桜雅~サクラミヤビ
(シュラ……シュラ、聞こえますか?)
突然、脳裏に誰よりも愛しい恋人の声が響いたのは、3月最後の金曜日だった。
(シュラ?)
日本へ一時的に帰国している女神・沙織の護衛役として同行している紫龍だった。
「ちゃんと聞こえるぞ、紫龍」
小宇宙の真髄を極めている黄金聖闘士を上回るほどの小宇宙に目覚めながら、その使い方がイマイチよくわかっていない紫龍が直接小宇宙に訴えかけてくる、という連絡手段を使ったのはこれが初めてだった。
(よかった、ちゃんと届いているんだな)
「ああ、小宇宙も感じられるし、声も聞こえている」
(そうか。多分長くは保たないから、手短に話す)
日本にある城戸邸からギリシャにある聖域まで、ピンポイントで特定の人間に小宇宙を飛ばして意思の疎通を図ることは、黄金聖闘士でも慣れた者でなければなかなか難しい。特に距離が離れれば離れるほど、より難しさも増すのだ。
(今、ちょうど桜が満開なんだ。もし聖域から出てこられるのなら、見に来ませんか? あなたにも見せたいんだ)
日本の桜の美しさは、紫龍から何度も聞かされていた。だから、シュラは紫龍に言ったのだ。いつか、日本の桜を紫龍と一緒に見てみたい、と。
折しも桜の季節に日本に戻ることになった紫龍は、満開になったのを見計らってシュラに連絡を取ってきたのだ。最愛の恋人が自分の何気ない一言を覚えていてくれたことが、シュラには何よりも嬉しかった。
「お前と一緒に、か?」
(はい。沙織さんにも一応お話したら、2~3日は聖域を留守にしても大丈夫だと言っていたので、どうかと思って)
「女神の許可が出ているのなら、誰も文句は言うまい。明日そっちに向かう。お前の小宇宙を頼りに行けばいいな?」
瞬間移動のできるテレポーテーションの能力は、牡羊座のムウなど限られた人間しか持っていないが、黄金聖闘士は全員が光速で動く能力を持っている。1秒間に地球を7周半できる能力を持ってすれば、普通の人間が使う交通手段を用いるよりもずっと速く移動できるのだ。
(はい)
「だったら、明日の9時にこちらを発つ。そっちは夕方だな?」
(そうだな。俺は城戸邸にいるから、待ってます)
「明日が待ち遠しいな。愛してる」
(俺も……)
シュラに応えようとしたのだろう。けれど、それは叶わずに紫龍の小宇宙は途切れた。
愛している、と最後まで聞けなかったのは残念だが、明日には直接言ってもらえるのだと、シュラは気を取り直した。
初めて小宇宙に直接語りかけるという連絡手段を使ったにしては、これだけの会話ができたのだから上出来だ。
シュラは鼻歌でも歌いだしそうな勢いで、旅仕度を始めた。
翌朝、シュラは小宇宙を燃やして聖域を発った。目指す先は、紫龍の小宇宙だ。日本とギリシャ、遠く離れていても、シュラは紫龍の小宇宙をはっきりと捉えることができた。その紫龍に向って自分を飛ばすイメージを抱いて、シュラは聖域を離れた。
そしてそれから1分と経たぬうちに。
シュラは見慣れない部屋にいた。
「シュラ」
最愛の恋人の声が、シュラを出迎えてくれた。いつもと同じ、薄紫の中国服に身を包んだ紫龍が微笑を浮かべていた。
「紫龍」
久しぶりに――と言っても離れていたのはわずか1週間ほどなのだが――会った恋人を抱きしめようとしたところへ、すかさず女神・沙織が声をかけてきた。
「よく来てくれましたね、シュラ。ご苦労です」
「女神。……お招きいただきまして、光栄です」
シュラは沙織の前に跪いて、臣下の礼を取った。聖域にいる時は女神に相応しく、古代ギリシャ風のドレスを身にまとっていることの多い沙織だが、今日は膝丈のスカートに襟のついたカットソーというシンプルな姿だ。全身から漂う気品と伝わってくる小宇宙はいつもの女神だが、見慣れない姿にシュラは一瞬戸惑って、しかしすぐに沙織も一般的にはまだ10代の少女なのだと思い直した。
「紫龍がどうしてもシュラを呼びたい、と言ったのですよ。この週末は天候にも恵まれるようですし、桜も見頃ですからね。堪能して帰って下さい」
「ありがたきお言葉、心より感謝申し上げます」
シュラは沙織に向かって深々と頭を下げた。
「私はまだ片づけなければいけない用事があるので、今日はこれで失礼しますね。明日は花見の宴席を用意させますから、一緒に行きましょう」
「はっ」
沙織は女神アテナの化身としてこの世に生を受けたが、公には世界に名だたるグラード財団の総裁という役割も担っている。今回の帰国は、財団の仕事によるものなのだ。
「紫龍も、今日はもういいですよ。あとは部屋で片付けますから」
「はい。俺もこの家の敷地から外には出ませんから、何かあったらすぐに駆け付けます」
紫龍の頼もしい言葉を聞いて、沙織はニッコリと微笑した。
「神聖闘士と黄金聖闘士がいるのですものね。心強いわ。もし万が一何かあったら、お願いしますね」
「任せて下さい」
「では、シュラ、紫龍。また明日ね」
「失礼仕ります」
シュラはもう一度深々と頭を下げた。そして部屋から出て行く沙織の後姿を見送った。
「荷物はこちらだけですか?」
「え? あ、ああ」
「では、部屋へお持ちします」
スーツ姿で体格のいい剃髪の男が、着替え程度しか入っていないシュラの荷物を部屋から運び出した。
「すまない、辰巳」
「とりえあず客室へ運んでおく。それでいいな、紫龍?」
「ああ、悪いな」
辰巳と呼ばれた剃髪の男は、紫龍に気軽な口を利いて部屋を出て行った。
「部屋は別なのか?」
「一応、そうしてもらった」
「俺はお前の部屋でいいんだが」
どうせ夜は同じベッドで過ごすのだからと匂わせると、紫龍はほのかに頬を染めた。
「辰巳は聖域で沙織さんや俺たちがどう過ごしているのか、全然知らないんだ。だから……」
突然現れたこの黄金聖闘士と紫龍が恋人同士だとは、まさか夢にも思わないのだろう。シュラはそう判断した。
「それより、シェフの吉田さんにお願いして、花見弁当を作ってもらったんだ。中を案内するついでに、受けとって庭へ出ませんか? 今からなら、ちょうど夕暮れ時から夜桜まで堪能できますよ」
移動時間は1分足らずだが、ギリシャと日本では8時間もの時差がある。シュラの周りは、ほんのわずかの間に朝から夕方へと様変わりしていた。
「夜桜か。綺麗なんだろうな、それは」
「綺麗ですよ」
シュラは微笑して自分を先導する紫龍について行った。
「ほう、これは……」
紫龍お勧めの花見スポットだという裏庭を見た時、シュラは思わず感嘆の声を上げた。
傾いた西日が桜の木を照らしている。そこには、枝を大きく広げた桜の木が10本ほど並んでいた。
赤みが差す西日に、ほんのりとピンク色に見える桜の花が映える。
「見事だな」
美しい光景だった。
「でしょう? これを見せたかったんです」
紫龍は桜の木の下にシートを敷いて、その上に厨房から受けとってきた三重に重なっている弁当箱を置いた。
「桜の花は下向きに咲くんですよ。だから、下から見上げるんです」
シートの上に座った紫龍は、シュラにも隣に座るように促した。シュラは促されるままに、手にしていた酒――シュラのために用意されたワインや日本酒の瓶が入っている袋をシートに置いて、紫龍の隣に座った。
「今年は桜が咲いてからまだ雨が降っていないから、ピンクが残ってる。ちょうどいい色合いだな」
「そうなのか?」
問い返すと、紫龍は頷いて続けた。
「ああ。桜の木は、咲く前は全体がぼうっと赤く見えるんだ。蕾は濃い目のピンクで、花が開いたら真ん中がピンク色で縁の方が白っぽくなる。でも雨に当たると、ピンク色が落ちてしまうんだ」
話しながら、頭上近くまで垂れこめている枝を指さした。その先を見つめると、確かに紫龍の言うとおり、桜の花は真ん中がピンク色で、縁に近づくほど淡い色合いになっていた。
「満開になると、相当迫力があるけど。花びらが散っていく所も綺麗なんだ」
「散り際も美しい、と話していたな、お前」
「覚えてくれていたんだ」
「当然だろう。お前が言ったことだからな」
嬉しさを隠せない様子の紫龍が愛しくて、シュラは1週間ぶりに恋人に触れた。頬に触れてそっと触れるだけのキスをする。
「あ!」
さらに抱き寄せて、もう少し深いキスを……とわずかに唇を離した瞬間。紫龍は何か思い出したような声をあげた。
「どうした?」
「そういえば、シュラは小宇宙で移動してきたんですよね?」
「そうだが?」
「聖域って、まだ朝でしたよね?」
「ああ」
「ひょっとして、朝ごはんを食べてからまだ時間が経ってないんじゃ……」
そんな心配をする紫龍も可愛らしくて、シュラはつい笑みがこぼれた。
「お前が昨日連絡を寄こした時に、そっちに着くのは夕方だと言っただろう? 着いたら即夕飯だろうと思ったからな、何も食ってない」
「そう、か……。すまない、俺はそこまで考えられなくて……」
潜在的な小宇宙はシュラを越えるほど大きいとはいえ、紫龍は黄金聖闘士たちと違ってこういう小宇宙の利用の仕方はまだ慣れていない。考えが及ばないのも無理はなかった。
「気にするな。それより、シェフの作った料理の中身が気になるんだがな、紫龍?」
「あ……今開ける」
一見何事も卒なくこなしてしまいそうに見えるのだが、紫龍は意外と不器用なところがある。農作業はよく手伝っていたらしいが、家事全般は不得手らしい。師匠である老師は滝の前に座したまま動けないため、老師の拾い子である少女・春麗が見かねて身の回りの世話をしてくれていたのだ、とシュラは紫龍から聞いていた。
この弁当も、自分が作れたらいいんだが……と呟きながら、紫龍は風呂敷を解いてお重を1段ずつ開けた。
桜の模様が入った黒い漆塗りのそのお重には、和食が詰め込まれていた。客であるシュラはスペイン人で欧州でしか暮らしたことがない、とシェフ吉田には伝えてあったのだが、せっかくだから和食を味わってほしい、と敢えてこういう料理にしたらしい。
「ほう。これは、見た目にも美しいな」
「ああ。さすが吉田さんだ。食べるのがもったいない」
紫龍も感嘆の声を上げた。
日が落ちて、赤から淡い青へとグラデーションを作る空の色が次第に濃くなって、深い藍色から黒に近づいて行く中で、シュラは紫龍と共に桜の花とシェフが用意した料理と、せっかくだからと口をつけてみたら思いのほか口に合った日本酒を堪能した。
紫龍もシュラに付き合って、少しだけ……と酒を口にした。
裏庭の桜の木は、母屋から漏れてくる明かりと、空から降り注いでくる月光でぼんやりと明るく照らされていた。それだけでも幻想的な光景なのだが、さすがに手元が暗いから、と紫龍が用意してきた太い円柱形の蝋燭が3本、ゆらゆらと揺れる炎が周囲を照らしてより一層幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「風が出てきたな」
紫龍がポツリと呟いたのは、お重の料理もとっくに二人の腹に収まって、シュラが日本酒を5合空けてワインの瓶を開けようとした頃だった。
辺りは完全に夜の帳が下りて、東の低い位置にあった月も少し高い位置にまで移動していた。
「そろそろ部屋に戻ろうか」
「そうだな。お前が風邪を引いたら大変だ」
「シュラ、これでも俺は聖闘士ですよ」
そう簡単に風邪など引かない、と続けようとする紫龍の口を、シュラは唇で塞いだ。気がつけば3時間ほど外で夜桜を楽しんでいたのだと、シュラは紫龍の触れた唇の冷たさで知った。
「冷えているな」
「シュラもだ」
「だったら、お互いに温め合うか?」
ベッドへ行こうと匂わせると、紫龍は小さく頷いた。
「満開の桜も、夜桜も、花見弁当とやらも、酒も堪能したからな。残るは、お前だ」
「シュラ……」
「じっくりと味わわせてもらうぞ、紫龍」
「……その前に、ここを片付けないと。沙織さんに叱られる」
そのままここで……となだれ込んでもいいのだが。紫龍の何気ない一言で、それは断念せざるを得なかった。
シュラも紫龍も女神を守る聖闘士。その女神である沙織に叱られるのだけは、避けなければならない。何にせよここは、沙織が日本において拠点にしている邸宅の裏庭なのだから。
「じゃぁ、さっさと片付けて部屋に戻るか。お前の部屋に入れてくれるんだろう、紫龍?」
「……ああ」
少しだけためらって。けれどはっきりと頷いた紫龍を、シュラはそっと抱きしめた。
2日後。
日本での花見を楽しみ、紫龍をしっかりと補充したシュラは、来た時と同様に小宇宙を使って聖域へ戻った。
2週間後、女神の護衛を終えたら聖域に戻ることを約束して。
Fin
written:2008.4.12
他ジャンルの話もそうなんですが。
自己分析をしてみると、私が書くお話ってたいてい長くなっちゃうんですよね(苦笑)
このお話は、「山羊龍の二人がお花見をする話」にしようと思いついて、3時間ほどで書き上げました。必要最低限の部分だけを書いても、これくらいの話にはなるのね~、と思った次第です。
この話を書いた2008年は、桜の咲く時期がちょうどヒマな時期と重なったこともあって、お花見も堪能しました。花冷えもありましたし、天候にも恵まれましたし、意外とお花が長持ちしてくれたので。
山羊さまと紫龍さんが満開の桜の下でお花見したら、絵になるだろうなぁ、と。ホントに単なる思い付きでサラッと書いたお話です。