渚のInvitation2

渚のInvitation2



 200×年4月26日。
 日本におけるゴールデン・ウィーク初日。
 聖域から、12人いる黄金聖闘士全員と、教皇であるシオン、正規の聖闘士ではないが双子座のカノンが一斉に旅立った。これから5月6日の日没まで、彼らは聖域への一切の立ち入りを禁じられる。
 出発にあたり、聖域の入口である闘技場に集められた聖闘士たちは、女神である沙織から注意事項をいくつか受けた。
「修行地へ帰る方はいいですが、一般の観光地へ旅行に出られる皆さん。くれぐれも、小宇宙を使って移動してはなりませんよ。自動車や飛行機、電車、バスなど乗り物を利用するようにして下さいね」
 黄金聖闘士ともなれば、全員が光速の動きをマスターしている。普通の人間が移動の際に使う交通機関など、彼らにとってはスローモーションにも等しい。だが、旅行に行く者は一般人として振舞うこと、というのが女神からの絶対命令だった。
「また、旅行先の道路や施設を破壊しないように、力の加減には十分注意して下さい。もし破壊されて弁償するような事態になれば、グラード財団は一切関与しませんから、そのつもりで」

 つまり、旅行中に何か壊したら自分で弁償しろ、ということである。

「では、皆さんそれぞれにバカンスを楽しんで、リフレッシュして帰ってきて下さいね。お土産、楽しみにしていますよ」
 ニッコリ微笑して、ちゃっかりお土産もねだるしっかり者の沙織であった。
 聖域を発った山羊座のシュラは、まずは日本の首都である東京へ向かった。東京にある城戸邸には、旅の同行者である紫龍がいる。日本とギリシャでは時差もあるため、まずは東京で1泊して、それから目的地である沖縄へと発つことになっていた。
 紫龍と共に沖縄へ飛び、グラード財団が所有するマリンリゾートホテルに着いたのは、翌27日の午後だった。
「総帥より、丁重にお迎えするようにと仰せつかっております。まずはこちらのお部屋でごゆっくりお過ごし下さい」
 現在の総帥である沙織の叔父であり、前の総帥・城戸光政の子息である紫龍が同行しているということで、二人はホテルの中でもかなりランクの高い、リゾート会員専用のスイートルームへと案内された。
「私どもコンシェルジュが24時間体制で隣のラウンジに待機しておりますので、いつでもお声をおかけ下さい」
 南と東の2面にある大きな窓から海が見える、角部屋のスイートルーム。しかも、扉を開けたら会員専用のラウンジがある、という部屋であり、かつ二人のためのコンシェルジュが常に待機している、という歓迎を受けた。
「ありがとう、お世話になります」
 コンシェルジュが出て行って、部屋には二人が残される。
 荷物はポーターによって――紫龍は自分よりも非力な人間に預けることをためらっていたのだが――部屋に運び込まれていた。
 海が見渡せる部屋には、体格のいいシュラが横になっても十分に余裕があるダブルサイズのベッドが2つ並べて置かれており、ベッドと向かい合うようにソファセットとテーブルが置かれている。窓を閉めていても、部屋の中にまで波の音が微かに聞こえてくる。
「さすが、いい部屋だな。お前を同行者に選んだのは正解だった」
 言いながら、シュラはカウチタイプのソファに座り、肘掛にもたれかかった。
「こういうことを見越して、俺を同行させたんですか?」
 ソファに座り込むシュラに倣って、紫龍も一人掛けのソファに座る。
「俺はギリシャ語とスペイン語と英語とフランス語はわかるが、日本語はわからん。こういう場所では英語でも通じるのはわかっているが、日本語の使えるお前がいると助かるからな。ここまでのオプションがあるとは、さすがに予想外だった」
 そう話して、シュラはサービスだと出されたシャンパンを注いだグラスを口に運んだ。
「お前がアテナの叔父に当たるとはな」
「沙織さんは城戸光政の孫娘ということになっていますから、彼の息子である俺はそういうことになりますね」
 シュラに答えながら、紫龍もアイスティーのグラスに手を伸ばした。
「俺がテーブルマナーを叩きこまれて、ついでにあちこちの洋服屋に連れ出されたのはこういう理由だったんですね」
 いつもは中国服で過ごしている紫龍だが、今日はコットンパンツにジャケットにシャツ、という出で立ちだ。見慣れないこの姿も、沙織の指示で揃えさせられたんだろう、とシュラは推測した。
「よく似合っている」
「そう、ですか……?」
 こういう賛辞には慣れていないらしい。紫龍は少し照れたような表情を浮かべた。
「このホテルのフレンチレストランは、ディナータイムにはドレスコードがあるようだからな」
「ドレスコード?」
「男性はジャケットを着用しないと入店できないように決まっているということだ。女性もラフな格好をしているとレストランには入れない」
「そんなことがあるんですね」
「格調の高さも売りにしている、ということなんだろう」
 言いながらあっという間にシャンパンを飲み干すシュラも、黒いカジュアルスーツにシャツ、という服装だ。
「テーブルマナーまで特訓してたのか?」
「ええ。俺は箸でしか食事をしたことがないので」
「……なるほどな」
 手酌でシャンパンを注ぎ足しながら、シュラは心の中で苦笑した。
 紫龍は日本で生まれ育っている上に、修行地は天秤座ライブラの童虎がいる中国。ナイフやフォークを使って食事をする習慣とは無縁だった、ということは容易に推測できる。
「それは悪いことをした。だが、覚えておいて損はないぞ。どこかで役に立つかもしれん」
「そうでしょうか」
「習得する技術や学ぶ知識に無駄なものはない。そう思っておけばいい」
「……そうですね」
 アイスティーのグラスを手に、紫龍ははにかんだように微笑した。その微笑を見ながら、シュラは心の中でほくそ笑んでいた。
(この微笑を、これから10日間独り占めできるわけだ。ふっ、老師からの嫌味の一つや二つ、安いものだ)
 口の中で広がるシャンパンの芳醇な香りと弾ける気泡を味わいながら、シュラは思い出していた。出発前、紫龍の師匠である童虎と顔を合わせた時のことを。

(せっかくの休みじゃ。久しぶりに紫龍と五老峰でゆっくり過ごそうと思ったのじゃがのぅ)
 復活して外見は18歳になったが、口調は相変わらず古臭い。シュラよりも背が低いのだが、前の聖戦を戦い生き残った彼の小宇宙は、260年以上生きているとは思えないほどに強大だ。
(まさか、お前が先に紫龍を同行させるようにとアテナに願い出ていたとは思わなんだ。紫龍は今やワシのたった一人の可愛い弟子じゃというに)
 ブツブツと大人げなく不貞腐れる童虎に、シュラは言ってやったのだ。
(ですが、私が紫龍をあなたから遠ざけたことで、あなたは教皇とお二人で過ごせるのですから、いいではありませんか)
 シュラにそう言われた瞬間、童虎の頬に朱が差したのをシュラは見逃さなかった。
 何のかんのと言いつつ、童虎も240年以上もの間恋人関係にある教皇シオンと、二人きりで水入らずの時間を過ごせるのが嬉しいのだ。

(むしろ感謝していただきたいですね、老師)
 童虎に向って直接口に出すことはなかったが、シュラは心の中で呟いていた。
「ところで紫龍、今夜は何を食べに行く?」
「これはあなたの休暇なんですから、あなたのご希望に合わせますよ」
「そうか。では、お前が特訓したテーブルマナーをさっそく披露してもらおうか」
「……ということは、もしかして……」
「フレンチだ」
 微笑が消えて表情が強張る紫龍も可愛らしい、と内心で思いながら。
 シュラは2杯目のシャンパンを干した。

 沙織の命令で叩きこまれたのだ、という紫龍のテーブルマナーは完璧だった。本格的なフレンチのテーブスセッティングにも臆することなく、一緒に食事をするシュラに対しても不快感を与えることなく、かつとても自然な仕草で食事を進めていた。
 男性は襟付きのシャツにジャケットを着用するべしというドレスコード付きの、高級フレンチレストランを出た後、シュラはラウンジで1杯引っかけて……と行きたい気持ちを抑えて、紫龍と共に部屋に戻った。そして、二人で旅の相談をする。沖縄に滞在するのはあと9日、その間にどこに行くか、何をするかをある程度決めなければならないのだ。
「じゃぁ、30日に水族館に行って、次の日もどこかへドライブにでも出かけて、あとはマリンスポーツでも適当に楽しむとするか」
 シュラはウイスキーを、紫龍はお茶で咽を潤しながら、旅の予定を決める。
 あらかた決まった頃、紫龍は目をしぱしぱさせながら眠そうな仕草を見せた。
「どうした、眠いか?」
「え……あ、ええ。すみません」
「謝ることはない。いつも早く寝てるんだろう?」
「あ、はい。こんな時間まで起きてることは珍しいので」
 こんな時間と紫龍は言うが、時計を見るとまだ9時半。シュラにとってはまだまだ宵の口といった時刻だ。
(いったい何時に寝てるんだ、コイツは?)
 内心思いつつも口にも表情にも出さずに、シュラは恐縮しきってしまった紫龍に微笑して見せた。
「飛行機や車なんて慣れない移動手段を使った上に、混雑した場所に行ったからな。慣れないことをした上に、慣れない人間と慣れない場所にいるんだ。疲れたんだろう」
「すみません」
「謝らなくていいと言っただろう? 風呂にでも入って、もう休め」
「はい、そうさせてもらいます」
 紫龍はシュラの言葉に素直に頷いて、ソファから立ち上がった。
「タオルとバスローブ、使ったのがわかるようにしておきますね」
「ああ、すまないな」
 紫龍がバスルームへ消えて、少し経った頃。
 シュラは思わぬ方向から明かりが漏れてくるのに気づいた。
(ん? 何だ?)
 何となく気になって視線を向けて……シュラは、固まった。
(こ、これは……っ!?)

 窓の向こうに、裸の紫龍が見えたのである。

(そういえば、バスルームがガラス張りになっているんだったな、この部屋は)
 鼡径部ギリギリまで見える紫龍の裸体に、思わず視線が釘付けになった。紫龍の裸を見るのは初めてではない。なにせ、初対面の時にいきなり見てしまったのだから――もっとも、聖衣を切り刻んで脱がせたのは、他でもないシュラ自身だったのだが。
 だが、下心に溢れたこの状況で、このシーンはあまりにもマズい。
 旅行に来ている間、少しずつ紫龍との距離を縮めて思いを遂げようという思惑が、ヘタをすれば水泡に帰してしまう。
 ガラス窓の向こうにいる当の紫龍は、部屋から見られていることに全く気付いている様子はない。このまま黙って紫龍の入浴シーンを鑑賞してもいいのだが……抑えが利かなくなる確率の方が高い。
 シュラは軽くため息をついて、立ち上がった。
(ここは、やはり教えてやるべきだな)
 バスルームと部屋を仕切っているガラス窓に近づいて、コンコンと軽く叩いてやる。浴槽に湯を張ろうと蛇口をひねった紫龍が音に気付いて顔を上げる。はらりと肩から落ちた長い黒髪が裸体を隠してしまったのを、シュラは少しだけ残念に思いながら、ニヤリと笑って見せた。
「見えてるぞ、紫龍」
 声は届かないだろうが、口の動きと窓の外に見えるシュラが目に入って、紫龍は一瞬で状況を把握した。
「っ!?」
 あっという間に顔を真っ赤にして、紫龍は慌てて中からブラインドを締めた。白いブラインドが瞬く間に紫龍の裸体を隠してしまう。
 じっくり観察したい気持ちはヤマヤマだったのだが……

(あんな風に照れる紫龍が見られただけでも、良しとするか)

 本体は、沖縄にいる間にゆっくりじっくり手に入れればいい。
 そのために仕組んだ旅なのだから。
(まだ時間はある)
 残された9日の間に、紫龍を落とす自信は余るほどにある。
(真っ赤になった紫龍も、可愛かったな……)
 シュラは、たった今自分が目にした光景を思い出しながら、ウイスキーを口に運んだ。



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