あこがれ 愛

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あこがれ 愛



 部活が終わって、俺は音楽室へ上がった。
 合唱部の練習を終え、教室を閉めようとしていた顧問に断って中に入り、ピアノのふたを開ける。
「乾君がピアノを弾きに来るなんて、久しぶりね」
「はい。少し、弾いてみたくなったので」
「そう。気がすんだら、鍵をかけて職員室まで届けてね」
「わかりました」
 近くの机にテニスバッグを置いて、椅子の高さを調節して鍵盤に向かい合う。聴かせてほしいという、数人の女子の申し出を丁重に断って、俺は広い音楽室で一人、ピアノに向かっていた。
 俺は、幼稚園に入る少し前からピアノを習っていた。青学に入って、部活に専念するまでは続けていた。その時に習った曲の大半は忘れてしまったが、自分が好きで勝手に練習した曲は、今でも楽譜なしで何曲か弾ける。
 俺は目を閉じて一呼吸して、上靴を脱いでペダルに足をかけて踏み込んだ。ペダルを踏んだまま、右手で鍵盤を叩く。
 一度もペダルを踏み直すことなく、音が消えるか消えないか。ギリギリのタイミングを計りながら、俺は前奏を弾いた。
 ジョージ・ウィンストンの『あこがれ/愛』。切なくて哀愁感漂う旋律は、あまりにも有名だ。
 同じ旋律を2回繰り返す頃、ピアノ越しに不二の姿が見えた。目が合うと、不二は微笑して俺に近づいてきた。
「続けて」
 声には出さず、唇の動きだけでそう言って、不二はピアノのすぐ脇にある席に腰を下ろした。
 10分弱の曲を俺が弾き終えると、不二は拍手でそれを讃えてくれた。
「廊下で、女子が3人ほど座り込んで、こっそり聴いてたよ」
「そうかい? さっき、断ったからかな?」
 意外と隅に置けないな、そう続けて不二は賛辞を口にした。
「やっぱり、その曲は乾で聴くのがいいね」
「そんなことはないだろう。不二の方が上手いんだから」
「上手いとか、下手だとか、そういうことじゃないんだ、乾」
 不二が、ただクラシック音楽を聴くのが好きなだけでなく、自分でもピアノを弾けるのだと知ったのは、もう1年近く前のことになる。お互いにピアノが弾けるのがわかってからは、時々こうして音楽室に忍び込んで、弾き合うことがあった。
「オリジナルも好きだけど、乾が弾く方がね、切なさが滲み出ているようで、僕は好きなんだ」
 テニスだけではなくピアノの腕も、俺は不二には敵わない。中学に入って習うのを止めてしまった俺と違って、不二は今でも週に一度は先生について習っている。
 それでも、不二は俺のピアノを好んでくれて、数少ないレパートリーを俺は不二の前で披露した。そのお返しに、と不二はクラシックやジャズ調の曲まで、実にさまざまな曲を弾いてみせてくれるのだ。
「今日のは、もう少し幸せそうな音なのかと思ってたけど、そうでもなかったね」
 不二は立ち上がって、ピアノの低音部の鍵盤をランダムに叩いた。不二はランダムに叩いたつもりかもしれないけれど、きちんと整った分散和音が音楽室に響いた。
「そうかな?」
「やっぱり、計算通りにはいかなかったからかな?」
「こればっかりはね。データと確率で計り知れるようなら、苦労しないさ」
 というよりむしろ、データと確率で計れるようならば、それは恋とは言わないだろう。そんな俺の発言を、不二はらしくないと言った。
「それ、Tにも言われたよ」
「そうなんだ?」
「最初に告白した時にね」
「なるほど。確かに、乾は口を開けばデータと確率と、数字と理論が飛び出すからね」
 言いながら、不二は声を上げて笑う。しかし、すぐ真顔に戻って尋ねてきた。
「で、昨日は上手くいったの?」
「おかげさまでね」
 乾は詳細を全て隠して、それだけ答えた。
 乾と不二の間には、暗黙の了解がある。二人でいる時には、互いの想い人のことはイニシャルで話すというものだ。わざわざ名前を言うまでもなかった。
「Tと、何か約束してたらしいじゃない、昨日」
「ドタキャンされたけどね、乾のせいで」
「ひどいな、俺のせいなんだ?」
「君のせいだろう? Tがあんなに絶不調だったのは」
「まぁ、最終的にはそういうことになるのかな」
 手塚が調子を崩してしまった理由を辿っていけば、俺が転寝している手塚にこっそりキスをした一件に行き当たる。そういう意味では、原因を作ったのは俺ということになる。
「でも、あのTがまさか、恋に悩んでスランプに陥るとはね。ちょっと意外だったな」
「そう言う不二も、好きだと気付いてからKに告白するまで、ずいぶん悩んで調子崩してたはずだけど」
「否定はしないよ。それほどに僕は彼を好きになってしまったから」
 不二の意中の相手を、俺は知っている。その相手を好きになって、どれほど悩んだかも。
 皮肉にも、不二が悩んでいることに気付いていたのは、データを細かく取り始めていた俺だけだった。心配性の大石も、気分屋の割には鋭い菊丸も、優しい河村も。誰も不二の、笑顔のポーカーフェイスには気づかなかった。
「あの時、乾が背中を押してくれなかったら、僕はまだ悶々としていたと思う」

 そう意味では、感謝してるよ。

 不二は口には出さないけれど、そう思ってくれているようだった。彼以外には俺にだけ、こっそりピアノを弾いて聴かせてくれるのも、そのせいだろう。
「だから、これで借りは返したよ」
「俺は、貸した覚えはないんだけどな」
 好きなら、ぶつかってみればいい。少なくとも彼は、男だからという理由で不二を拒絶するような、そんなヤツじゃない。それは、不二が一番よくわかっているはずだ、と。
 不二が調子の悪い原因に気づいて、勝手に助言しただけだ。
 が、それを借りだと不二が思っていたとしたら……返したというのは?
 考え始めた俺の思考回路を、不二の言葉が止めた。
「今度から、その曲を聴かせるのは僕じゃなくて、Tだね」
「不二?」
「Tは知らないんでしょ? 乾がこんなにピアノ上手だってこと」
「……そういえば、聴かせたことないな」
「だったら、ちゃんと聴かせてあげないと。Tを想って弾くピアノなんだから」
 そう言って、不二は微笑した。
 思えば、不二は俺が手塚を好きだと気付いて、あまり時間を置かずにそれを知った。不二とKの関係を知る俺にとって、俺だけが不二のことを知っているというのは、フェアじゃない気がしていた。
 だから、自分から告白した。手塚を好きになった、と。
 それ以来、応援するとも協力するとも言わず、不二はただ俺を見守ってきた。時々、進展具合はどうなんだと聞く程度で。

 が、借りは返した、ということは。

 俺は確信していた。
 昨日俺の家に来る前に、手塚は不二と話していたと言っていた。その時に、不二が手塚に何か助言していたのだとしたら?
 不二の発言の意味も理解できる。
「さっき、途中からしか聴けなかったから、もう一度最初から弾いてくれる?」
「ああ、いいよ」
 それを不二に確認したところで、適当な言葉ではぐらかされるだけだろう。
「いいけど、その前に一つ訊いていい?」
「何?」
「昨日Tと約束してたって言ったけど、それ、いつの話?」
「期末試験の前だよ。ネットで調べたら、植物園の特別展が夏休み中だったからね。夏休みに入って、最初の休みに一緒に行こう、て誘ったんだ」
 なるほどね。ということは、一応昨日のことは偶然が重なったってことか。
 納得しかけて、俺ははたと気づいた。
 そんなに前に約束していたなら、当然その前日に確認取るはずじゃないか?
「ふーん、なるほどね。でも、前の日に何の確認も取らなかったなんて、不二らしくないな」
「ああ、そういえば。電話しようと思ってて、忘れてたな」

 忘れてた?

 その一言で、俺は気づいた。やはり、不二はわざと手塚に電話をかけなかったのだ。
 そして、敢えて約束を確認することをしなかった。手塚がドタキャンする可能性が高い、とわかった上で。
 不二という男は、本当に気の抜けない相手なのだと。俺は改めて思い知らされたような気がしていた。まったく、よくこいつと付き合う気になったよな、Kも。
「なるほどね。そんなにKとデートしたかったのかい?」
「しばらく、ゆっくり二人きりで過ごせる時間、なかったからね」
 少し意地悪をするつもりで投げた質問は、微笑にブロックされた。さらりと、わざと手塚に約束を破らせるように仕組んだのだ、と肯定してみせるあたり、本当に油断できない。
 これ以上突いたら、足元を掬われるな。
 そう思って、俺はおとなしくピアノに向かうことにした。
「じゃぁ、弾くよ」
「うん」
 不二が元いた席に戻るのを待って、俺はペダルを踏み込んだ。


 最後まで曲を聴くと、不二はTと幸せに、と言い残して音楽室を出て行った。それを見送って、もう少し弾いてから帰ろう、と鍵盤をポロポロ叩いていると今度は手塚がやって来た。
 入り口から中を覗いて、俺がいるのを見て、手塚は驚いたような様子を見せた。多分、手塚はピアノの音が聞こえたから音楽室を覗いてみただけなんだろう。そうしたら、予想外にも俺がいて、驚いた。そんなところだな。
「乾……」
 手塚の声音でそう分析して、俺は声をかけた。
「やぁ、手塚。部誌、書き終わったんだ?」
「ああ。入ってもいいか?」
「いいよ。ここ、俺の部屋じゃないしね」
 律儀にも手塚は俺から了解を取って、中に入ってきた。そして、さっき不二が座っていた席にテニスバッグを置いて、俺の横に立った。
「お前、ピアノが弾けたのか」
「小学校の頃に習ってたからね。中学に入って、部活忙しくなってからは辞めたけど。それでも、時々こうやって弾いてる」
「そうだったのか」
 知らなかった、と少し気落ちしたような手塚の声に、俺は笑って見せた。
「知ってるのは、不二だけだよ。それから、手塚と」
「さっき弾いていたのも、お前だったのか?」
「さっき、って……これのこと?」
 言って、俺はメロディの触りの部分を弾いて聞かせた。手塚は頷いて、続けた。
「その曲……小さい頃に、隣の家の人が練習していたのを、よく聞いていた」
「そうなんだ? 有名な曲だからね、弾きたがる人も多いと思うよ。それに、メロディが綺麗で、聴いていてどこか切ないから、印象に残りやすいしね」
「何という曲なんだ、これは?」
「ジョージ・ウィンストンの『あこがれ/愛』だよ」
 尋ねてくる手塚に、俺は答えた。
「『あこがれ、愛』?」
「そう。『Longing/Love』だからね。日本語訳だと、そうなる」
「そういう曲だったのか」
 呟いた手塚の声は、どこか感慨深そうだった。
「一時期、毎日のように隣から聞こえてきていたんだ、これが。それで、俺も覚えていたんだが、曲名がずっとわからなくて、いつか知りたいと思っていた」
 言いながら、手塚が人差し指でぎこちなく鍵盤を叩く。ランダムに押された鍵盤からは、和音になりきらない、脈絡のない音が出て音楽室に響いた。
「まさか、お前がこの曲を弾けて、曲名も教えてもらうことになるとは、思わなかったな」
「意外だったかい?」
「ああ」
「で、惚れ直したとか?」
「……」
 冗談めかして言ったつもりが、真面目に受け取られてしまったらしい。手塚は真顔で黙り込み、ほんの少しだけ、頬をピンクに染めた。
 ……ひょっとして、これは……図星だったのか?
 昨日恋人に昇格したばかりでは、まだデータが出揃っていない。俺は手塚の反応をどう解釈していいのか、迷っていた。
「手塚?」
 そのまま黙ってしまった手塚に呼びかけると、手塚は一瞬俺から視線を逸らした。利き手である左手で顔を覆うようにして、指先で縁のない眼鏡をずり上げるその仕草が、妙にかわいらしく映る。

 ……照れてる、のか?

 日頃は仏頂面を崩すことのない手塚が見せる表情から、俺は目が離せなくなった。
 そういえば、好きだと言ってくれた昨日も、いろいろな顔を見せてもらった。それは多分、俺の前でだけ見せる表情。大きく心を揺らす感情を隠しきれなくて、顔に出てしまった結果なのだろう。
 そう思ったら、急に手塚を抱きしめたくなった。けれど、さすがに学校で、しかも教室じゃまずい。外でこっそり聞いていると不二が言っていた女子が、まだ残っている可能性だってある。
 俺は必死で我慢して、力の抜けている右手を取ることで妥協した。
「乾……」
 一度逸らされた視線が、俺に戻ってくる。
「大丈夫、外からは見えてないよ。それに、これだけ小さい声なら、外から聞かれる心配もない」
 そう言って、手塚を安心させるように微笑した。昨日、あれだけ手塚に好きだと言ったのに、まだ言い足りない。そんな気がしていた。
 手塚は、どうなんだろう?
「ねぇ、手塚」
 だから、俺は呼びかけた。手塚を見上げて、まっすぐにその視線を捕らえて、告げる。
「好きだよ」
「……乾」
 俺を呼ぶ手塚の声が、少し柔らかくなる。そのまま、素直に好きだと言ってほしい。そんな俺の願いは、握った手から伝わったのだろうか。
「俺も……好きだ」
 普段の手塚からは想像つかないような、消えそうな声で手塚は言ってくれた。握った手に少しだけ力を加えて、俺は手塚に訊いた。
「最初から、聴きたい?」
「いいのか?」
「いいよ」
 俺は手塚から手を離した。

 手塚のために、手塚を想って弾いてあげる。

 そんなことを、声には出さず、心の中で呟いた。
 誰よりも憧れて、その憧れが「好き」に変わった人だから。
 俺は、いつもその姿を心に想いながら弾いていたその曲を、初めて手塚に聴かせた。


Fin

written:2003.7.7

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