アンデスに告白(ラブ・レター)

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アンデスに告白(ラブ・レター)


 最初は単なる対抗意識で始めたことだった。
 中学に入って、初めてどう頑張ってもかなわない相手に出会った。
 その相手は、俺の自信も誇りも粉々に砕いてくれて。
 俺は自分のスタイルを変えることを余儀なくされた。
 遠くから見つめて、見つめ続けて。
 それが、恋心へと変わったのは、いつからだったんだろう。

 部活後の片づけを終えてみると、テニスコートにはいつものメンバーが残っていた。乾をはじめとする、部活熱心な面々である。
「なーんだ、結局俺たちが残っちゃったわけ?」
「そうみたいだね」
 不満そうにボヤく、元気者で気分屋の菊丸に、天才・不二が同意する。
「皆ほんとに要領いいよね。いつの間にかいなくなっちゃってる」
「まあ、いいじゃないか。誰かが片付けないといけないんだから」
 パワーでは部内一の河村に、面倒見のいい大石が続いた。
「そういえば、乾が後片付けや球拾いもいいトレーニングになる、って言ってからだよね。いつも俺たちが残るようになったの」
 ラケットを持つと豹変する河村が、思い出したように言い出した。当の乾は、それを覚えていなかった。
「俺、そんなこと言ったっけ?」
「言った、言った。俺が面倒臭いー、って言ったら乾が、考え方によってはこれもいいトレーニングになるよ、って言ったんじゃん」
 とぼけて見せた乾に、菊丸はご丁寧に話し方まで真似て言い返してきた。
「そうそう。でも、やってみたら乾の言ったとおりだったんだよな。ボール一つ拾うにも、どこに飛んでくるかよく見て、素早く反応するいい練習になったし」
「ブラシかけとロール回しはウエイト・トレーニング」
「ネット運ぶのだって、結構重いしね」
 そういえば、と乾は自分の記憶を辿った。1年生の初め、基礎トレーニングと球拾いと後片付けに専念していた頃、いずれレギュラー争いをするほどに強くなっていくために、日頃の訓練が大事だからと乾は確かにそう言った。
 その後からだ。同じ学年の中で、練習熱心な者とそうでない者が分かれるようになってきたのは。そしていつしか、6人が残って仲間意識ができてきた。
「でも、もうすぐまた校内ランキング戦があるんだよね。この中で何人レギュラーに入れるかにゃぁ?」
 3年生になって大会が始まるまでには、全員でレギュラー入り。それが乾の掲げた目標で、それに向けてのレベルアップを計る練習メニューも組んでいる。
「それは、試合してみないとわからないよ、英二。とにかく、全力を尽くすだけだ」
 大石らしい、前向きで建設的な意見だった。
「大石の言うとおりだね。俺も頑張らなきゃ」
「僕もうかうかしていられないな。足元すくわれないようにしないと」
「よっく言うよ、不二ぃ。お前、手塚以外の人間に負けたことないじゃん?」
 河村と不二が口々に言うと、菊丸が不二の背中を軽く叩いて口をとがらせた。
 手塚の名前が出たのをきっかけに、乾は手塚が後片付けに戻ってこなかったことに気づいた。
「そういえば、手塚。先輩に呼ばれて行ったきり、戻ってこなかったね」
「あ、ホントだ。また何か雑用押し付けられたのかにゃ?」
「そろそろ様子見ついでに戻ろうか」
「そうだね」
 5人はテニス部が使用している倉庫を出て、扉を閉めた。部室へ戻る道すがら、データノートを取りに行った乾が皆に合流すると、河村が不二を自宅でのゲームに誘っているところだった。菊丸もそれに加わって、菊丸がさらに大石を誘い、大石から乾へ話がまわってきた。
「乾も行く?」
「ゲームついでに春休みの宿題教えてくれると嬉しいなぁ」
「教えるのはいいけど、写すのはダメだよ、英二」
「ちぇっ、見抜かれてるよ。ケチ、乾」
「自分でやらないと、宿題にならないだろ?」
 言いながら、乾が先頭で部室のドアを開けた。すると、手塚が一人で机に向かっている様子が目に飛び込んできた。
「手塚? 何してるの?」
 レギュラージャージから制服に着替えて、手塚は机いっぱいに広げられた紙と格闘していた。
「先輩から頼まれ事だ」
 多くを語らない手塚は、顔も上げずに手短に言った。何を見ているのかと思い、乾は横から机を覗き込んだ。すると、見慣れた名前と数字が羅列された紙が散乱していた。
「これって、ひょっとして部員のデータ?」
「ああ」
 話しかけると、手塚は生返事をしてきた。
「で、どうしてお前が部員データと格闘してるわけ?」
「……次の校内ランキング戦のブロック分けを頼まれたんだ」
 なおも問いかけると、手塚はようやく事情をぽつりと話した。
「ふぅん。で、これは?」
「先輩から渡された。各ブロックで実力差が出ないように、これを見ろと言われて」
「お前さ、誰よりも詳しい部員データを持ってる人間のこと、忘れてない?」
 乾がそこまで言うと、ようやく手塚は何か気づいたらしく、弾かれたように顔を上げた。自分もさんざんデータを取られているというのに、思い出せなかったらしい。
「そういえば、乾……」
「手塚、テニス以外はどこか抜けてるね」
 思わず微笑して言うと、すかさず菊丸が口を挟んできた。
「そうだよー。うちで一番細かいデータ持ってるのって、乾以外にいないじゃん。それに、手塚だってさんざんデータ取られてるのに」
 3人の会話を聞きながら、不二はクスクスと笑い、大石と河村はなんとかして笑いをこらえようと頑張っていた。
「生憎今日はパソコン持って来てないけど、家に来ればちゃんとしたデータ出せるよ?」
「そうなのか?」
「ああ。帰り、ちょっと遠回りになるけど、来るかい?」
「いいのか、乾?」
「お前さえよければ、俺は構わないよ」
「なら、お前の言葉に甘えさせてもらう」
 表情は硬いまま、声も低くてどこかぶっきらぼうだったが、眉間のしわが消えていた。乾の申し出が、嬉しかったらしい。手塚は机にばら撒いた資料をかき集めて、立ち上がった。
「……というわけだ、英二。宿題は自分でやろうな」
「ほいほーい。そういうことじゃ、仕方ないにゃ」
 諭しつけるように菊丸に言うと、菊丸は手をひらひらとさせながら制服をしまったロッカーへ向かっていった。
「じゃ、乾と手塚は不参加だね」
「ああ、悪いね、河村。また今度」
「うん。こればっかりは、俺じゃ役に立たないからなぁ」
 決まれば話は早い、と乾は手早く着替えを終えて、手塚と共に部室を後にした。


 なりゆきで、乾は手塚を部屋に呼ぶことになってしまった。
「ちょっと、待ってて。片付けるのを忘れてた」
 日頃、あまり学校の仲間や友人を家に呼ぶことがないせいか、乾は読みかけた雑誌や資料を床に投げたままにする癖がある。昨日も母親に片付けろと言われつつ、データの整理を始めたら片づけを忘れ、床に散らしたまま寝てしまい、そのまま部活に出てしまった。というわけで、床にはテニス誌が散乱している状態だった。
「散らかっててごめん。適当に机の所でも座っててくれ」
 床の雑誌を拾い集め、無造作に本棚に放り込みながら乾は手塚に言った。手塚は黙って頷いて、床の空いた場所にテニスバッグを置き、脱いだ上着をその上に乗せ、机から椅子を引き出して腰を下ろした。
 乾は床にテニスバッグを、ベッドの上に制服の上着を投げ出して、パソコンラックに向かった。ハードディスクを起動するボタンを押した時、乾は別の部屋から何やら音楽が聞こえてくることに気づいた。
「……母さん、またCDかけっぱなしにしてるな」
「え?」
 手塚の耳には聞こえていないらしい。怪訝そうにする手塚に、乾は苦笑しながら話した。
「ああ、うちの母さんさ、音楽好きなのはいいんだけど、時々かけっぱなしで出るんだよね。今日のは、古澤巌だな」
「古澤?」
 問い返してくる手塚に、乾は答えた。
「バイオリニストだよ。タバコのCMにも出てた。……手塚は、あまり聞かないのか、音楽とか」
「ああ、ラジオで聞き流す程度だからな」
「なるほどね」
 よほど気に入ったものでないと、手塚の頭には残らないのだろう。思い出してみれば、菊丸や河村と違って手塚は流行の歌やアーティストなどの話には疎い。
「乾は、よく聞くのか?」
「母親に聞かされてる、っていうのが正解だな。おかげで、クラッシックからジャズから雅楽まで、何でもわかるようになった」
「……意外だな」
 乾の言葉をじっくりと飲み込んで、手塚がポツリと言った。
「そうかい?」
「乾はいつもデータや確率の話になるからな。芸術関係とは無縁なんだと思っていた」
「データも確率も、数字関係はもっぱら左脳だからね。左脳ばかり使いすぎたら脳のバランスが悪くなるとか何とかでね」
「それも、お母さんが?」
「まあね」
 カタカタとキーボードを叩いて、乾はオペレーションシステムを起動させるためのパスワードを入力する。パソコンがパスワードを受け付けて起動を始めたのを確認して、乾は部屋を出ようとドアへ向かった。
「乾?」
「CD止めてくるよ。今日、その古澤巌のコンサートとかで、出かけてるんだ。うちの母親バイオリン好きでね」
「そうなのか。……乾」
 ドアを開けて部屋を出ようとした乾を、手塚が呼び止めた。
「何、手塚? あ、何か聞くか?」
 手塚が言う前に察して尋ねた乾に、手塚は驚いたような様子を見せた。
「そう思ったんだが……」
 言いかけて、手塚はこの部屋にCDを再生する機器が置かれていないことに気づく。それを乾に言うと、乾は微笑した。
「デッキがなくても、こいつで聞けるから、大丈夫だよ。ちょっと動きが重たくなるんだけどね」
 パソコンを指差して言うと、手塚はようやく納得したようだった。
「何でもいいか?」
「ああ。任せる」
 乾は部屋を出て行き、そしてそれほど手塚を待たせることなく戻ってきた。
「手塚、悪いんだけど、ドアを開けてくれるかな?」
 手に何か持っているらしく、乾は閉まったドアの向こうから手塚に声をかけてきた。手塚が立ち上がってドアを開けてやると、乾はコップを乗せたお盆を両手に持っていた。
「作ってあったから、持ってきた。飲むだろ?」
 見ると、空のコップが二つと、淡いオレンジ色の液体が入ったボトルが乗っていた。
「母さんお手製の、フルーツミックスジュース。好きでね、こういうの。何を入れたら美味しくなるか、ずいぶん実験台にされたんだ」
「そうなのか」
 うんざりといった様子の乾に、手塚の表情が少しだけほころんだ。
「さて、じゃあ始めようか」
 机に散乱している本をバサバサとまとめ、空いたスペースにお盆を置いて、手塚と自分の分のジュースをコップに分けると、乾は再びパソコンに向かった。ジュースと一緒に持ってきたCDのケースを開け、中のディスクをドライブにセットする。
「さっき話した古澤巌だよ。クラッシックなんだけど、バイオリンの小品ばかり集めてて、聴きやすいんだ」
「そうか。知らなかったな、乾がそういうことに詳しいなんて」
「そういえば、手塚とはこういう話、あんまりしたことなかったね」
 パソコンのスピーカーから、流麗なバイオリンが響く。最初の曲はクラッシックの中でもよく耳にする曲で、美しいバイオリンの音色は手塚の耳によく馴染んだ。乾の母親が作ったというオリジナルジュースも、甘すぎずさっぱりとしていて美味だった。
「今日のデータを入力するのにちょっと時間かかるから、適当にその辺りの本とか、読んでてくれていいよ」
「ああ、わかった」
 乾に言われて手塚は机の上を眺めた。乾の机は、テニス誌や本が散乱していて、底が見えない。本も、雑学系の新書や専門書に近い本が多い。教科書が並ぶ正面の棚に目をやって、手塚は本が背にしている白い壁に何やら走り書きが残されているのに気がついた。
 見ると、ドロップショットが何秒で角度がどうとか、サーブのコースがどうとか、数字と文字の羅列だ。部屋を見渡してみると、その走り書きは一箇所だけではない。机の横の壁や、ベッド脇の壁にも書かれている。勉強しながら、あるいは寝ながら、突然思いついて書いたことが簡単に想像できた。
「乾……お前、こんな所にまで書いてるのか?」
「え? 何が?」
「データだ。机やベッド脇の壁にまで走り書きが残ってるぞ」
「ああ、それね。ノート引っ張り出すのが面倒で、ついペンで書いたんだ。後で怒られたけどね」
 手塚に返事をしながらも、乾の手がキーボードを叩く速度は落ちない。
「今は何のデータを入れてるんだ?」
「今日、レギュラー同士で練習試合やっただろ? そのデータ」
 ノートをパラパラとめくりながら、乾は手元をほとんど見ることなくデータを打ち込んでいく。パソコンを触るのは授業の時だけで、操作に慣れない手塚にはできない芸当だ。
「ひょっとして、毎日そういうデータを取ってるのか?」
「まあね。おかげで、誰が強くなってるか、とか。誰が練習サボってるかとか、よくわかるよ」
 画面にどんなデータが映されているのか気になった手塚は、乾の後ろからモニターを覗いた。遠くからでは細かい字がよくわからず、乾が腰掛けている背もたれと、モニターが乗っているテーブルに手をついて、乾の肩越しに覗き込んだ。
「それは?」
「部員の勝敗や体力テストの表だよ」
「どうやって作ってるんだ?」
「それぞれの勝率と、体力テストの結果をポイントに換算するんだ。試合で格上の相手に勝てば、相手のレベルに応じてボーナスポイント、格下の相手に負けたらマイナスポイントが付く」
「勝った数ではなくて、勝率なのか」
「まぁね。レギュラーとそうでない部員では、試合数が全然違うだろ? だから、勝率」
「なるほど」
 手塚に説明する間にも、乾は着々とデータを入力していく。その思考と同じ速さで入力される手つきに、手塚は感心した。
「さて、入力完了」
 言って乾がエンター・キーを押すまで、十数分しかかかっていない。
「それから、どうするんだ?」
 画面の一番左に、部員の名前が並んでいた。一番上に、手塚の名前がある。
「俺の名前が一番上にある……」
「当然だろ、お前、勝率100%で一番ポイント高いんだから」
 笑いを含んだ声で言いながら、乾が後ろにいる手塚を振り返った。ずっと前を向いていた乾は、手塚との距離が全くわかっていなかったらしい。眼鏡が触れそうなほど近くに手塚の顔があるのを見て、乾は少し照れたようにふいっとすぐに前を向き直した。
「これで、ポイントの合計が高い順に並べ替えるんだ」
 画面の上のほうにあるボタンを押すと、一瞬で表に入力されたデータの順番が変わった。一番上にある手塚の位置は、そのままで。
「これが、ここ3ヶ月の全部員のデータだ。実力順に並んでいる。色が変わっているヤツが、今のレギュラー」
 乾が、手塚にもわかるように画面を指差した。
「そのまま使えるように、プリントアウトするよ」
 そう言うや否や、乾は手塚には全く何をしているのかわからない操作をした。
「ついでに、ブロック分けのシミュレートもできるけど、どうする?」
「いいのか、そこまで頼んでも?」
「ああ」
「そろそろ紙が出てくるから、取ってくれるか?」
「わかった」
 手塚は、ラックの上部に置かれたプリンターから吐き出される紙を取った。全部員が、実力順に上から並んでいる。ざっと目を通して、手塚は乾がすでにレギュラー入り可能な位置につけていることに気づいた。
「乾、お前、もうレギュラー入りできる位置にいるぞ」
 紙を見ながら、手塚は言った。乾は少し顔を手塚の方に向けて、口の端を上げて笑った。不敵な笑みが、口元に浮かぶ。
「データ上ではね。運悪く、お前や不二のいるブロックに入ったら、どうなるかわからないけど」
 乾の低くて深みのある声が、技巧的でエキゾチックなバイオリンのメロディに重なる。高く低く響く音とは対照的に、乾の声は落ち着いたバリトンだ。
「乾、この曲は?」
 クラッシックやジャズをよく聴くという不二ならすぐにわかるのだろうが、手塚は今流れている曲を知らなかった。ただ、激しい中にもどこか穏やかさを孕んでいて、それでいて美しい不思議な響きを持つこの曲が気になっていた。
「スパニッシュ・ダンスだね。スペインの作曲家でファリャって人がいるんだけど、アンダルシア地方を舞台にした恋の悲劇を描いたオペラに出てくるんだ。それを、稀代の天才バイオリニスト、クライスラーがバイオリン曲に編曲したんだ。かなり超絶技巧が要求される曲だと思うよ、バイオリン弾いたことないけどね」
 乾は、まさに立て板に水、といった様子で澱みなく説明してくれた。そして、最後まで曲が終わってしまうと、リピートして手塚に聴かせてくれた。
 メロディラインが美しい次の曲に移ったとき、紙を受け取ろうとした乾がふいに手塚の手をつかんだ。
「乾?」
「さっきから気になってたんだけど。手塚、何だかいい匂いがするね」
 言いながら乾がつかんだ手を引くと、油断していたのか、手塚はバランスを崩して乾に抱きつくように倒れこんできた。
 不意を突かれて驚いた手塚は、短いその曲が終わって、有名なバイオリン曲『タイスの瞑想曲』が始まるまでそのまま動かなかった。動かないというより、状況を正確に判断して、動くのに時間がかかった。
 シャツを通して、乾の温もりが伝わってきた。
 乾の髪からシャンプーの匂いが、体からは汗の臭いがした。
 初めて、誰よりも近い位置に飛び込んできた乾に、手塚は戸惑いを隠せなかった。
「乾……何の真似だ?」
「いや、俺の背中にお前が張り付いてるときから、いい匂いがするな、と思って」
 乾の肩に抱きついたままの姿勢で、手塚が問いかけてきた。首を少し傾けると、乾の鼻先に手塚のうなじがあった。染めているわけでもないのに、少し茶色かかった手塚の髪が乾の顔にかかる。
「ちょっと確かめようと思ったんだ」
 ぬけぬけと、乾が言う。こういうヤツだよな、と心の中で思いながら、手塚は乾から離れようとしたのだが、乾が手塚の腕をがっちりとつかんでいて、離れられなかった。
 むしろ、乾が鼻先をうなじにすり寄せてくるのを許してしまう。耳の後ろ、敏感な位置に触れる感覚に、思わず息を詰めた。
「デオドラントスプレーか何か、つけてるのか?」
「ああ。部活でかなり汗をかいたらな」
 尋ねられて、手塚は反射的に真面目に答えた。
「臭い消しってこと?」
「そうだ。わかったら、離れろ」
 鉄面皮の手塚と、データ命の乾が半ば抱き合うようにしているこの状況を、他の連中が見たら何と言うだろうか。手塚は思わずぼんやり考えた。この体勢で、ロマンティックなシーンでよく流れる『タイスの瞑想曲』はできすぎている。
「ねぇ、手塚」
「なんだ?」
 低く囁くように呼びかけてくる乾に、手塚は何が言いたい?とばかりに問い返す。
「実はお前が好きなんだ、って言ったら……どうする?」
 その言葉を額面どおりに受け取るべきかどうか考えて、手塚は逆に問いかけた。
「……何の冗談だ?」
「うーん、半分本気かもしれない」
 耳に吹き込むように囁かれた言葉を聞いて、手塚は弾かれたように乾から離れた。勢いで、乾の腕も振りほどいた。
「どういうことなんだ、それは?」
「と言われても、言葉の通りだよ」
「だから、どうしてそうなるんだ? お前が、俺を……、って」
 告白はあまりにも唐突で、手塚の冷静な思考を奪ってしまっていた。いつになく慌てた様子の手塚を見て、乾はどこか嬉しそうに微笑した。
「手塚も、そうやって慌てることあるんだな」
「あったらいけないのか?」
「いいや。お前の表情らしい表情、初めて見たから」
 体は離れても、手だけは相変わらず捕まえたままで、乾は手塚を見上げてきた。度のきつい眼鏡の奥に隠されている瞳が、手塚を包み込むように見つめてくる。いつも、試合でデータを取っている時の鋭い視線とは、全く違う視線だった。
「テニスでお前に勝つのもいいけど、こうして無表情を崩したお前を見るのも、悪くない」
 髪の色と同じで、日本人にしては明るめの茶色い手塚の瞳を、乾はまっすぐに見つめてきた。手塚の、いつものきつい目つきがやわらいでいた。
「……いつから、そんな風に思ってたんだ?」
「さあ、覚えてないな。ただ、お前が今すごく近くに来たから、急に自覚した」
 手塚がすぐ後ろに来て、手塚の匂いが漂ってきた時、乾の中でスイッチが入った。データを取り続け、遠くから見つめ続けてきた手塚が、すぐ手の届く場所にいる。
 テニスでは、手の届かない手塚。その手塚を、テニスとは全く別の方法で手に入れることができたら?
 そう思った時、乾は思わず手塚を引き寄せていた。
「さっき半分本気、って言ったけど。もしかしたら、かなり本気かもしれない」
「かもしれない、って。ずいぶんあやふやだな、お前らしくない」
 普段の乾は、確実なデータや分析から割り出した確率に基づいて、明確な話をする。かもしれない、という不確定要素が含まれることはまずなかった。
 そう言うと、乾は苦笑した。
「手塚、人の気持ちはデータじゃ測れないよ」
 立て続けに、乾らしくないセリフが続く。
「正直言って、自分の気持ちにも戸惑ってるんだ、今。お前のことはずっと気になって意識していたけれど、こういう意味で好きだとは思わなかったんでね」
 バイオリンの音色よりずっと低くて、深みのある乾の声は、手塚の耳に心地よく響いた。声そのものも、囁かれるような言葉も。
「俺は、お前をそんな風に思ったことはない」
 しかし、手塚は乾をそういう意味で意識したことはなかった。
「そうだろうね。俺だって、今の今まで気づかなかったんだから」
「好きだと面と向かって言われたのも、こうして俺に触れてきたのも、お前が初めてだ」
「手塚は、どこか人を寄せ付けない雰囲気があるからね。みんな遠慮してるんだよ。英二や不二たちも、先輩たちもね」
 誰よりも手塚を見てきた乾には、手塚の言葉の原因も見えていた。
「でも、お前の初めてになれたのは、それはそれで嬉しいかもな」
 乾は中断されていたデータ作りに戻るため、手塚の手からプリントアウトされた紙を受け取った。
「ランキング戦は、4ブロックに分けるんだったよな、手塚?」
「え? あ、ああ」
 急にテニスモードに戻った乾の頭の動きに、手塚は一瞬取り残された。
「実力が均等になるように、か。とりあえず、やってみるよ」
 乾は再びパソコンに向かい、手塚にはさっぱりわからない作業を始めた。器用にマウスとキーボードを操る様子は、パソコン操作に慣れない者から見れば、まるで魔法使いのようだ。
 テニスでは乾よりずっと上にいる手塚も、乾に到底及ばない面がある。そんな当たり前のことに、今の今まで手塚は気づかなかった。
「でも、手塚。これって、本来は部長の仕事じゃなかったか?」
「……ああ、だから押し付けられたんだ。いずれ俺がやることになるんだから、今のうちからとか何とか、言いくるめられて」
「なるほどね。面倒なことはお前に、ってことか」
 先輩といえど、まだ同じ中学生。まだまだ子供の部分がある。自分より強くて、自分より大人びている手塚に対して、反発心もあるのだろう。当の手塚は強い自分を誇ることもなく、ひけらかすこともない。
 ちょっとした嫌がらせのつもりなのだろう、と乾は思った。思ったが、手塚には言わなかった。そんなこと、手塚は気づかなくてもいい。知っているのは、自分だけでいい。
 けれど。
 と乾は思っていた。同時に、手塚にこういう仕事を押し付けてくれた先輩に感謝する気持ちがあった。データ関係ならば、自分の得意分野だ。誰よりも手塚の助けになる。そして何より、手塚が家に来て、手塚を好きだと気づくきっかけを作ってくれた。
「楽しそうだな、乾。そんなにデータを見るのは面白いのか?」
 そんな思いは、顔に出ていたのだろうか。上手く誤解してくれた手塚が、声をかけてきた。正直にお前のことを考えていた、と言ってやろうか。それとも、適当にごまかしておこうか、と考えて、結局乾は適当にごまかすことにした。
「まあね。プレーヤーの癖や強さが一目でわかる。データに嘘はないからね」
「そうか」
 手塚が静かに答えたのをきっかけに、乾はデータに集中した。


 乾がシミュレーションを完成させ、手塚の意見を聞きながら手直しをしているうちに、外はすっかり暗くなっていた。二人とも、一つのことに集中すると時間を忘れてしまう性格だったらしい。
 電車で通学する手塚を駅まで送るためにマンションの玄関ロビーを出ると、西の空には宵の明星が輝いていた。
「すっかり暗くなってたんだな。悪いね、こんな時間まで」
「俺のほうこそ、付き合わせてすまなかった」
 二人で並んで、駅までの道を歩く。最初は手塚よりやや低かった乾も、この半年で急激に身長が伸びた。今では、手塚より十センチほど高い。
「お前のおかげで助かった」
 正直な話、先輩から膨大なデータを渡されて途方に暮れていたのだと、手塚はやっと白状した。ありがとう、と言いかけた手塚が、ふいに足を止める。
 目の前に、白い花びらが舞い降りてきた。反射的に手を伸ばして、手塚はそれを手の中に包み込んだ。
「手塚?」
 手塚が足を止めたことに気づいて、乾が振り返る。二人は、小さな公園の角に立っていた。公園の道路沿いに、大きな桜の木があった。満開を過ぎた桜は、かすかな風に花を散らしていた。
「もう、散りかかってるんだな」
「ああ、桜か。今年は咲くのが早かったんだろう?」
「そうみたいだな」
 四月になったばかりだというのに、桜はその花を散らしている。手塚は薄紅のラインが入った白い花びらを見た。
「でも、気づかなかったな。こんなに近い場所に咲いてるのに、満開だったなんて」
「ここだけじゃない、乾。学校の桜ももう散りかけてる」
「……そう、か。そういえば、ゆっくり花を見る余裕もなかったな」
 手塚に指摘されて、乾はようやく気づく。
「データばかり見ているから、そうなるんだ」
 言葉尻はきつかったが、そう言い返す手塚の口調は柔らかかった。
「それも、そうだな。お前に言われるまで気づかなかったよ」
 街灯に照らされて、暗がりの中で白く浮かび上がる夜桜を、乾は見上げた。
 大きく広げた枝に無数の花をつけ、白と薄紅に彩られた桜を綺麗だと思っていた。
「こんなに綺麗なのにね」
「いつも見ているのに気づかない、か」
 何か思うところがあったのか、手塚がまた舞い降りてくる花びらを手に取った。手にした花びらを壊さないように気をつけながら、手塚はそれを乾の手に乗せた。
「手塚?」
「そういうものなのかもしれないな」
 視線を手塚に戻した乾を、手塚は見上げた。揺るぎない、まっすぐな瞳が乾を見据えてくる。
「いつも見ているものでも、何かきっかけがないと気づかない」
 乾はその視線と言葉を受け止める。それが暗に、桜のことだけではなく、乾の告白のことを言っていることに乾は気がついた。
「いい事言うね、手塚」
「乾、正直言って、俺はお前の気持ちにどう応えていいのかわからない」
「応えてくれる気があるのかい?」
「それも、よくわからない」
 何事も真面目で律儀な手塚に、乾は思わず微笑した。
「すぐに応えようとしなくていいよ、手塚。もちろん、応えてくれたら俺は嬉しいけどね」
 乾の言葉は舞い降りてくる桜の花びらよりも優しかった。
「嫌いなら、嫌いだと言ってくれていいんだ。ただ、覚えていてほしい。俺が、お前を好きだって事」
「ああ、わかった」
 乾の気持ちを聞いて、手塚は頷いた。
「さて、行こうか。あまり遅くなると、お前のご両親が心配されるだろう?」
 頷いた手塚を見て、乾は先を促した。なにせ、駅まではまだ十分ほど歩かなければならない。
 再び無言で歩き出した乾の後を、手塚は追った。
 駅まで無事に手塚を送り届けた乾は、いつも部活で会うのと変わらない笑顔で手塚を見送った。
「また明日、部活でね、手塚」
「ああ、また明日」
 閉まるドアに隔てられ、電車に乗せられて遠ざかっていく手塚を、乾は見えなくなるまで見送った。

 人が人を愛しいと思う。それに名前をつけて縛れば、恋だ。

 なんて下りが書かれていたのは、何の小説だったか。
 けれど、胸の中にある想いが恋だと自覚すると、その想いは加速する。
 駅からの帰り道、乾はそんなことを考えながら歩いた。昨日まではただデータ収集の対象でしかないと思っていた手塚が、今は自分の心の大部分を占めている。ただの対抗心だと思っていたそれは。
「恋、か。この俺がね」
 手塚が足を止めて見上げたあの公園の桜の下で、乾は立ち止まって呟いた。
 この想いだけは、データでも確率でも計り知れない。もしかしたら、コントロールすることも難しいかもしれない。
 けれど、それと付き合っていくのも悪くない。
「さて、明日はどんな顔して会ってやろうかな」
 手塚がそうしたように、降りてくる花びらをつかまえて、乾は再び歩き出した。


Fin

written:2002.12.5

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