ゆがんだ時計12

ゆがんだ時計12


12.二人のカプリコーン


 その日、紫龍は朝から教皇の間に詰めていた。
 沙織から、シュラが迎えに来ると伝えられてきた日は、今日。だが243年後の未来と違い、厳密な時計というものが存在しないこの時代では、いつ迎えが来るのかまではわからない。
 紫龍はエルシドや、見送りを許された童虎と共にセージやサーシャのいる教皇の間でその時を待っていた。
「お主、ずいぶん淡々としておるの。別れを惜しむ気持はないのか?」
「昨日、十分に惜しむ時間があったからな」
 不思議そうに尋ねてくる童虎に、エルシドは表情を変えずに答えた。童虎の言うとおり、紫龍を愛していると告げたエルシドの方が、童虎よりも平気そうな顔をしていた。
 いつその時が来るのか……
 はっきりとしない時間を待ち続けるのは、落ち着かなかった。
 サーシャやセージと昼食を共にする間も、紫龍はどこか上の空だった。
「遅いのぉ」
 太陽が西に傾きかけた頃、童虎がポツリと呟いた瞬間だった。
(っ!?)
 紫龍は、自分の右腕が疼くのを感じた。
「来る……」
 シュラがエクスカリバーを託してくれた右腕が、熱を帯びている。まるで、元の主を呼ぶように。
「未来からこちらに道が開かれます。神殿へ向かいましょう」
 そしてほとんど間を置くことなく、沙織から知らせてきたのか、サーシャがそう告げて皆を女神神殿へと促した。
 女神神殿の、聖域の頂点にあるアテナ神像の前に辿り着いた時、紫龍はシュラの小宇宙を近くに感じた。243年という時間を隔てているはずの、シュラの小宇宙を。
(俺を呼べ、紫龍!)
 不意に、シュラに呼ばれた気がした。
「シュラ!」
 促されるままに、紫龍は小宇宙を高めた。エクスカリバーを放つ時のように、高めた小宇宙を右腕に集中させる。
 黄金聖闘士であるシュラから小宇宙を移された右腕が、黄金の光を放ち始めた、その時。
 突如として空間が×字型に切り裂かれた。
 そしてその裂け目から現れたのは……
「シュラッ!」
 過去の時代に飛ばされた時は、もう二度と会えないかと思った山羊座のシュラ、その人だった。
 紫龍は思わずシュラの元に駆け寄った。
「紫龍、無事だったか?」
 笑いかけてくるシュラは、離れ離れになった日よりも少しやつれて見えた。心配してくれていたのだと一瞬で悟って、紫龍は衝動のままにシュラに抱きついた。
「シュラ……もう会えないかと思った」
「俺もだ、紫龍。お前が無事で良かった」
 抱き返してくるシュラの腕に、強く力がこもる。
 数日ぶりに感じるシュラの温もりと、シュラの匂いが、これ以上ないほどの安堵を紫龍に与えてくれた。
 愛しいと想う気持ちが湧き上がってきて、紫龍とシュラはどちらからともなく唇を寄せる。情欲を煽るためではなく、お互いを確かめ合うための穏やかなキスを交わした。
「再会の挨拶は済んだか、紫龍」
 唇が離れて見つめあう絶妙なタイミングを見計らって、全く動じない様子で声をかけたのは、セージだった。
 それを合図にしたかのように、紫龍ははっと我に返って、真っ赤になってシュラから離れた。
「も、申し訳ございません、セージ様、サーシャ様」
 慌てて、セージとサーシャの前に膝をついた紫龍に、サーシャは優しく微笑みかけた。
「良いのですよ、紫龍」
 セージとサーシャの名を聞いて、シュラも紫龍に倣って二人の前に跪いた。
「貴方は……」
「山羊座カプリコーンの聖闘士シュラでございます」
「紫龍を迎えに来たのですね。お役目、ご苦労でした」
「ありがたきお言葉、光栄にございます。243年後のアテナと教皇に代わり、紫龍が世話になりましたことを、お礼申し上げます」
 沙織よりも柔らかい、けれど同じ小宇宙を発するサーシャに、シュラは深々と頭を下げた。
「未来へとつながっている時間は短いのでしょう? あちらへ戻っても、元気で過ごして下さいね、紫龍」
「はい。様々なご厚情を賜り、心から感謝申し上げます」
 紫龍もサーシャに深く頭を下げて、立ち上がった。
「未来に戻っても、達者で暮らすのじゃぞ、紫龍」
「老師……」
 呼びかけてくる童虎に、紫龍は微笑い返した。紫龍が微笑い返すのを見て、243年後にいる童虎と全く変わらない姿にシュラは少し驚いたような様子を見せた。
「いつかお前に会える日を、楽しみにしておる」
「はい、老師」
 手を差し伸べてくる童虎の手を、紫龍はしっかりと握り返した。
「エルシド……」
 童虎の元から離れて、紫龍は黙って様子を見守っていたエルシドの前に進み出た。
「あなたには、どれほど感謝しても足りない。本当に、ありがとうございました」
「礼を言うのは俺の方だ、紫龍」
 どちらからともなく手を差し伸べて、紫龍はエルシドと握手を交わした。
「お前に会えて良かった」
「俺もです、エルシド」
 切なげな微笑を浮かべるエルシドに、紫龍も微笑い返した。
「紫龍、そろそろ戻るぞ」
 シュラに声をかけられて振り返ると、シュラが切り裂いた空間が揺らぎ始めていた。
「はい、シュラ」
 シュラの元に駆け寄ろうとした紫龍は、ふいに手を取られて強く引かれた。気がつくと、エルシドの腕の中に抱き締められていた。
「エルシド……」
 戸惑うように呼びかけると、エルシドが苦笑するのがわかった。
「昨夜あれだけ別れを惜しんだというのに、情けないな。いざとなったら、お前を離したくないと思ってしまう」
「当然だろう。俺の紫龍は、そう簡単に諦められる男ではない」
 言い返したのは、シュラだった。
「そういう相手ならば、貴方ほどの男がそこまで愛することもなかっただろうからな」
「君は……。そうか、君が紫龍の愛した男か」
 エルシドは紫龍を抱いている腕を解いて、紫龍の肩越しにシュラと向き合った。
「紫龍は俺が連れて帰る。彼は未来の聖域で、聖闘士たちの要としてなくてはならない男だ。この時代で、これから起こる聖戦に巻き込むわけにはいかない」
「シュラ……」
「それに何よりも、紫龍がいないと俺が困るんでな」
 建前を並べた上で本音をポロリと口にしたシュラに、紫龍は思わず微笑が浮かんだ。ニヤリと不敵にも見える微笑を浮かべたシュラと視線を合わせて、紫龍はもう一度エルシドと向き合った。
「エルシド、あなたの想いに心の底から応えることのできなかった俺を、許してほしい。俺はどうしても、シュラを思う気持ちを忘れることはできなかった」
「ああ、最初に会った時からそうだったからな。それをわかった上で、それでも俺はお前を愛さずにはいられなかった」
 告げるエルシドの顔が、切なげに歪む。
「お前のことは、決して忘れない」
「俺も、あなたのことは忘れません。あなたは誰よりも鋭く研ぎ澄まされた聖闘士だ。例え何があっても、信じた道を貫いてほしい」
 口早に告げて、紫龍は最後にエルシドの唇に触れるだけのキスをして、離れた。
「紫龍……」
「紫龍!」
 呆然として呟くエルシドの声と、早く戻れと呼びかけるシュラの声が重なる。
 シュラの元に駆け寄るや否や、紫龍はシュラの力強い腕に引き寄せられて、ぐいと抱き締められた。と同時に、シュラが地面を強く蹴って、紫龍もろとも時空の裂け目に飛び込んだ。
 紫龍とシュラの姿が消えると同時に、アテナ神殿に現れた時空の裂け目も消え、何事もなかったかのように元の景色に戻っていた。
「戻りましたか……」
「そうですね」
 喉の奥から声を絞り出すように呟いたセージに、サーシャは時空の裂け目が現れた場所を見つめながら頷いた。



 地面に足が着いた瞬間に、紫龍は強く閉じていた目を開けた。
「紫龍!」
「紫龍、良かった!」
 女神神殿の、神像の前にいるのだと自覚した途端にあちこちから声がかかって、駆け寄ってくる足音と小宇宙は……
「星矢、瞬……」
 いくつもの戦火を共にくぐりぬけた、青銅聖闘士の兄弟たちだった。
「間一髪で間に合ったな」
 ポツリと呟きながら、兄弟たちが駆け寄ってくるのがわかっていても、なおも紫龍を抱く腕を解かないのはシュラだった。
「シュラ……。ごめんなさい、でもどうしても最後に言っておきたくて……」
「わかっている」
 もう一度強く抱き合って、シュラはようやく紫龍を解放した。
「これ小僧! 手間をかけさせられた私に、真っ先に挨拶をせぬか!」
 すかさず、お叱りの言葉が飛んでくるのは現教皇であるシオンだった。243年前のシオンと同じ容姿をしているのに、同一人物とは思えない尊大な態度が酷く懐かしく感じられて、紫龍は心の中で軽く苦笑してシオンの前に膝をついた。
「私のためにご尽力いただいたこと、感謝申し上げます、シオン様」
「うむ、わかっておればよいのじゃ」
「お前より先に、女神に挨拶をするのが筋であろうが。全く、自分を最優先せねば気が済まぬ性格、いい加減にどうにかせい」
 ふんぞり返るシオンに、横から苦言を呈するのは童虎だった。
「良いのですよ、童虎。紫龍が無事に戻ってきてくれて、何よりです」
「沙織さん……心配をかけて、すみませんでした」
「元気そうで安心したわ、紫龍」
 サーシャよりもずっと親しんだ口調で話しかけてくる沙織に、紫龍は頭を下げた。
「でも、少し疲れた顔をしているわね。今日はゆっくり休んで、明日のお昼を一緒に食べましょう。詳しい話はその時にしましょう」
「はい、沙織さん」
「星矢もみんなも、わかりましたね?」
「はーい」
「ちぇっ、沙織さんがそう言うんじゃ、しょーがねぇや」
 沙織の一言で、質問攻めにしようかと思っていた瞬や、紫龍に飛びかかろうとしていた星矢は諦めて、教皇の間へ戻ろうとする沙織に従った。
「よう戻ったの、紫龍」
「老師……」
 膝をついている紫龍の前に、童虎がかがみこんで声をかけてきた。
 つい先刻まで紫龍が居た、243年前の聖域で見たのと全く同じ姿で、同じような人の好い笑みを浮かべる童虎の顔を見た瞬間に、紫龍の中で何かが弾けた。
「わしもシオンも、お前に会った記憶を封じられておっての。お前が過去に飛ばされてから思い出したのじゃ。じゃが、またこうしてお前に会えて……な、これ、紫龍!?」
 昨夜から堪えていた涙が、堰を切ったように止めどなく溢れてくる。紫龍は声をあげて、童虎にすがりついて泣いた。
「老師、老師……俺は……っ!」
 過去の時代に置き去りにしたエルシドも、セージもサーシャも、命がけで己の使命を果たして散った。目の前にいるこの師すらも、凄絶を極めた戦いの中で一度は命を落とした。
 それをわかっていながら、紫龍にできることは何もなかったのだ。
 なのに、逆に感謝していると告げられたことが、辛かった。
「紫龍……よう耐えたの」
 自分にすがりついてくる弟子の背中を、童虎は軽く撫でて宥めた。
「お前にも、わしやシオンと同じ悲しみを背負わせてしもうた。許せ、紫龍よ」
 童虎の言葉に、紫龍は首を横に振った。童虎のせいではない、伝えようとしても出てきた声は嗚咽に変わった。
「誰も死なせとうはないと思ったのは、わしも同じじゃ。じゃが、どうすることもできぬ」
 童虎に宥められて、髪を撫でられて。
 ようやく涙が納まってきた時だった。
「あ、おい、シュラ!?」
 慌てたようなアフロディーテの声に、紫龍は顔を上げた。
 振り返ると、気を失ったように目を閉じて脱力し、アフロディーテに抱えられるシュラの姿が目に入った。
「シュラッ!?」
 紫龍は童虎から離れてシュラの元に駆け寄った。
「シュラ、どうしたんだ、シュラ!?」
 アフロディーテの腕からシュラを抱き取って尋ねる。苦笑しながら答えたのは、アフロディーテだった。
「寝てるよ。よほど疲れてたんだろうね」
「寝てる!?」
 オウム返しにした紫龍の問いかけに答えたのは、シオンだった。
「お前が過去から戻ってくるのが今日だとわかってから3日間、ほとんど休まずに特訓を続けていたからな。お前が戻ってきて、安心したのだろうよ」
「特訓? どうして、ですか?」
「わからぬか、紫龍? シュラがどうやってお前を迎えに行ったか」
「それは、時空を……――まさか、シュラ!?」
 童虎に促されて、紫龍は思い出した。先ほど、シュラがどうやって自分を迎えに来たかを。
「シュラは右腕でしかエクスカリバーを扱えぬエルシドと違って、四肢の全てでエクスカリバーを使える。じゃが、エルシドと違って時空を切り裂くことはできなんだ」
「だが、お前を連れ戻しに行くためには、時空を切り裂く能力が必要だった。それ故に、特訓したのだ。私や童虎、アイオロスたちも協力してな」
 童虎の続きを引き取って、シオンが続けた。
「それで、こんなになるまで……」
 紫龍は腕の中に抱き止めたシュラを見つめた。
「済まない、シュラ。俺は……」
 エルシドの想いに応えてしまった自分を顧みて、紫龍は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。一度は納まった涙が、再び溢れ出してくる。
「自分を責めるでないぞ、紫龍」
 シュラを抱き締めたまま泣き崩れそうになった紫龍を止めたのは、童虎だった。
「シュラがこうなっておることもわかった上で、わしはアテナに頼んでお前に伝えてもらったのじゃ。エルシドの想いに応えるようにな」
「老師……」
「エルシドがお前を想っておったことも、お前がその想いに応えたことも、シュラは全て知っておった。夢神を倒して消滅した後もなお、聖衣にその小宇宙を残してエルシドがお前を守っておったことも」
 シュラには全て知られていた。
 予想はしていたが、過去へと自分を連れ戻しに来た時のシュラの様子と、童虎からはっきりと聞かされたことからそう確信して、再び溢れてきた涙でシュラの姿が霞む。
「シュラと戦って亢龍覇を使ったお前が無事に地上に戻るためには、聖衣に宿るエルシドの小宇宙による守りも必要じゃ。じゃが、お前がエルシドの想いに応えることをためらって、エルシドが想いを遂げることができなければ、それは叶わぬものとなる。結果として、わしはお前を守るためにエルシドを利用したのじゃ」
「それで、あんな……」
 残り少ない日々を、悔いのないように過ごせと。
 沙織を使ってわざわざそう伝えてきた童虎の真意を、エルシドの想いに応えるようにと促してきたその意図を、紫龍は理解した。
「お前が自分を責めることはないのじゃ。許せ、紫龍」
「おやめ下さい、老師」
 紫龍に向かって頭を下げる童虎を、紫龍は止めた。
「エルシドの想いに応えたのは、俺の意志です。老師から伝言をいただいた時には、俺はすでにエルシドと……。ですから、老師が責任を感じられることはないのです」
「紫龍……」
 童虎にはっきりと告げて、紫龍はシュラを抱え直して立ち上がった。
「シュラをちゃんと休ませてあげたいので、磨羯宮へ戻ります。ご心配をおかけしたこと、改めてお詫びします。そして俺を連れ戻すために尽力していただいたこと、皆さんに感謝します」
 紫龍はそう言い置いて、磨羯宮に戻るために踵を返した。



 磨羯宮に戻った紫龍は、シュラをベッドに横たえた。
 規則正しい寝息をたてるシュラの横顔を、傍らに座って見つめていた。
 過去の聖域に飛ばされるまでは、ほぼ毎日のようにシュラと共に眠っていた。なのに、こうして紫龍がシュラの寝顔を見た回数は、数えるほどしかない。その記憶を辿っても、こんなに疲れた様子で深い眠りに入ったシュラを見るのは初めてだった。
 シュラをここまで疲労させたのは他でもない自分なのだと思うと、申し訳なさで一杯になる。自分を連れ戻すために必死で努力していたシュラ。だが自分は……と顧みると、紫龍は言いようのない罪悪感に駆られた。
 同じ山羊座の聖闘士として、エルシドが紫龍に抱いていた想いを知っていたシュラ。それだけでなく、恋人である紫龍がそのエルシドの想いに応えたことも、シュラは知っていた。にもかかわらず、シュラは紫龍を迎えに来て、抱き締めて、何事もなかったかのように受け入れてくれた。
 心の中ではずっとシュラを愛していたとはいえ、そのシュラを裏切ったも同然の自分を。
(俺はもう、あなたに抱き締められる資格もないのに……)
 それでも、抱き締められたことが、こうして連れ戻してくれたことが嬉しくて仕方がない。
 端正な寝顔を見ていると、幸せだと感じてしまう。
「シュラ……」
 そっと呼びかけて、紫龍はその頬に触れた。
 目の前で眠る人が、間違いなくシュラなのだと。誰よりも愛する人なのだと、確かめたかった。
 滑り落ちてくる髪をかき上げて、唇を寄せる。
 起こしてしまわないように細心の注意を払って、紫龍は静かにシュラの唇に自分のそれを重ねた。
「……っ――……」
 唇を重ねたその時、重なっているシュラの唇がわずかに開いて、長めに息を吐き出した。
 シュラが目を覚ます予兆だと気づいた次の瞬間には、シュラはもう眠りから覚めていた。
「紫龍?」
「シュラ……目が、覚めたんですか?」
「ああ。かなり深く眠った」
 人の睡眠のサイクルは約90分だ、と。聖闘士になるに当たり、基本的な生理学を童虎から教えられた時に聞かされた知識を、紫龍は思い出していた。そういえば、シュラが倒れるように眠りに落ちてから、ちょうどそれくらいの時間が経過している。
「夢ではなく、ちゃんと戻ってきたな?」
 紫龍を見上げるシュラの手が伸びてきて、両頬を大きな掌で包まれる。
「ええ。迎えに来てくれて、ありがとうございました」
「お帰り、紫龍」
 そのまま紫龍を引き寄せてキスをしようとするシュラに、紫龍は思わず身を引いてしまった。
「どうした?」
「ごめんなさい、俺は……」
 問いかけてくるシュラと目を合わせることができずに、紫龍はシュラの手を解いて顔を背けた。
「さっきはキスしてくれただろう? どうして拒む必要がある?」
「だって、俺は……あなたという人がいるのに、エルシドと……」
「知っている。聖衣が教えてくれたからな」
「聖衣が?」
「忘れたのか? 黄金聖衣には装着者の記憶を蓄積する特性がある。お前がエルシドに初めて抱かれた時、彼は聖衣をつけていただろう?」
「あ……」
 シュラに指摘されて、紫龍はエルシドの想いに応えて初めて身を任せた時のことを思い出した。
「お前を連れ戻すために、俺は聖衣からエルシドの記憶を辿った。それでわかった。シジフォスが手記に残していたエルシドの相手がお前だったことも、エルシドが死んだ後も聖衣に小宇宙を残してお前を守ってくれていたことも、全てな」
「シュラ」
 話しながら、シュラはもう一度紫龍の頬に触れてきた。緩やかに紫龍を促して、視線を合わせてくる。
「エルシドは、歴代の山羊座の聖闘士の中でも俺が最も尊敬する聖闘士だ。そして、お前を守ってくれた恩人でもある。嫉妬心がないと言えば嘘になるが、それくらいのことで俺はお前を嫌いになったりなどしない」
「シュラ……」
「さっき、迎えに行った時もそう言っただろう? 俺はお前を愛している。お前はどうだ? 俺よりも、エルシドの方が良かったか?」
 優しく尋ねられて、紫龍は首を大きく横に振った。
「あなたでなければ、ダメだと思って……」
 きちんと答えようと思った声は、こみあげてくる涙で詰まってしまった。
「お前は生真面目な性格だからな。エルシドとのことを気に病んで、俺に気兼ねする気持ちはわからないでもない。だが、だからと言って俺が触れるのを拒まれる方が、俺は傷つくんだがな?」
「シュラ……シュラ、ごめんなさい」
 優しいシュラの口調に、再び涙が零れた。ポロポロと涙を流す紫龍を、シュラが抱き締めてくる。
 紫龍はそれに抗わず、シュラに覆いかぶさるように抱きついた。抱きついて泣く紫龍の髪を、シュラが何度も撫でて、指ですいていく。
「お前のことだ。俺に申し訳ないと思いながらも、エルシドの想いに応えたことは後悔していないんだろう?」
「それは……その、通りです」
「だったら、お前は二人のカプリコーンに愛されたことを誇りに思え」
「シュラ……――、はい」
 涙を収めた紫龍は、シュラの言葉にはっきりと頷いた。
 そんな紫龍を見て、シュラはニヤリと口の端を笑みの形に歪めた。
「もう、俺のキスを拒もうなんて思うなよ?」
「ええ、シュラ」
 頷くや否や、紫龍はたちまちシュラの腕に捕らわれて、ぐいと引かれたと思うと唇を奪われていた。
 声も吐息も奪い尽くすように、貪るようなキスが襲ってくる。
 気がつけば、紫龍はシュラに組み敷かれていた。
「ちょ、シュラ……」
「何だ、キスは許しても抱かれるのはダメなのか?」
「そうじゃなくて……」
 数日ぶりに触れるせいなのか、シュラの体が熱い。獲物を狙うような欲情した強い視線が紫龍を射抜き、牡の匂いが立ち上る。この数日間、焦がれるほどに求めていたものがようやく与えられる安堵感と、眩暈がするほどにシュラを欲する劣情が紫龍を支配する。
 それでも……とためらう理由があった。
「老師やシオン様と特訓して、疲れているんじゃ……?」
「ああ、それか。さっきよく眠って、かなり回復した。少なくとも、離れていた分お前を抱けるくらいにはな」
 いつものように、紫龍を誘うための笑みがシュラの顔に浮かぶ。
「シュラ……あなたって人は……」
 シュラに魅入られるように、紫龍は思わずうっとりと呟いた。拒むなどという選択肢は、完全に削除されていた。
「愛しています、誰よりも、あなたを」
 これ以上大切な言葉はない、というほどに恭しく紫龍は告げた。
 悲しみで彩られた情交ではなく、歓喜で互いを満たすために。
 紫龍はキスを求めてくるシュラの背中に、腕を回して抱き返した。



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