甘い手

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甘い手


 振り向けばいつもそこに彼がいた。
 時々視線を感じて振り向けば、必ずその先に彼がいる。
 自分が振り向くと、必ず彼は自分にしかわからない微笑を向けた。
『お前が好きなんだ、って言ったらどうする?』
 疑問形で告白されたのが、桜の時期。新学年になったばかりの春はとても忙しくて、季節はあっという間に夏の入り口まできてしまった。
 告白はされたものの、その後二人の関係には何の進展もなかった。同じ学校の同級生で、部活が一緒の仲間。それ以上でも、それ以下でもない。
 乾も、自分に何かしてくるわけでもなく、まぁされても困るのだが、他のテニス部員に接するのと同じように、普通にしていた。
 ただ、告白された後から、手塚は乾の視線に気づくようになった。
 試合で集中している時は、自分の全てを見透かそうとするような鋭い視線を。
 普通に練習している時や、廊下ですれ違う時には微笑を溶かした優しい視線を。
 幼い頃から見られることには慣れていたが、乾の視線は今までに経験してきたものとは違っていた。その視線は、どこか面映いような、心地いいような、複雑な感覚だった。ただわかることは、それが不快ではないということだ。
「……乾、いい加減飽きないのか?」
「何が?」
 データを書き込んだノートに没頭するふりをして、ずっと自分を見ている。そんな乾に、手塚は読んで本から顔をあげて、声をかけた。
「さっきから、ずっと見ているだろう」
「手塚を? それともノートを?」
 乾は、わかっていてわざと手塚に問い返してきた。手塚は、一瞬どう答えようかと考えた。
 自分を、と答えたならば、乾の口からは歯が浮きそうなセリフが飛び出すに違いない。この2ヶ月の間、表向きは普通にしていたが、ことあるごとに口説き文句とも解釈できるような言葉を、会話の中に織り交ぜてきたのだ、乾は。
 ノートを、と答えたなら、恐らく乾は何食わぬ顔で、飽きない、と答えるだろう。
 皮肉なことに、手塚には乾の返事が予想できた。
「両方だ」
「飽きないよ。手塚を見るのも、ノートを復習するのもね」
 間を取って答えたつもりが、結局は乾の思惑通りの答えになっていたらしい。乾は右手の人差し指で眼鏡のブリッジをくい、と上げる。得意げになる時の乾のクセだった。
 そう思いかけて、手塚の思考が一瞬止まる。そんなクセまでわかるようになるほど、この2ヶ月で自分と乾の距離が縮まっている。
 乾が手塚に告げた「好きだ」という言葉は、呪文のように手塚の心を縛る。そんな言葉を言われて意識せずにいられるほど、手塚は無神経ではない。
「そうか。それで、そのデータは何のデータなんだ?」
 できるだけ不機嫌そうに聞こえるように努めて、手塚は尋ねた。
青学テニス部きっての頭脳派である乾は、膨大なデータを集め、分析し、相手の出方を予測してプレーする。部活中でも暇さえあればデータを収集しているし、休み時間に偶然彼を見かける時も、ノートを見ながらイメージトレーニングをしている。
 乾の返事は、手塚にも想像がついた。
「4月のランキング戦で、英二と対戦した時の手塚のデータだよ。あの英二をベースライン上に釘付けにして、ネットに出させないあたり、さすがだね」
 乾流に言えば、予想通り、といったところだろうか。乾の言動は、複雑なようで意外と単純だ。一瞬、聞くのではなかったと、手塚は軽くため息をついた。
「それより、お茶のおかわり、いるかい?」
 そんな手塚の様子を見ているのか、いないのか。乾はテーブルに置かれた手塚の湯飲みが空になっているのに気づいて、聞いてきた。
「もらおうか」
 手塚の言葉に黙って頷いて、乾は新しい茶葉を急須に入れ、ポットから湯を注いだ。ふたをして、きちんと時間を測って蒸らす。そして頃合いを見計らって、湯飲みに注いだ。
「いい香りだな」
 1杯目を飲んだ時に思ったことを、手塚はようやく口にした。日頃は緑茶よりも紅茶を口にすることが多い手塚だが、いったいどこで調べてきたのか、乾が煎れるお茶は手塚の好みによく合っていた。
「だろう? 桜のお茶なんだ」
「桜なのか」
 言われて香りを嗅いでみると、ほのかに桜餅のような香りが漂う。口に含んで飲み下すと、口いっぱいに花の香りが広がった。
「春限定発売だから、ってね、母さんが見つけてきたんだ」
 手塚が乾のマンションへ上がりこむのはこれが2度目。彼が、お茶を煎れるのが上手いということを、手塚はこの日初めて知った。
「そうか、言われてみれば確かに桜だな」
「だろう? 花が咲いたり散ったりっていうのを見るのもいいけど、こうしてお茶として楽しむのも、なかなか乙だと思わない?」
「お前がこういう、侘び寂に敏感だとは思わなかったな」
「俺だって、数字ばかり眺めてるわけじゃないさ。知ってるだろう?」
 乾がデータや数学のみならず、音楽にも詳しいことを知ったのは、告白された日のことだった。クラッシックに関しては、やはり部員の中でクラッシックを好む不二と対等に話ができるくらい詳しい。それだけでなく、民俗音楽系や雅楽にも通じているというのは、手塚にとって驚くべきことだった。
 その時に手塚がバイオリンの音を好む、というデータを収集した乾は、今日のBGMにチェロの曲を選んでいた。同じ弦楽器でも、チェロはバイオリンより音域が広く、低くて甘い響きを持っている。バイオリンが好きなら、他の弦楽器も好きだと判断したのだろう。
そのチェロが、バロックからタンゴ、ポップスに至るまで、さまざまな音楽を奏でていた。
「で、今日は誰のCDなんだ?」
 静かで荘厳な『G線上のアリア』が流れるのを聴きつつ、手塚は尋ねた。
「一番人気のチェリスト、ヨーヨー・マだよ。有名な人だから、聞いたことあるだろ?」
「ああ、ヨーヨー・マなら俺でも知ってる」
 名前を聞いて、手塚の脳裏にも東洋系で、眼鏡をかけた人の良さそうな顔が浮かんだ。
「そのベスト・コレクションだよ」
「……綺麗な音だな」
「だろう? 彼は、どんなに速いフレーズを弾いても、余計な雑音がしない。テクニックも表現力も、超一流なんだ」
 乾が説明する声は、音楽の邪魔をしない。むしろ、流れている曲に溶け込むかのような響きを持っていた。
 日頃から、怒鳴ることも声を張り上げることもない、淡々とした乾の声。その声が自分に向けられるのを心地よいと思う自分がいることを、手塚は自覚するようになっていた。
 マンションの最上階にある乾宅のリビングは、見晴らしがいい。高いビルが林立する都会の風景も、遠くに見える副都心の風景も独り占めしているような気分になる。
 都会の風景を眺めながら、乾の煎れた美味しいお茶を飲んで、乾が選んだBGMを聞き流す。手塚は、自分の部屋でくつろいでいるのと同じような、いやむしろ自宅よりリラックスしているような感覚で、ソファに背中を預けた。そのまま軽く目を閉じると、流れている音に抱かれているような感覚を覚える。
 オーケストラと哀愁にあふれたメロディを奏でるチェロ。
 ボーカルと共に、物憂げな、それでいて穏やかな旋律を歌うチェロ。
 そして、一転して明るく弾むような曲。
 様々な表情を見せるチェロの音の波に身を任せるのは、とても心地よかった。
「手塚?」
 いったいどれくらいの間、そうしていたのだろう。
 閉じている目で感じていた光が、急に遮られた。目を開けると、後ろに立った乾が上から覗き込んでいた。
「なんだ?」
「いや、寝ちゃったかと思ってね」
「寝ていたら、どうだというんだ?」
「キスして起こしてやろうかと」
「冗談もほどほどにしろ」
 笑いながら言う乾の頭を、軽く殴ってやろうと振り上げた手は、あっさりかわされた。乾は手塚の手をかわし、そのまま掴んだ。ラケットを握る、手塚の利き手である。振りほどくのは簡単だが、手塚はそれをしなかった。
「半分は本気なんだけどね」
「半分だけなのか?」
「いや、80%くらいかな」
「それは、かなり本気ということじゃないのか」
「まぁね」
 言って、乾は軽く拳に握られた手塚の指に唇を寄せた。柔らかくて生暖かい、それでいて乾いた唇の感触。乾の息が手にかかる感触。どちらにも、嫌悪感はなかった。
「乾」
 そんな自分の感情を悟られないように、手塚はわざと、咎めるように乾を呼んだ。多少の後ろめたさを感じていたのだろう、乾は苦笑して手塚の手から唇を離した。
「今日、俺の誕生日なんだ、手塚。だから、少し大目に見てよ」
 背もたれの上に手を乗せて、乾がかがみこんできた。
「大目に見るとは、何を大目に見ればいいんだ?」
 手塚のことを好きだと言う相手が、大目に見てくれ、という内容はだいたい想像がついた。それでも、手塚は敢えて乾に尋ねてやった。
「手塚に触れさせてほしい。少しでいいから」
 案の定、乾は囁きかけるように答えた。
「少しでいいのか?」
 冗談めかして言ってみると、乾はその言葉を真に受けた。
「あれ、隅から隅まで触ってほしいのかい?」
「そういう言い方はよせ」
 真顔で問いかけてくる乾に、手塚は怒ったように言い返す。すると、乾は苦笑して言った。
「手塚が誘うようなこと言うからだよ。自分を好きだっていう相手を、そうやって挑発しちゃだめだって」
 苦笑しながら、乾は手塚の正面に回りこんできた。肘掛に左手をついて、正面から手塚を見る。
「眼鏡、外していい?」
「……そういうことは、外す前に聞くべきじゃないのか?」
 手塚の眼鏡を外してテーブルに置いた後で、乾は手塚に尋ねてくる。それを指摘すると、乾はクスクスと笑った。
「それもそうだね、ごめん」
 口では言っているが、心の中ではそんなこと欠片ほども思っていないだろう。手塚には想像できたが、あえて何も言わなかった。言えばまた、乾はしれっとした顔で言うに違いないのだ。
「まぁね」
 と。
 まったく、図々しい男だ。
 手塚が心の中でそう毒づくのとほぼ同時に、乾の手が手塚の頬に触れた。両手で優しく包み込むように、手塚の頬に触れてくる。
左手の掌には、カバンを持ってできたタコ。右手の掌には、テニスラケットを握ってできたタコがあるのを、手塚は頬で感じていた。
初めはおずおずと触れていた手が、手塚の肌に馴染んでいくにつれて動きだす。手のひらで撫でるように、指先でなぞるように。乾の利き手である右手は細やかに動き、左手は動きがどこかぎこちない。
 思わずクスリと笑いそうになるのを抑えて、手塚は乾に問いかけた。
「乾、今流れている曲は何だ?」
「ブラームスのソナタだよ。『雨の歌』っていうんだ。本当はバイオリンのために作曲されたんだけど……」
 解説をしながら、乾の右手が頬から額へ移動する。額にかかる髪をかき上げて、形のいい眉をなぞる。
「こうして聴いてみると、チェロの曲だって言われても、疑問には思わないだろう?」
「……ああ、そうだな」
 親指が眉から瞼に移動して、手塚は反射的に目を閉じた。左手は頬に添えられたまま、右手だけが手塚の顔のパーツを一つ一つ、指先で確かめるように、なぞっていく。
 乾の指が鼻筋をなぞり、唇にたどり着く。上唇と下唇を交互に、何度も撫でるように指でなぞる。敏感な場所に触れられて、気持ちいいような、くすぐったいような、微妙な感覚がじわじわと広がっていく。
 手塚の唇の感触が気に入ったのか、乾の指はなかなか唇から離れようとしない。
 ――いつまで触れているつもりだ?
 咎めるつもりで、手塚はペロリと舌を出し、唇に触れている乾の指を舐めた。
「……っ、手塚!?」
 突然の手塚の思いがけない行動と、くすぐったいような快感が走ったことに驚いて、乾は一瞬手を引いた。
「いつまで触れているつもりだ、乾?」
「悪いね、触り心地がよかったもんで、つい」
 相変わらず、乾の口調は悪びれた様子を少しも見せない。
「っていうか手塚さぁ、そうやって挑発するなって、俺、さっきも言わなかった?」
「俺は挑発したつもりはないぞ」
「お前にそういう覚えはなくてもね、誤解を招くような行動は慎んだ方がいいよ」
「人にこういうことをしておきながら、慎みを持てなどとよく言えたものだ」
 言い合いをしている最中も、乾の手は手塚の顎のラインをたどって首筋を撫でている。
 冷やりとした乾の手に、手塚は思わず身をすくませた。敏感な手塚の反応に、乾は満足げに微笑した。そして手塚に舐められた右手の人差し指に唇を寄せる。
「……間接キスだ」
 激しく盛り上がるBGMのチェロに、乾の声が溶け込む。その声と仕草が自分よりずっと大人びているようで、より一層鮮やかに、手塚の耳と目に刻まれた。
「手塚」
 乾の声が低く甘く、手塚を呼ぶ。一度首筋から離れた乾の手が、改めて手塚の頬に添えられた。
「そんな目で見ないでよ、手塚。本当にキスされたい?」
 ため息混じりに呼ぶ声が、耳に溶ける。その声を、頬に添えられた手を、甘いと感じる自分を悟られないように、手塚は刺々しい口調で問い返した。
「そんな目とは、どういう意味だ?」
「目は口ほどに物を言う、ってね」
「勝手に解釈するのはよせ。……乾っ」
 微笑したまま、乾が顔を寄せてくる。
乾が何をするつもりなのか。問いかけるまでもなく、明確に伝わってきた。そして手塚は、乾の手を振り切ってとっさに顔を背けていた。
「手塚……」
 拒絶されて未遂に終わった乾は、残念そうな声で手塚を呼んだ。
拒絶されるかもしれないと、予想していた。予想はしていたが、いざ実際にされてみると辛いものだ。ダメージを受けた頭で、乾は呆然と考えた。
 ただ一方的に好きだと言っているだけの関係だということを、改めて思い知らされる。手塚に触れることを許されただけでも、ありがたいと思うべきなのだろう。そんな風に、乾は凹んだ気持ちを納得させた。
「ごめん」
 消えそうな声でそう呟いて、乾は手塚の頬から手を外した。自分から手塚を引きはがすように、乾は手塚から離れた。
 軽口を叩く余裕も失って、乾は意気消沈していた。自分より身長が高く、体格もしっかりしているはずの乾が、手塚には小さく見えた。
「お茶、冷めちゃったね。煎れ直すよ」
 手塚を見ないように、顔を背けて力なく乾は告げる。俯いて背を向ける乾のシャツに、手塚は手を伸ばした。
「……手塚、同情してるの?」
 これ以上心をかき乱さないでくれないかな。
 乾が振り向いて、困ったような声で問いかけてきた。
手塚は、自分がどうしてそんな行動に出たのか、どうして乾の手が触れることを許したのか。答えの出ない、言葉にならない想いをどう表現していいのかわからずに、小さく答えた。
「同情しているわけじゃない」
「だったら、どうして引き止めるようなことするの?」
「わからない」
どう答えていいのかわからずに、手塚は言葉をつなげた。
「ただ、お前の手が触れるのは、嫌じゃなかった。お前が俺を呼ぶ声も、嫌いじゃない。さっきのは……驚いただけだ」
「だから、その気もないのに挑発するな、って言ったんだよ」
 照れたような手塚の言葉に、乾は苦笑した。くしゃ、と手塚の髪に手を伸ばして、子供をあやすように優しく撫でてくる。
「お前は俺を好きだと言ってくれた。でも俺は……」
 乾の手の感触が、まだ頬に、唇に残っている。それはどこか甘く、少しだけもどかしく、なんとなく切ない、言葉ならない微妙な想いを手塚の中に生み出していた。
 どうにかして、適切な言葉を当てはめようとする手塚を、乾は黙って見守っていた。自分に何か伝えようとしている手塚が、言葉を紡ぎ出すのを待っていた。
「お前を嫌いなわけじゃない。でも、好きかと言われると、よくわからない」
「……手塚」
「ただ、俺が何かしたことで、お前が傷ついたのなら謝らなければと思って……」
 手塚が歯切れの悪い言い方をする。乾は、それを最後まで聞いていられなかった。
「乾っ……!」
 乾は手塚を抱きしめていた。
「この曲が終わるまででいいから、我慢して」
 自分を好きかどうかわからない。そう言いつつも、自分を気遣ってくれる手塚の気持ちが嬉しくて、心が体を突き抜けていた。髪を撫でていた手でそのまま手塚を引き寄せて、胸の中に抱きこんでいた。
「乾……」
「この曲が終わるまで、ちょっと我慢して」
 上がる息を抑えつけるような乾の声に、手塚は身を硬くした。そんな手塚の反応に微笑したのか、乾の息が髪にかかる。
 顔を胸に押し当てられるように抱きしめられているせいで、手塚の頬に乾の鼓動が伝わってくる。薄いシャツごしに、乾の体温を感じる。
早鐘のように脈打つ鼓動。呼吸をするたびに動く胸。
その鼓動と呼吸が、再び穏やかで美しい旋律を奏でる音楽に合わせるように速度を落とし、穏やかになっていくのを手塚は感じとっていた。
「乾……少し腕を緩めてくれないか? 苦しいんだ」
 想いの強さをそのまま写したかのように強く抱きしめられて、正直手塚は息苦しくなっていた。
「え? あ……ご、ごめん。ごめんね」
 戦術やデータを語る、いつもの流暢な口調は影を潜めていた。珍しく口ごもり、歯切れが悪い。それでも、手塚を手放したくはないようだった。
 好きな相手を前にして、胸の中に抱きこんで。戸惑いと嬉しさが入り混じったような表情を見せる乾。成績も教師の覚えもよく、テニスも手塚ほどではないにしろ、それなりに強い。そんな乾が意外に不器用であることを知って、手塚は微笑していた。
 ――思いのほか、かわいいところもあるんだな。
 こんな乾を見るのは、きっと自分が最初だろう。眼鏡を外した自分の顔をこれほど間近で見た人間が、乾以外にいないのと同じように。
 そんなことを思っていると、乾の胸に頬を寄せ、体を預けているのも心地いいと感じられてきた。
「手塚?」
 手塚は、投げ出していた腕を乾の腕に、背中に回してみた。手塚が体重をかけてくるのを、乾が受け止める。
「この方が楽なんだ」
「そう? もう少し寄りかかっても大丈夫だよ」
 手塚の言葉を照れ隠しと受け取ったのか、乾は手塚の体を引き寄せた。初めは頬が触れていただけだったが、今度は肩まで抱きこまれる。
 手塚は軽く目を閉じた。約束を越えて、次の曲に移っても乾は手塚を離さなかった。そして手塚も、無理に振りほどこうとはしなかった。
 目を閉じて、荘厳なチェロの音色と乾の鼓動を聞いていた。
 こういうのも悪くない。
 そんなことを思いながら。


 翌日、手塚は乾に小さな包みを渡した。
「これは?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした乾に、手塚は仏頂面で告げた。
「……プレゼントだ」
「俺に?」
「昨日誕生日だと言っていただろう」
「それは……言ったけど」
「昨日何も渡せなかったからな」
「いいの?」
 差し出した包みをなかなか受け取らない乾に焦れて、手塚は思わず声を荒げた。
「いらないのなら、いい」
「ああ、いるいる、いるよ。ごめん、手塚」
 包みを引っ込めようとした手塚を、乾は慌てて止めた。
「お前がこんな嬉しいことしてくれるなんて思わなかったから、びっくりしたんだ。ごめん」
 思わず強くつかんでしまった手塚の手を開放して、乾は包みを受け取った。一応ラッピングはしてあるが、それは乾もよく利用しているスポーツ店の包みだった。
「ありがとう、手塚。……開けていい?」
「ああ」
 人に何か贈るという行為に慣れていない手塚は、何を贈ればいいのか皆目見当がつかなかった。乾の好みも、まだよくわからない。そしてたどり着いた結論が……。
「リストバンドとグリップテープだ。消耗品だが、いつも使うだろう」
 手塚がいつも使っている物と色違いの、黒いリストバンドと、グリップテープというものだった。テニスに一途な手塚らしい選択に、乾は思わず微笑した。
「ありがとう。大事に使わせてもらうよ」
 試合で使ったら、特に効果ありそうだな。
そう言って笑う乾は、本当に嬉しそうだった。
「そんなに嬉しいか?」
「もちろん、手塚がくれたものだからね」

Fin

written:2003.2.5

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