笑わない男 乾塚版

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笑わない男~乾塚追加版



 グリフィンドール寮の談話室には、クィディッチチームの面々が集まっていた。
 ブレンド物ならお茶から魔法薬まで何でもOK、という乾が煎れた紅茶を飲みながら、河村が作ったマフィンをつまんでのティータイムである。
「ずーっと思ってたんすけど、手塚部長って笑ったことあるんすか?」
 1年生にして、グリフィンドールチームのシーカーである越前が、ポロリと口にする。その爆弾発言に、2年の桃城や3年の菊丸が、大げさなリアクションを見せた。
「え、越前、そりゃぁ言っちゃいけねーな、いけねーよ」
「そうだよぉ。触らぬ手塚に祟りなし、って言うだろ?」
「英二、それを言うなら触らぬ神に祟りなし、だよ」
 ニッコリ笑顔で不二に訂正されて、横目で睨む手塚の視線に気付いた菊丸はおとなしくなった。
「でも確かに、手塚が笑ったところって見たことないよな」
 4年の大石が、マグカップを両手で包み込むように持って、同意する。
「え、先輩も見たことないんすか?」
 4年間一緒にいて見たことがないとはよほどのことだ、と言わんばかりに1年の堀尾がすっとんきょうな声をあげた。もともと声量があるだけに、その声は談話室中に響いた。
「大石だけじゃなくて、グリフィンドール全員、いやホグワーツ中の人間が見たことないんじゃないかな?」
「試合に勝っても、笑わないからな、手塚は」

「俺見たことあるよ」

 おっとりと話す不二と、それに同意する河村に反応して、問題発言をした5年の乾に、一斉に視線が集中した。
「見たことあるんすか、乾先輩!?」
「ああ」
 興味津々といった様子の桃城の声に、木苺のジャムをたっぷりのせたマフィンを口に運んで我関せずの姿勢を見せつつも、同学年の海堂が聞き耳を立てていた。
「いつ、どこで見たの!?」
「それはぜひとも聞きたいな、乾」
 菊丸、不二の悪戯好きな3年生コンビが身を乗り出して乾に詰め寄った。
「言ってもいいけど……後で俺が手塚に叱られるからなぁ」
 そう言いながら、乾は手塚に流し目を送る。手塚は、勝手にしろ、と言わんばかりにマグカップを口に運んだ。
「先輩、そうもったいぶらないで教えて下さいよぉ」
 話すのを渋る乾に対して、堀尾も詰め寄り組に加わった。
「そうそう。ぶっちゃけちゃいましょうよ、乾先輩」
「いったい、いつ見たんだい? 手塚が笑ったところ」
 桃城と大石も加わって、さんざん期待を煽った末に、乾はようやく話し始めた。得意げに、眼鏡をクイ、と上げて口を開く。
「3年の呪文学で習うから、大石とタカさんはもう知ってると思うんだけどね。学期末試験で元気の出る呪文をかける、っていう課題が出たんだ。それで、俺と手塚が組んだんだよ」
 元気の出る呪文は、かけられるとニコニコ笑って大満足に浸れる、という魔法である。二人一組になってそれをかけ合う、というのが試験だった。
「それで、手塚が笑ったの?」
「一応ね」
「えー、どんな感じだったんすか!?」
 手塚と海堂を除く、談話室にいる連中全員が、今や乾の座る肘掛け椅子の周りに集合していた。
「知りたい?」
「当たり前だろぉ! 乾ぃ、もったいぶらずに教えてよぉ」
 こらえ性のない菊丸が話の先を促す。乾は、分厚いレンズの入った黒縁眼鏡を不自然に反射させて、続けた。
「あの魔法、魔力の強い者がかけたら相当強力でね。1時間くらい笑いが止まらなくなった、なんて話もあるくらいなんだけど」
 ちなみに、その1時間くらい笑いが止まらなかった事件は、スリザリンで発生していた。被害者は、スリザリンの監督生で乾・手塚と同学年の跡部景吾である。
 事の経緯はこうである。試験で跡部と組んだスリザリンの天才、忍足侑士が緊張のあまり呪文をかけすぎてしまった。その結果、跡部は彼独特の高笑いが止まらなくなり、1時間ほど静かな部屋に隔離され、時間を遅らせて試験を受けたのだ。1時間ぶっ通しで笑い続けた結果、跡部は声が枯れてしまい、忍足はしばらく口も聞いてもらえなかったらしい。
 らしい、というのは乾が噂話としてスリザリンの生徒から聞いたからである。
「で、手塚はどうだったの?」
 続きをねだる不二に、乾は苦笑した。
「手塚は、俺より魔力が強いからね。俺の魔法に対しては抵抗力がある。それに、俺は忍足みたいに緊張してかけすぎた、なんてヘマはしなかったから」
 乾は、興味津々の部員たちを見回して、明らかにもったいぶった話し方をした。5年間の付き合いで、乾がこういう話し方をする時にはろくなことがない、と学習している手塚はひっそりとため息をついた。
「あんまり笑わなかったとか?」
「いや、ちゃんと笑ったさ。これでも、グリフィンドールの5年で手塚の次に魔力が強いのは、俺だからね」
 言って、乾は一口紅茶を飲んで、喉を潤した。
「それで?」
「それでって?」
「手塚の笑った顔って?」
「写真とか、撮ってないんすか? こっちのって、動いたりするんでしょ?」
 マグル界で育ち、今年入学したばかりで魔法界のことをあまり知らない越前が、確認するように尋ねてくる。乾は首を横に振って答えた。
「撮れるわけないだろ。試験だったんだから」
「当ったり前だろー、越前。何言ってんだよ」
「うるさいよ、堀尾」
 1年生同士での言い合いが始まる中、乾は先を続けた。
「手塚って、ほら。普段から無表情で仏頂面だろう? だから、笑うには笑ったんだけどね」
「ニコニコ笑いまではいかなかった、とか?」
 河村が同意を求めるように話しかける。乾は小さく頷いた。
「満面の笑み、とまではいかなかったな。なぁ、手塚?」
 手塚の神経をわざと逆撫でするように、乾はわざわざ手塚に同意を求めた。全員の視線が集中する中、手塚は無表情のままで不機嫌そうに答えた。
「わざわざ訊いてくるな。悪趣味なヤツめ」
「普段がその仏頂面だからね。普通に表情のある人間なら、ちゃんと満面の笑みになるんだけど、手塚だけ微笑で終わっちゃって」
「でも、あの呪文って結構効力あるよな?」
 かけたことも、かけられたこともある大石が、同学年の河村に同意を求める。
「ああ。それに乾なら、まともにかかったらかなり強力なはずなんだけど」
「それが、微笑で終わったって事は……」
「手塚らしすぎるね」

「よっぽど表情乏しいんっすね、手塚部長」

 ボソッと口にした越前の一言に、手塚を除くほぼ全員が笑い出す。話に背を向けて、聞いていない振りをしている海堂も、笑いをこらえるのに必死の形相だった。
「周りが声上げて笑ったりしてる中で、一人だけ口元と目元が少し緩んだ程度だったからね。かえって面白かったよ。フリットウィック先生も、別の意味で感心してたな」
「え、何々?」
「この呪文を受けて、この程度にしか笑わない生徒は、自分が教えるようになってからは初めてだ、って」
 最初は、乾の呪文が弱いのか、とその優秀さを認めるフリットウィックですら疑った。が、乾の呪文が弱いのではなく、手塚の抵抗力が強いわけでもなく。手塚の表情がもともと乏しいのだ、という結論に至り、そう感想を漏らしたのだ。
 以来、3年生にこの元気が出る呪文を教える際、フリットウィックは1時間笑い続けた跡部と共に、対照的にほとんど笑わなかった手塚の話を生徒に聞かせるようになった。それは彼らが卒業してからも、数十年に渡って語り継がれることになるのだが、それはまた、別の話である。
「あれ、ということは?」
 今思い出した、といった風情で河村が呟く。それに大石が続いた。
「そうだ。今思い出したよ。この呪文で微笑しただけの生徒って、やっぱり手塚のことだったんだ?」
「やっぱり、って大石その話聞いてたの?」
 クィディッチでコンビを組む菊丸から尋ねられて、大石は大きく頷いた。
「ああ。授業中にそんな話を聞いたよ。先生は名前まで言わなかったから、もしかしたら、と思っていたんだけどな」
「なんだ、フリットウィック先生、そんな話してたんだ?」
「うん、よっぽど手塚と跡部のこと、インパクト強かったんだろうね」
「だって、手塚部長とあの跡部っすよ? 無理ないっすよー」
 笑いながら言う桃城につられて、桃城と同学年の荒井や林も声を上げて笑った。
 その笑いを一気に鎮火させたのは、唯一笑わない男だった。
「お前たち、そろそろ就寝時間だ。部屋に戻れ」
「え? もうそんな時間だっけ?」
 地獄の底から響くような低い、だがよく通る声で言う手塚に、乾がとぼけたように言い返す。手塚は力いっぱい乾を睨みつけた。
「お前たち、明日グラウンド50周したいか?」
「げっ、手塚ぁ。それは酷いよぉー」
「そうだよね。ホント、鬼部長なんだから」
 3年コンビが抗議の声を上げるものの、もちろん聞き入れられるはずもなく。走らされるのは勘弁してくれよ、と口々に言い合いながら集まっていた面々は各々の部屋へ引き上げていった。
 後に残されたのは、手塚と乾の監督生二人である。
「あーあー、皆自分の飲んだカップはちゃんと片付けて行ってほしいよね」
 マフィンの食べ残しや、飲み残したマグカップもそのままになった談話室を見渡して、乾がボヤく。ブツブツ言いながらも、マントの下から杖を取り出して、皿やカップに魔法をかけてはシンクへと飛ばしていく。その手際は、見事なものだった。
「乾、人をからかうのもいい加減にしろ」
「罰として、グラウンド100周、とか?」
「走りたいなら、走ってもいいんだぞ」
「それは勘弁してほしいね。っていうか、手塚も片付け手伝ってよ」
「断る。俺をからかった罰だ。一人でやれ」
「冷たいな」
 苦笑しつつも、乾はあっという間に皿とカップをシンクに集め、残飯を捨て、洗い始めた。もちろん、全て魔法をかけられた物が自動的に動くため、自分の手を動かすことはないのだが。
「でも、あの時は微笑程度でよかったんじゃない?」
「どういう意味だ?」
「君のファンがますます増えて、大変なことになったんじゃないか、ってことだよ」
「戯言はそれくらいにしておけ」
「照れないでよ」
 散らばった椅子も魔法で元に戻し、談話室を片付け終えて、乾と手塚は自室へつながる階段を上がる。監督生の部屋は、塔の最上階にある個室だ。辿り着くには、まだ長い階段を上がらなければならなかった。
「でも、手塚を笑わせたかったら、魔法なんか使わずに、自分で努力しないとね」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だけど?」
 2段下から見上げてくる手塚に、乾は流し目を送る。
「君の笑顔は、それだけ特別だって事だよ」

 だから、それなりの努力が必要だってことさ。

 そう言って笑う乾に、笑わない男はほんの少しだけ、口元を綻ばせた。
「乾、俺の部屋へ来るか?」
「いいの?」
 手塚の誘いに、乾の足が完全に止まった。響きやすい石造りの階段で、手塚は声をひそめて言った。
「お前の部屋は、他人が入れる状態じゃないだろう」
「まぁ、確かに……」
 乾の部屋には、魔法薬の調合に使う薬草や、動物の干物や体の一部が入った瓶がずらりと並んでいる。二人で濃密な時間を過ごすのも、睦言を交わすのも、全く不向きな部屋だった。
「で、どうなんだ。来るのか?」
「もちろん、お邪魔します」
 乾は手塚がいる段の一つ下まで下りて、手塚の手を取った。とっさに手を引こうとするのを許さずに、その甲に唇を寄せた。
「今は眼鏡かけてるし、相手が俺だから大丈夫だろう?」
「あ、ああ」
「もっともその眼鏡外しても、すぐに忘れさせてあげるけど」
 乾は手塚の手に指を絡ませて、ぎゅっと握った。そして手塚をエスコートするように、階段を上り始めた。


「――っ、ぁ……あ………ふぁ――」
 ゆっくりと、肉をかき分けて進入してくる熱に、手塚は思わずため息にも似た呻きを漏らしていた。それは決して苦痛を訴えるものではなく、甘い響きを帯びていた。
 じっくりほぐされて、慣らされて。その上で押し入ってくる乾は、いつも優しいことを手塚はよく知っている。
 眼鏡という歯止めを外した手塚がどうなるのかも、乾は誰よりもよくわかっている。歯止めが外されて、触れている相手から際限なく流れ込んでくる記憶に翻弄されないように。少しでも早く、それを忘れられるように。忘れられるほどの快楽と愉悦に飲み込まれるようにと、手塚は自分からも乾を奥へと引き入れていた。
「辛い?」
「……平気、だから―――っ、もっと……」

 早く、奥まで来い。

 続く言葉は、手塚の口から紡ぎ出されることはなかった。乾が、それをさせなかったのだ。
「――あっ! ――ぁ、ああぁ……」
 軽くリズムをつけて、乾は一気に根元まで押し込んだ。最奥を突かれて、ベッドの上で手塚の体が跳ねた。天蓋の付いた広いベッドが、お互いを求める二人の動きに軋んだ。
 ホグワーツで眼鏡をかけている生徒は、2種類に分けられる。本当に視力が悪く、日常生活で眼鏡が必要不可欠な者と。特殊な能力を持って生まれ、その能力を抑えるために眼鏡をかけている者。
 乾は前者で、手塚は後者だった。
「ん、ふっ……あっ」
 小刻みに腰を使う乾に反応して、手塚は顔を背けて声をあげた。目を閉じると、脳裏に乾が見聞きし、思考した記憶が見える。手塚には、触れた相手の記憶を読む能力が生まれつき備わっていた。普段はそれを抑えるために眼鏡をかけ、ガードしているのを知っているのは、先生方を除けば乾だけだ。
(手塚になら、全部見られてもいいよ、俺は)
 好きだと告白されて、自分の能力を教えても、乾は動じなかった。手塚にそういう能力があることを知っても、手塚に触れるのをためらわなかった。
(記憶が読めるってことは、俺は手塚に嘘つく必要も、隠し事する必要もない、っていうことでしょう? それに、手塚だって。俺が本音を言ってるかどうか、いつでも確かめられるじゃない。こんな風に)
 平然とそう言って手塚からキスを奪ったこの男は、今は誰よりも手塚の側にいて、手塚の中に入り込んでいる。
「まだ、何か見える?」
「あ……んぅ、お前、だけだ……」
「そうだろうね。綺麗で、いやらしい顔してる……手塚」
「ば、かが……」
「………でも、好きでしょう?」
 乾がくすくすと笑いながら問い返してくる。つながった場所からその振動が伝わってきて、それさえも手塚に快感を与えた。
「――っ、う……」
 じわじわとせり上がってくる甘い痺れに、手塚は自分の中にいる乾を締め付けていた。途端に全身を駆け抜ける快感に、乾は呻いた。そして誘われるままに、一度ギリギリまで引き抜いた自身を勢いよく、力強く突き入れた。
「あっ! あ、ああっ、あ――っ!」
 一気に頭まで駆け上がる快感に、手塚はあられもない叫び声を上げた。しがみつくように乾の背中に腕を回し、乾の動きに合わせて腰が動き出していた。
「手塚、かわいい……」
 乾はクスリと笑って、身を乗り出して手塚の唇の端にキスを落とす。その反動でさらに体が密着して、手塚は快感を訴えた。
「もっと、見せて。手塚の感じてる顔」
 乾はベッドと手塚の間に腕を入れて、つながったまま手塚を抱き起こした。向かい合う格好で、手塚を上からまたがらせるようにして、腿の上に乗せる。
「ああ………ふっ、う――っ!」
 乾の上に腰を落とし、自分の体重も手伝って、手塚は奥まで乾を迎え入れていた。がっしりした手を尻に添えられて、促されるままに腰を揺らすと更なる快感が手塚を翻弄していった。
「あ、あっ、い、乾っ!」
「いい? 感じてる?」
「あ……か、感、じる……。乾――っ!」
 自分の中を乾が出入りするのを、手塚は背中をのけぞらせて感じていた。
「かなりイイみたいだね、手塚。ここも……こんなに濡れて、硬くなってる」
 片手を手塚の腰から外し、乾はやんわりと前を握った。たちまち、硬く張りつめた先からこぼれる液が、乾の指を濡らした。きゅ、と強く握ると、手塚は声を上げて中に入っている乾を締めつけた。
「手塚」
 乾は甘く響く声で手塚を呼んで、引き寄せた。乾に引き寄せられて、その引き締まった腹に自身を擦られて。手塚は乾の肩に、すがるように手をかけた。
「あ――乾、乾っ……――っ!」
「手塚……本当に、綺麗だ」
 魅入られたようにうっとりと、乾は手塚の首筋に唇を寄せた。首から下へと唇を這わせて、鎖骨にたまった汗をすすってそこに痕をつける。
「ぁ……ぅん……――乾ぃ……」
 乾に揺さぶられ、自らも腰を揺らしながら、手塚が甘えたような声で乾を呼んだ。その声音に、乾は手塚の限界が近いことを悟った。
「一緒にイこうか、手塚」
「あっ、あ……。――ふぅんっ……んんっ、あっ!」
 二人で頂点へと昇っていく動きが、いっそう激しくなる。そして乾が手塚の最奥に欲望を解き放った瞬間。手塚もまた、自身を握りこんでいた乾の手の中に、欲望を迸らせていた。


 二人ほぼ同時に頂点を極めた後、手塚は意識を飛ばしてしまった。そのまま乾へと倒れこんでくるのを受け止めて、ベッドへ横たえて、簡単に身体を清めた。そして今、手塚は乾の腕の中でまどろんでいる。
(お祖父様……お祖父様―っ!)
 ふいに、乾の脳裏に手塚の記憶が飛び込んできた。こうして抱き合った後、手塚の意識が夢の中で拡散している時、何度かに一度こういうことがある。乾は、流れ込んでくる手塚の記憶に逆らうことなく、目を閉じて身を任せた。
 手塚自身も気づいていない。自分が半ば意識を飛ばしている時に、側にいる乾に記憶の一部を移していることは。乾に触れていても、その部分だけは読めないようだった。だから、乾は今まで一度もそれを話したことはなかった。
 手塚から流れ込んでくる記憶は、いつも決まって同じものだった。それは、手塚の中にある、最も哀しい記憶だ。
 石造りの広い屋敷。
 古い調度品が置かれ、暖炉があって、赤いじゅうたんが敷かれた部屋。
 濃い茶色の木に、じゅうたんとよく似た色の布が張られた肘掛け椅子。
 今よりずっと幼い手塚が、椅子に触れて泣いていた。
 心の中いっぱいに広がっていく、悲しみと怒りが、乾の心も埋めていく。
「大丈夫だから、手塚」
 呟いて、記憶の中にいる幼い手塚の代わりに、今目の前にいる手塚の髪を撫でる。
 手塚から流れてくるその記憶が何なのか、乾は知っていた。イギリスに住んでいる魔法族なら、ほとんどの人間が知っている事実だった。
 手塚の家は、イギリス国内でも有数の名家だ。古くから偉大な魔法使いを輩出し、イギリスの魔法省でも重役を務めてきた一族だった。決して闇の魔法に手を染めることなく、人望も厚い一族。
 だから、目を付けられてしまったのだ。闇の魔法を駆使し、魔法界を支配しようとした闇の帝王、ヴォルデモートに。
 ヴォルデモートは、手塚や手塚の両親を含め、自分に従わないのなら皆殺しにすると予告した。そして彼は、そう予告したことは必ず実行する。それを知っていたために、手塚の祖父は手塚と、手塚の両親に身を隠すように指示して、自分だけがイギリスに残った。
 そこへ、ヴォルデモートがやって来たのである。手塚の祖父は、闇の魔法の中でも特に許されざる呪文、死の呪文をかけられて殺された。ヴォルデモートが越前リョーマによって消滅するまで、数多くの魔法使いがその呪文で殺されたが、手塚の祖父もその一人だった。
 手塚の祖父は、自らの死をもって、自分の息子夫婦と孫を守ったのである。
 乾が見ている手塚の記憶は、ヴォルデモートの消滅後、自宅へ戻った手塚が祖父の死を目にした時のものだ。死の呪文をかけられた手塚の祖父は、跡形もなく吹き飛ばされていた。その死の呪文には、反対呪文も対抗呪文も存在しないのだ。かけられたら最後、死あるのみ、なのだ。
 触れた物の記憶を読み取ってしまう能力を持って生まれた手塚は、祖父が死の瞬間まで座っていた椅子から、祖父が殺された場面を見せられてしまったのだ。
「手塚……好きだよ、手塚」
 手塚の髪を撫でていた手を止めて、乾はうっすらと目尻に涙を浮かべる手塚を抱き寄せた。手塚は夢の中で、今乾に見せた記憶を見ているのだろう。
 5年生になってから、手塚からこの記憶が流れてくる回数が増えた。手塚と付き合うようになってから4年生までに見た回数と、5年生になってから今までに見た回数が、同じなのだ。
(やっぱり、越前が入学してきたからか?)
 ヴォルデモートに襲われながら、唯一生き残った少年。彼の家を襲い、彼の母親を殺し、彼をも殺そうとして失敗し、ヴォルデモートは姿を消してしまった。
 闇の魔法の中でも、最も強力な死の呪文を難なく駆使できるほどの力を持った男だ。死んではいない。今も、どこかで力を蓄えて復活の日を待っている。というのが、もっぱらの噂だった。乾も、そう思っている。
 そのヴォルデモートと最後に関わった越前がホグワーツに入学してきてからというもの、妙な事件が相次いでいる。
(気にするな、って言っても、無理か)
 手塚も、あの時のままではない。今は乾も、頼もしい仲間もいる。
「手塚に何かあった時は、俺の全てを賭けて手塚を守るよ」
 手塚の前では口に出したことのない誓いをこめて、乾は手塚の前髪をかき分けて露にした額に口づけた。すると、乾に口づけられたのがわかったのか、手塚は目を開けた。3度ほど瞬きをして、乾の胸に頬を摺り寄せて横たわっていることに気づいて、乾を見上げてきた。
「ごめん、目を覚まさせてしまったかな」
「いや、うとうとしていただけだ。……夢を、見ていたんだ」
「そうなんだ?」
「嫌な夢だった。哀しくて、不安でたまらない……」
「そうだったのか」
 頷いて、乾はそっと手塚を引き寄せた。
「だが、不思議だな。いつもは胸が張り裂けそうなほど苦しいのに、今はそれほどでもなかった。目が覚めたら、お前が側にいて……」
 すがるような目を向ける手塚に、乾は微笑して唇にキスを落とした。軽く、触れるだけのキスを。
「少しは、安心してくれたんだ?」
「ああ。お前は俺を好きでいてくれる気持ちも、何もかも、隠さずに見せてくれるからな」
「言ったでしょ。手塚になら、全部見られてもいいって。俺がどれほど手塚を好きでいるか、見せてあげるって」
「……そうだったな」
 乾に頷き返して、手塚が微笑した。
 それは、乾以外の誰も見たことがない、心から手塚が安堵して、心を開いている時にしか観ることのできない微笑だった。


Fin

written:2003.9.2

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