さわって 変わって

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さわって 変わって



 部活を終えて、汗を拭いて着替えながら、おもむろに不二が言い出した。
「手塚って、最近柔らかくなったよね」
 それまでの会話のつながりも脈絡も、何もかも無視していきなり切り出されたそれに、俺は応えていいものかどうか、一瞬迷った。何をどう考えて、どう解釈した上でそう言い出したのか。不二の言葉はその過程をすべて飛ばしていて、俺には掴みかねた。
「……何故、突然そう思ったんだ?」
「ほら、そういう所」
「そういう所?」
 かろうじてひねり出した問いかけにも微笑されて、俺は正直戸惑った。
「今までの手塚なら、何を下らないことを言ってるんだ、って一蹴して終わりだったじゃない? でも、今はちゃんと僕がどうしてそう思ったのか、理由を訊いてくれるようになった」
「それは、つまり……」
「優しくなったよね、手塚」
 微笑をさらに深くして、不二はそう言った。
「言われてみれば、そうだな。ここ最近の手塚、丸くなったような気がするよ」
 不二の言葉を受けて、俺のすぐ後ろにいた大石までそう言い出した。
「丸い、か?」
「厳しいのは相変わらずだけどな」
「そうそう。でもぉ、手塚って前よりとっつきやすくなったような気がするにゃ」
 ダブルスで大石とコンビを組む菊丸も、話の輪に加わってきた。シャツのボタンを留めながら、俺は何気なくそれを聞いていた。
 自分ではそれほど変わったような気はしないが。……いや、変わったと言われれば、そうなんだろう。
「そうか?」
「うん。だって前は、寄るな、触るな、話しかけるなオーラ出てたもん、手塚」
 菊丸の例えはいまいちよくわからなかった。が、大石や不二にはわかったらしい。
「そうだね」
「英二も手塚にだけは遠慮して、あまり話しかけないようにしてたからな」
「へぇ、部長って今よりもっとキツかったんすか?」
 さっさと着替え終わって、後は帰るだけという状態になっていた桃城まで、俺の周りに集まってきた。
「うーん、そうだなにゃぁ。もっとトゲトゲしてたかも」
「トゲトゲねぇ」
 菊丸のよくわからない例えに、桃城が首を傾げる。が、俺はだんだんその意味がわかってきた。
「……つまり、角が取れて丸くなった、と言いたい訳か、お前たちは」
「そうそう。そーゆーこと」
「やっぱり、優しくなってるね、手塚」
 手を打って頷く菊丸に、再び不二が最大の微笑を見せた。
「ってことは、あの噂はやっぱり本当なんすか、部長?」
「噂?」
「最近、付き合ってる人がいる、って噂っす」
 桃城が期待と好奇心に満ちた眼差しを俺に向けてきた。……お互いに慎重に付き合っていたつもりだったのだが、いつの間にか勘付かれていたらしい。まぁ、噂の出所はどうせ不二だろう、と俺は見当をつけていた。すると、確認するまでもなく、その当人があっさりと白状した。
「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで って言うじゃない? 物腰が柔らかくなったし、時々上の空になってるし。恋でもしてるかな、と思ってたら案の定だったね」
 ご丁寧に百人一首に入っている平兼盛の歌まで持ち出しての説明に、俺は思わず問い返していた。
「そんなに、変わったように見えるか?」
「うん。もちろん、いい意味でね」
「そうか、お前たちがそう言うなら、そうなんだろう」
 俺は、素直に納得していた。
 乾を好きになるまでは、正直俺は自分のことがあまり好きではなかった。常に誰よりも強くあることを求められて、息が詰まることもあった。強くあろうと努めるあまり、必要以上に人を寄せ付けないようにも、していた。
 けれど乾と付き合うようになってからは、少し肩の力が抜けたような気がする。そして、乾が俺を好きだといってくれるから。俺は自分を前より少し、好きになれた。
 乾の名前を出すことはなかったが、俺はそう説明していた。
「いいっすねぇ、そういうのって」
「ふしゅ~」
 まるで関心がない、といった様子を見せていたにもかかわらず、しっかり話を聞いていたらしい。桃城がため息をつくとほぼ同時に、海堂が独特の息を吐いていた。
「あの、訊いてもいいっすか、部長?」
「なんだ」
「先に告白したのって、部長なんすか?」
 いい意味で、前とは変わったと言われたことは、嬉しかったんだろう。いつもなら無視しているはずのそんな桃城の問いかけにも、俺は答えていた。
「いや、向こうからだ。好きだと言われるまで、俺は好かれていることすら知らなかった」
 正確には、乾自身も俺に告白するその直前まで、俺のことを好きなのだと気づいていなかった。そして俺も、最初は乾を好きなのかどうか、よくわかっていなかった。そんな曖昧な俺を、乾は根気強く待ってくれた。時々、逸る気持ちを抑えきれずに先走ることもあったけれど。それでも、戸惑うことはあったが、嫌うことはなかった。
 いや、戸惑っていたのは乾にではなかった。思いがけないほど強く、自分でも止められないほどに乾に惹かれていく自分自身に、俺は戸惑っていたんだろう。
「本当はとっくに好きになっていたのに、俺はそれをなかなか認められなかった。そのせいで、ずいぶん遠回りをしてしまった」
「一時期、酷いスランプに陥ってたもんね、手塚」
「部長が?」
 この中で唯一事情を知っている不二が、思い出したように呟く。それを聞いて、ついに越前まで俺の側に寄ってきた。
「うん、ちょっと調子悪い時期があったんだよ。でも去年のことだからね」
「ふーん、部長でもそういうことってあるんすね」
「えー!? でも俺たち、手塚には全然勝てなかったよぉ?」
「まぁ、手塚だって人間なんだし」
「お前は俺を何だと思っていたんだ、大石?」
「ああぁ、ごめん、手塚」
 軽く睨むと、大石が苦笑して謝ってきた。
「それで、付き合うようになってからはもう長いんすか?」
 興味津々といった様子で、越前がさらに問いかけてきた。
「そうだな。夏休みに入れば、ちょうど1年になる」
「えぇ!? そんなに長かったんだ? 全然気づかなかったにゃぁ」
 いささか大げさに驚く菊丸に、俺は内心で苦笑した。
 相手が相手なだけに、意識して隠してきたということもあるんだが。
「俺は、そんなに色恋沙汰には無縁に見えるか」
「うんうん」
「見えるっす」
 俺の言葉には、菊丸や桃城だけでなく、その場にいる全員が頷いていた。
 まぁ、無理もないか、と正直思う。今まで、周りの同級生たちが恋愛の話をしていても、俺が進んで加わることはなかった。それに、自分がこんな風に誰かを好きになるなんてことも、想像していなかったのだから。
「本当に好きなんすね、その相手のこと」
「ああ」
 桃城にそう言われて、俺は正直に頷いた。すると、大石も不二も菊丸も、みな苦笑した。
「……どうしたんだ?」
「いや……本当にラブラブなんだなぁ、って」
「ラブラブ……」
 菊丸が口にした言葉を、なんとなく反芻してみた。のだが、微妙に違う気がする。
「そういう軽々しい言い方は俺とい……」
 一瞬、いつものクセで乾と言いそうになって、寸前で言葉を収めた。
「俺の恋人には、合わないような気がする。俺は、軽い気持ちで付き合っているわけではないんだ」
「真面目に付き合ってるから、ってことかい?」
「ふふ、手塚らしいね」
 俺を好きだと気づいてわずか数秒で告白されたものの、乾は決していい加減な男じゃない。俺に好きだと言ってからは、これ以上ないほど誠実に俺に接してくれた。
 だからこそ、俺も惹かれたのだと思う。
「そういう話聞いてると、部長とその恋人って喧嘩とかすること、なさそうっすよね」
「そうそう。なんか、お互い大人って感じするっすよね」
 越前と桃城の言うとおり、俺と乾が喧嘩をしたことはない。口論になることはあるけれど、たいていは乾の方が先に折れるか、話し合う過程でお互いに納得して終わってしまう。
 そう説明すると、不二が少し納得のいかない様子で聞いてきた。
「それって、手塚が丸め込まれるってこと?」
「さぁ、どうだろうな。だが、向こうがそう言うのだから、と考え直すことはある」
「っていうか、部長を丸め込める人間ってのも、ある意味すごいっす」
「……そうかもしれないな」
 海堂がそう言うのも、もっともなのかもしれない。だが、相手は他でもない。誰よりも俺のデータを取っていて、心身ともに、俺以上に俺のことを知っているのだから。
 そう考えながら、いつも二人きりでいる時の乾の口説き文句の数々を思い出しそうになって、俺は自分で自分に歯止めをかけた。さすがにこんな公衆の面前で、そういう不謹慎なことを思い出して赤面するわけにはいかない。
「ってことはぁ……。手塚って、とーぜんチューもエッチも経験済みってコトだにゃ?」
「え、英二、こら……」
「……―――っ」
 まるで俺の心を見透かしたような菊丸の言葉に、さすがの俺も絶句してしまった。
ニヤリと笑う菊丸を大石が咎めたが、俺たちの年代でそういうコトに最大級の関心をもってしまうというのは……仕方のないことだ。急激に成長する体に比例するように、セックスへの興味や関心も膨らんでいく。
 それは、自分にも覚えがあることで。だが、答えてやる必要もないだろう。
「ノーコメントだ」
「それって、想像に任せるってコト?」
「邪推するなよ、不二」
 何も言わないのをいい事に、妙な噂を立てられては敵わない。俺は先に釘を刺した。
 そして諦めずに食い下がってくる桃城にも、逆に問い返してやった。
「えー、教えてくれないんすか、部長?」
「ならば桃城、お前は同じ事を聞かれて答えるのか?」
「いや、それは……」
 さすがに言葉を濁す桃城を軽く睨んで、俺は一番下のボタンを留めた。ついつられていろいろと話してしまったが、そろそろ潮時だろう。
 日がかなり傾いて、部室内は薄暗くなってきていた。
「でも1年近く付き合ってんなら、キスくらいはとっくに経験済みって考えた方が、自然っすよね」
 アメリカ帰りだからなのか、歳と体格の割には大人びている越前が俺に探りを入れてきた。なるほど、確かにこの新入生は負けず嫌いで諦めが悪い。
「だったら、どうなんだ?」
「別に。いいんじゃないっすか、好きな相手としてるんだから」
 切り返してやると、越前はとても中1とは思えないセリフを吐いた。
「おチビ、ませてるにゃぁ」
「だよなぁ。まだ毛も生え揃ってねぇクセによぉ」
「桃先輩、いつ俺の見たんすか?」
「あ? 物の例えだよ、例え」
「見たこともないクセに、いい加減なこと言わないでほしいっす」
「なんだよ、じゃぁ生え揃ってんのか? 見せてみろよ」
 桃城が越前に絡んで、次元の低い言い争いが始まった。それをいいことに、俺は話の輪から外れることにした。その時。
「あれ、みんなまだ残ってたんだ?」
 部室のドアが開いて、長身の体を折り曲げるようにして、四角い黒縁眼鏡をかけた男が入ってきた。
「乾」
 俺より先に、大石が彼を呼んだ。何気ない様子で視線を投げかけると、分厚いレンズの奥から優しい眼差しが返ってきた。俺にだけわかるように。
「竜崎先生との話は、もう終わったのかい?」
「ああ。明日はレギュラーに特別メニューを用意しておいたから、楽しみにしててくれ」
 問いかけてくる大石に答えながら、乾はバサッとポロシャツを脱いで、しっかりと筋肉の付いた上半身を露にした。
「それって、例の野菜汁もあるのかい?」
「当然だろう?」
 不二に確認されて、不自然にレンズを光らせて乾が頷く。
練習が終わってからかなり時間が経っているせいで汗は引いているようだったが、乾はタオルで一度体を拭っていた。腕を動かすたびに、背中に盛り上がった肩甲骨がしなやかに動く。それに視線を奪われそうになって、俺は目を逸らした。
 そうでなくても、さっき付き合っている恋人の話をしていたというのに。乾に見惚れているのを気づかれては、まずいことになる。
「でも、もう少し早く来ればよかったのにね、乾」
「どういうことだ?」
「そうそう、面白い話が聞けたんだよぉ、乾ぃ」
 クラスでも隣同士なのだという菊丸と不二が、乾を両側から挟み撃ちにしていた。その構図に、俺は何となく嫌な予感がしていた。
「面白い話?」
「うん。手塚がね」
「手塚?」
 やはりな、と俺は心の中で嘆息した。
「乾はぁ、手塚に付き合ってる人がいるってぇ、知ってた?」
「手塚に?」
 菊丸に聞き返して、乾は肩越しに視線を一度俺に向けた。そしてクスリ、と小さく微笑した。
「知ってるよ、一応ね」
「ええ!? 乾も知ってたんだぁ!?」
「データ取ってるからね、手塚の」
「それで気づいたのか。さすがだなぁ」
 大げさに驚く菊丸の隣で、大石が納得したように頷く。俺は内心で心が痛んだ。
 乾が知っているのも当然だ。俺が付き合っている相手は、他でもない乾で。俺の恋人張本人なのだから。
「それで、手塚は何て言ってたの?」
「ラブラブなんだぁ、って言ったら、そんな軽々しくないって」
「順調に交際してます、って話だったよ」
「へぇ、そうなんだ。それはぜひとも、詳しく聞きたかったな」
 菊丸と不二から交互に言われて、乾はまるで他人事のように言ってのけた。こういう所は、時に俺以上にポーカーフェイスだ。
「手塚、今度俺にもその話、聞かせてくれるかな?」
「お前の場合、俺に聞かなくてもデータでわかるだろう」
 何食わぬ顔をしてそんなことを言ってくる乾が癪に障って、俺は言い返してやった。
「データだけじゃわからないことも、時にはあるからね」
「っていうか、乾は聞く必要ないんじゃない?」
 なおも言い返してくる乾に、不二が冷やりとすることを言ってのけた。部室内の空気が、局地的に零度近くにまで下がったような気がしたのは、果たして俺だけだったのだろうか。
「どういうことかな、不二?」
「あくまでもシラを切るつもりかな?」
「不二先輩、何言ってるんすか?」
 桃城が不二と乾の間に流れる不穏な空気に気づいて、怪訝そうに問いかける。
 不二め、ここで俺と乾のことを暴露するつもりか?
 かといって、それを止めようとうかつに首を突っ込めば、かえって不二の思う壺だ。俺はただ、事の成り行きを見守るしかなかった。
「手塚のことは、誰よりもよく知ってるんじゃないの、乾?」
「俺がデータを取ってるのは、手塚だけじゃないけどね、不二?」
 開眼した不二の視線を、乾は真正面から受け止めて、逆に睨み返していた。どちらも一見すると笑顔なのだが、その目が笑っていないのは不気味だった。
 まさに一触即発といった雰囲気の中、不二が微笑を深くした。
「乾、首の付け根にキスマーク付いてるけど?」
「え!?」
「俺は付けた覚えはないぞ」
 乾が首を押さえるのと、俺が乾を振り返るのはほぼ同時だった。
 その瞬間、その場にいた全員の視線が俺と乾を交互に見比べる。
 しまった、と思った時にはすでに遅かった。
「もしかして……」
「さっき部長が話してた相手って……」
「部長の恋人って……」
「乾!?」
「ふしゅ~」
 俺は不二の策略にまんまとはまってしまったことに、その時ようやく気づいていた。


「やれやれ、今日はさんざんだったな」
「不二にまんまとしてやられたな」
「今日、タカさんが家の手伝いで部活休んでたからね。手塚に嫉妬して、八つ当たりしたってとこだろうけど」
 あやうく質問攻めに遭いそうになった俺と乾は、その場をなんとか乗り切って、乾の家に避難した。
「手塚、いったいどんな惚気話したのさ?」
「俺は惚気た覚えはないぞ」
 乾の名前は出さずに、事実を話しただけだ。
「……それを惚気って言うんだけど」
「そうなのか?」
「……まぁ、いいけどね。そういうところも全部ひっくるめて、俺は手塚が好きだから」
 柔らかく微笑してそう言いながら、乾の腕が伸びてきて俺を抱き寄せた。
「それより、明日からどうするんだ?」
「どうするもこうするも、普通にしてればいいよ」
「そういうものか?」
「そういうものでしょ?」
 額に乾の唇が降りてくる。
「俺と付き合うことで、いい意味で変わってきてる、って言われてるんだから。いいんじゃない?」
 眼鏡が外されて、乾以外の物がぼやけて見える。
「だから、もっと俺を好きになって、もっといい感じに変わっていけばいいよ」
 それは詭弁かもしれないけれど。
 俺にとっては何よりも魅力的な言葉だった。
「手塚は俺が好き?」
「好きだ」
「だったら、何も気にすることないでしょ」
「……そうだな」
 俺は乾の背中に腕を回して、抱き返した。


Fin

written:2003.11.23

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