Wish you were here

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Wish You Were Here



「………」
 不意に目が覚めた。
 時計を見ると、針が差しているのは1時。真夜中だった。
 いつもなら、一度寝入ってしまったら朝まで目が覚めることはない。
 俺は寝返りを打って、目を閉じて。
 無理にでももう一度眠ろうとした。
 けれど、一度はっきりと意識が覚醒してしまったせいか、そう簡単には眠りが訪れてくれない。
 俺は深いため息をついた。
(眠れないか、手塚?)
 こんな時、彼が側にいてくれたら。
 我知らず、俺はそんなことを思い始めた。


「どうしたんだい、こんな時間に?」
「お前の声が聞きたくなった。……そんな理由では、ダメか?」
「いや。大歓迎だよ」
 関東大会1回戦が終わった3日後。
 肩を痛めた俺は、療養のために学校附属のリハビリ施設に入ることになった。施設があるのは、九州の宮崎。完治するまでには、最低でもひと月はかかる。

 ひと月東京を、学校を離れる。

 それは同時に、彼に会えなくなることを意味していた。
 明日は飛行機で宮崎へ発つ、というその前夜。
 旅支度を終えた俺は、どうしても彼の声が聞きたくなって、彼の顔が見たくなって。生まれて初めてわがままを言った。
 制止する祖父の声を振り切って、俺は乾のマンションに駆け込んできた。
「支度はできたんだ?」
「ああ。送れる物は全て送って……後は明日、俺が向こうへ行くだけだ」
「そっか。寂しくなるな」
「そうも言っていられないだろう。まだ、ようやく関東大会の1回戦を勝ったところだ。全国への切符を手にしたわけではない」
「そういう意味じゃないよ、手塚」
 テニス部の事を口にすると、乾は苦笑しながら手を伸ばして俺の頬に触れてきた。
「そりゃぁね、手塚とテニスできなくなるのは当然寂しいけど。手塚と会えなくなることが、俺は寂しいって言ったんだ」
「乾……すまない」
 俺は少しの間、まじまじと乾を見つめて、思わず視線を逸らしてしまった。
 こういう事態を招いてしまったのは、他ならぬこの俺だ。そう思うと、いたたまれなかった。
 分厚いレンズの奥に隠された乾の目はとても澄んでいて、その瞳に浮かぶ優しい光に吸い込まれそうになる。ずっと見つめていたいという思いと、見つめられるのが辛いという思い。相反する気持ちが俺の中で渦巻いていた。
 けれど俺のそんな心の内も、乾には手に取るようにわかっているのだろう。
 頬に触れていた乾の手が頬を滑り、指が耳付け根を撫でてそのまま顎の骨をなぞり、おとがいを撫でて俺は上向かされた。顔を上げると、俺を見下ろしていた柔らかい瞳に視線を絡め取られた。
「手塚は? 寂しくない?」
 おとがいを撫でた手が首へと滑り降りてきて、親指と人差し指を顎の下に添えられて、俺は乾から視線を外せなくなった。
「俺と会えなくなっても、平気?」
「平気だったら……今、ここにはいない」
「それもそうだね」
 ため息混じりに頷いた乾との距離が、近づいた。そう思ったら、俺は乾に抱きしめられていた。
 乾の匂いを感じて、乾の体温に包まれて。
 合わさった胸からは、乾の鼓動が伝わってくる。
 しばらく会えない、こうして抱きしめられることもない。
 そう思うとたまらなくて、俺は乾を強く抱き返した。
「抱いていい? それとも、何もせずにただ一緒に寝るだけにするかい?」

 本当は俺を抱きたいくせに。

 ズルイ乾はそれを隠して、わざと俺に答えさせようとして、誘うように軽いキスを落としてくる。
 いつもなら睨み返して意地を張ってしまうけれど、今はただ、少しでも長く、乾を感じていたかった。
「抱いてくれ」
 何の躊躇いもなく、俺は素直にそう告げていた。
 夏の夜は短い。
 今の俺には、つまらない意地を張っている時間などなかった。
 乾はただ柔らかく俺に微笑い返して、俺の眼鏡を取り上げた。
「じゃぁ、手塚の気が済むまで抱いてあげるよ」
 告げる声は優しく。
 言うや否や、激しいキスに俺は翻弄された。
 そのままベッドへ押し倒されて、俺と乾は性急にお互いを求め合った。


 呼吸とともに上下する胸に頬を預けて、俺は乾に寄り添っていた。
 乾の吐息が、寝息へと変わっていくのをただ感じていた。
 何度も達した名残で、体は満たされたと同時に疲れている。
 けれど、俺は何故か眠れなかった。
 俺の側にいる乾の、ちょっとした変化も見逃したくないと思っていた。
 その全てを覚えていたいと思っていた。
 こんな風に、眼鏡を取り去って仰向けで眠る乾を見ることができるのは、俺だけだ。
 今はただその優越感に浸って、乾のすぐ側で、乾の温もりと呼吸を感じていたかった。
 この夜が明けたら、しばらく会えなくなってしまう。
「眠れない?」
「!?」
 不意に声をかけられて、俺は弾かれたように乾を見た。眼鏡をかけていなくても、この距離ならば乾の顔ははっきりと見える。  
 寝息をたてていたはずなのに、乾の目は醒めているようだった。しっかりと俺を見つめ返して、優しく静かに話しかけてきた。
「眠れないか、手塚?」
「乾……。すまない、起こしてしまったか?」
「いや、大丈夫だよ。ちょっと…うとうとしてただけだからね」
 気づかれていたのか。
 俺が乾をそっと見ていたことも、寝息へと変わっていくその呼吸さえも感じていたいと、様子を伺っていたことも。
 そう思ったら、何となく気恥ずかしくなった。
 お互いに眼鏡はかけていなくても、この至近距離ならばちょっとした表情でも相手に見抜かれてしまう。特に乾は、洞察力に優れている。
 隠せるはずがなかった。
「眠れないなら、手塚が寝るまで抱いててあげようか?」
「バカなことを言うな」
「いいじゃない。しばらく会えなくなるんだから」
 クスクスと笑う乾の胸が、小刻みに上下する。
「たまには、こういうのも悪くないだろ?」
 渋る俺をよそに、乾はさっさと俺を抱き込んだ。乾の鼓動と温もりに包まれる。
「明日の朝まで、こうしていればいいよ」
 穏やかな乾の声と、規則正しい呼吸に導かれるように、俺はいつしか眠りに引き込まれていった。


 あの日、結局朝になって乾に起こされるまで、俺は完全に熟睡していた。
 こうしてベッドに横たわって、目を閉じていると、今でもはっきりとあの時の乾の温もりを思い出すことができる。けれどそれは、かえって俺に乾がここにいないことを思い知らせることになった。
「乾……」
 心の中でだけ呼ぶつもりだったそれは、声になって出てきた。
 我ながら、女々しいことだ。
 そう思って、思わず苦笑した。
 その時、何かが空気を振動させる音が耳に入ってきた。
 ここはリハビリの病棟で、俺のいる部屋の周辺に電波によって支障が出る機材は置かれていない。そのせいか、携帯電話の電源を切ってほしい、という要請は病院側から出ていなかった。その携帯電話が小刻みに振動していた。

 まさか、と思った。

 こんな時間に、遠慮も何もなく俺に電話をかけてくる人間を、俺は一人しか知らない。
 悪戯ではない。
 その証拠に、電話の振動はまだ続いている。
 いや、俺がそうあってほしいと思っているだけで、間違い電話かもしれない。
 頭の中で、期待と否定が渦巻いていた。
 けれど、それはわずか一瞬のことだった。手を伸ばして取り上げた電話の画面に表示された発信先は、俺が待ち焦がれていた相手だった。

 乾貞治。

 眠れない夜に、乾がそれを見透かしたように電話をかけてくる。
 今起きているこの出来事は、現実のことではなくて、夢の中で起きているのではないかと。そう思いながら、俺は乾からの電波を受け取った。
「乾か?」
「起こしちゃった…わけじゃなさそうだね、手塚」
 はっきりした声で電話に出た俺に、乾は小さく笑いながらそう言った。耳元から聞こえてくる乾の声が、ひっそりとした病室の、夜の空気に溶け込んでいくようだった。
「どうして……わかったんだ?」
「何が?」
 尋ねた俺に、乾は心当たりが全くない、といった口調で返してきた。俺のためにかけてきたくせに、わざと焦らして言わせるつもりか?
 苛立つ気持ちが、俺の声に棘を持たせた。
「俺が眠れずにいたことが、だ」
「眠れなかったんだ?」
「……ああ」
「そっか。やっぱり、シンクロしてるのかな、俺たち」
「乾?」
 一人で納得してしまっている乾に、俺は取り残されたような心地がした。知らず問い返した俺に、乾は笑いを含んだ声で続けた。
「俺もね、ベッドには入ったんだけど、なかなか寝付けなくてね。何となく手塚の声が聞きたくなって、電話してみたんだ。もし出なかったら、それはそれでいいや、と思ってたんだけど。……まさか、手塚も同じだったとは思わなかったよ」

 ね、シンクロしてるだろ?

 そう言って喉の奥で笑う乾につられて、俺もつい苦笑した。声には出なかったけれど。
 夜の闇に遠慮するような、ひそやかな声で乾が話すせいだろうか。
 それとも俺が、乾がここにいたら、と思っていたからだろうか。
 すぐ側に乾がいるようで、でも実際にここにいるのは俺一人で。
 叫び出したいほどの嬉しさと、言葉にできない寂しさが同時に襲い掛かってくる。  
 目の奥から、じわりと涙が出かかった。
「手塚?」
 黙ってしまった俺の様子を、乾が伺ってくる。
「お前が……お前が、ここにいればよかったのに」
 告げる声が震えていた。一気に噴き出してきた涙が、俺の視界を揺らしていた。
「ごめんな、手塚。会いに行けなくて」
「どうして謝るんだ」
 こんなことになったのは、乾のせいではないのに。
 ただ俺が八つ当たりをして、わがままを言っているだけなのに。
 乾が謝ることではないのに。
 いつでも、どこまでも俺を甘やかす乾が、何故かもどかしかった。
「今、手塚の傍にいてあげられないから。お前が泣いてても、俺はお前の涙を拭うことも、抱きしめることもできないから」
「俺は泣いてなどいない。見ているような口を聞くな」
「そうだね、ごめん」
 涙声になっても強がることしかできない俺に、乾はため息混じりの柔らかい声でそう告げた。
「まだ、眠れそうにない?」
「お前はどうなんだ?」
 尋ねてきた乾に、問い返してやる。乾は苦笑混じりに呟いた。
「もう少し、こうして手塚の声を聞いていたいんだけど。ダメかな?」
「俺は、構わない」
「そうか。じゃぁ、電話はつないだままでいようか」
 それから、俺と乾はとりとめもない話をして。
 何度か意識が飛びかけた俺の様子を察した乾が、最後に告げた。
「早く治して、帰っておいで、手塚」
 生返事をした俺に、続けて言った。
「帰ってきたら、ちゃんとしよう」
 そう言って、耳元で軽くキスをする音を夢うつつで聞いた俺は、それを最後に眠りの底へと引きずりこまれた。
 あの夜と同じように、乾の温もりに包まれるのを感じながら。


Fin

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