
 それを全て見届けて、紫龍は王虎の前に戻ってきた。紫龍の小宇宙によって遮られていた滝は、再び元の姿を取り戻していた。
「もういいぞ、王虎。これで全て終わった」
「そうか。まさか、滝の裏側にあんなものがあったとはな」
「俺も、最近まであれがあることを知らなかった」
「そうなのか?」
「昇龍覇を身につけてこの滝を初めて逆流させた時は、ただ夢中で滝の裏まで見る余裕はなかったからな。老師に教えていただいて、初めて知ったんだ」
 そう告げて、紫龍はもう一度軽く小宇宙を高めた。すると紫龍の体を覆っていた聖衣が紫龍の体から離れ、自らの意思で動いているかのように一つ一つのパーツが集まり、天秤のオブジェとなった。そして金の軌道を残して庵の中へと消えていった。
「さて、これで任務も終わった。俺は聖域へ戻らなければならない。留守中に仕事が溜まっているだろうからな。お前はどうする、王虎?」
 聖衣の軌道を見送って、紫龍は王虎に向き直った。
「このままここに残るというのなら、それもいいが……」
「ここにいても、誰も来ないし何もない。いても仕方ないだろう?」
「そういうことだ。里へ下りるのが無難だな」
「もちろん、そうさせてもらう」
 即答した王虎に、紫龍は軽く苦笑した。
「里へ下りるなら、お前に頼みがある」
「お前が俺に頼みごとだと?」
「ああ。できることなら……」
 眉をひそめた王虎に、紫龍はためらいがちに話し始めた。
「春麗を訪ねてやってほしい。そして彼女が望むなら、お前の手で幸せにしてやってほしい」
「……お前のことなど忘れて、とっくに嫁に行ってるかもしれんぞ」
「そういう報告は受けていない。そんな動きがあれば、春麗を預かっている山水画家から報告が入るはずだからな。春麗を頼む。お前ならば、老師も安心なさるだろう」
 無二の親友に真剣な眼差しで懇願され、師の名前まで出されては、頷かないわけにはいかなかった。
「わかった。放浪するのもそろそろ飽きたからな。どこかへ腰を落ち着かせるのも、悪くないだろう」
「礼を言う、王虎」
 王虎が承諾すると、紫龍は深々と頭を下げた。

 王虎は、聖域から迎えが来た紫龍と別れて五老峰の結界を抜けた。
 結界の外に出ると、先ほどまでとは違った空気が王虎を包んだ。
 アテナの結界に守られた五老峰は、遥か昔、古の時代からの風景が保たれている。だが、結界の外は違う。世界文化遺産に登録されたこともあって、紫龍や王虎が修業を積み、師である童虎が座り続けた大滝の周辺にも観光しやすいようにと手すりがつけられ、足場が整えられている。
 滝や周囲の木々、地面を流れる地脈も変わらないが、清涼さが結界の中とはまるで違っている。
 戻ってきたのだ、と王虎は思った。
 アテナの大いなる小宇宙に守られ、教皇となった紫龍の小宇宙が加わった結界の中には、澄み切った空気が流れていた。まとわりつく湿気も重々しくまとわりつくようなものではなく、すっと身を清めていくような爽やかさがあった。
 だが。
 こうして外に戻ってきてみると、この重々しさと適度に汚された空気の方が、王虎の身には心地よく感じられた。
(汚れきった俺にはやはり、お前のような男とは共に生きられないということか、紫龍)
 自嘲するように笑って、王虎は紫龍に言われた家へと足を向けた。
(どこで暮らそうと、二度と会うことがないとしても、お前は俺の生涯の友だ)
 別れ際に、握手をしながらそう告げた紫龍の言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
 同時に遥か遠くから、その清らかで穏やかな小宇宙が王虎の背中を押すように流れてくるのを感じた。
(生涯の友、か)
 手の届かない所へ行ってしまった紫龍がそう思ってくれていることが、嬉しいと感じている自分がいる。
(そうだな、紫龍)
 袂を分かち、生きる道も完全に別れてしまった友との約束を果たすために。
 王虎は木々の間から見える家の前に立ち、その扉を叩いた。


Fin

2009.09.15



FC2に移転してからの15000ヒット代理キリリクを、浅川麻菜さまよりいただきました。お相手は山羊か五老峰師弟で……とのことでしたので、兄弟子に攻めていただくことにしました♪
のですが……スミマセン、うちの兄弟子もヘタレでした(笑)
というか、山羊さまが強すぎて、これが精一杯。。。(汗)
しかも、途中から違う話になってますし(滝汗;)
楽しんでいただけましたら、幸いであります。

この話を書いている時、ちょうど某国営放送でやっている世界遺産紹介番組で五老峰が流れました。
その時に「金芙蓉」の様子とか、大滝の辺りとか、いろいろ映っておりまして。これは使わねば!と思って話の中に織り込むことにしました。
いや~、タイムリーな番組でした、あれは(笑)

麻菜さんへ捧げるお話ということで、教皇な紫龍とか、滝の前に座ってる紫龍とか、彼女が描かれたイラストを思い出しつつ書かせていただきました。
ご覧になっていない方はぜひぜひ、リンク集から麻菜さんのサイトへGO!なのです♪


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