告白の場所

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告白の場所


 利き腕と肩の治療を終え、青学に戻ってから最初の土曜日だった。
 梅雨が明けて間もない、本格的な夏の暑さでうだるようなその日、午前中の補習授業を終えて部活に出た手塚は、見慣れた顔ぶれの中に一人足りないことに気づいた。
「大石、乾がいないようだが。何か聞いているか?」
 練習メニューの打ち合わせをしようと姿を探しても、見当たらなかった。練習に遅刻、又は欠席する場合は理由を部員の誰かに伝えるか、部室のホワイトボードに書いておくべし。というのが、青学男子テニス部の決まりである。それを破って無断で遅刻、欠席した場合は即グランド数十周という罰が科せられる。
 部活が始まる時間だというのに、乾の姿は見えず、ホワイトボードにも何も書かれていなかった。
「いや、俺は何も聞いてないけど……。来てないのか?」
「ああ。部室にも何も書いていなかった」
「乾に限って、無断で遅刻っていうのはありえないよな」
 何も聞いていないらしい大石は、腕組みをして考え込む様子を見せた。そこへ、後ろから軽く声をかけてきたのは、大石とダブルスでコンビ
を組む菊丸だ。
「乾なら、まだ教室残ってたよ」
「教室? なんでまた」
「なんか、居残りテストなんだって」
「乾が!?」
 乾という人間と、居残りテストという言葉はあまりにもかけ離れていて、手塚と大石は思わず声を揃えて問い返していた。
 乾は、テニスをする時はもちろん、野球や他のスポーツをする時でも常に頭を使ってデータを取り、分析し、緻密なプレーをする。膨大なデータとそれを分析し、活用するだけの能力を持ち合わせた乾は、当然学校の成績もトップクラスである。
 その彼が、居残りテストというのは、想像を絶していた。
「まさか、乾だけじゃないよぉ。クラス全員で居残りテストなんだって」
「なんだ、クラス全員か。って、何かあったのか、乾のクラス?」
 3年レギュラーの中で、乾だけクラスが離れている。手塚と大石は隣のクラス、菊丸と不二は同じクラス、河村のクラスも同じ階にあるのだが、乾だけは下の階だった。
「竜崎先生の授業中に、サボってタバコ吸ってたのがいたみたいだね。それがバレて、罰としてクラス全員居残りテスト。今日授業でやった所が範囲で、全員が80点以上取れるまで帰れないらしいよ」
 どうやって詳細を知ったのか、言葉足らずな菊丸に代わって不二が解説した。
「乾のクラスの後、うちのクラスで授業だったんだよね、竜崎先生。もう、カンカンだったよ」
「そうそう。あんなに怒ってるトコ見たの、久しぶりだったよなぁ」
「で、連帯責任で全員居残りっていうわけか?」
「ああ、なるほどね。それで乾のクラスのヤツ、皆購買部に走ってたんだ」
 不二の説明に、大石も河村も納得した様子だった。
「それで、乾は質問攻めにあっていた、というわけか?」
「その可能性は、すごく高いと思うよ」
「乾のヤツ、理数系だけは手塚より成績いいからにゃぁ」
 少し悔しいが、菊丸の言うとおりだった。乾は理数系にかけては手塚の上をいく。総合成績ではいつも手塚が上なのだが、理数系はさすがの手塚も乾にはかなわない。
「案外、補習授業とかやってたりして」
「とりあえず、竜崎先生が了承済みってことか。だったら、お咎めなしだな、手塚」
「そういう事情なら、仕方ないだろう」
「っていうか乾、部活出てこれるのかにゃぁ? あいつ、確か学級委員じゃなかった?」
「そういえば、そうだよね。全員の答案持って行ったついでに、竜崎先生からお説教っていうのもありかも」
「ああ、それある、ある」
 一通り全員が納得したところで、手塚は部活を開始する号令をかけた。

「部活を始めるぞ。全員、グランド20周だ!」

「ええぇー、手塚ぁ。せめて10周にしようよぉ」
 言うや否や、すぐに菊丸が不満そうな声を出す。手塚は容赦なく言い返した。
「なら、お前だけ30周走るか、菊丸?」
「うわぁ、それはパスパスぅ」
「ほら、早く行こう、英二。ぼーっとしてると、倍に増やされるぞ」
「そうそう。黙って走る」
 大石と不二に促されて、菊丸も走り出した。手塚は皆がスタートしたのを確認して、最後に走り始めた。いつもいるはずの、自分を見ているはずの人物がいない。そんな違和感を抱きながら。


 そして結局、乾が部活に顔を出したのは、もう片付けも終えようという夕方になってからだった。
「あれ、もう終わっちゃったんだ」
「ずいぶん時間かかってたね」
「ああ。テストそのものは1時間くらい前に終わってたんだけどね」
「その後延々お説教くらってた、とか?」
「その通りだよ、タカさん」
 3年レギュラー達が制服に着替える中、乾だけは制服からポロシャツに着替えていた。
「俺、打って帰っても大丈夫かな、大石?」
「ああ、構わないよ。ただし、戸締りはちゃんとしておいてくれよ」
「悪いね」
 大石が投げて渡した部室の合鍵を受け取って、乾はそれを脱いだ制服の上に置いた。
「1日ラケット握らないと、調子出ないんじゃない?」
「まぁね。1日休んだら、取り戻すのに3日かかるからね」
「乾、それピアノじゃないんだから」
 乾のとぼけた発言に、不二がすかさず突っ込みを入れる。そんな会話を聞き流しながら、手塚はポロシャツを脱ごうとしていた手を止めた。
「打って帰るなら、相手がいるだろう。……付き合ってやる」
「え、いいの? でもお前、腕は?」
 嬉しさと戸惑いが見え隠れする声音で、乾が問い返してきた。つい先日まで、九州の病院で療養していた手塚を気遣うその気持ちが嬉しかった。が、それを感づかれないように、手塚はわざと仏頂面で答えた。
「心配ない。俺も練習不足だからな」
「そっか、入院してたんだもんね」
 ポロシャツに短パン。すっかり着替え終えた乾は、ラケットとボールを数個持って部室を出て行こうとしていた。手塚は、一度バッグにしまったラケットを取り出して、乾を追いかけた。
「試合感覚とか、忘れてるんじゃない?」
「そこまで休みボケはしていないぞ」
「そう? じゃ、試してみるかい?」
「試すのはいいが、妙な野菜汁は持ち出すなよ」
「それは残念」
 他愛のない会話をしながら、二人でグランドに出る。金網の戸を開けて、コートに入ろうとしたところへ、自主的にランニングをしていた海堂が戻ってきた。
「先輩、今出てきたんすか?」
「竜崎先生のお説教が長くてね。悪いけど、自主練しててくれるか」
「わかったっす」
 それだけの短い指示で、海堂は乾が言わんとしていることを理解したらしい。低く頷いて、部室へと走っていった。
 海堂は入部以来、乾にアドバイスを仰ぐことが多かった。といっても、海堂から何か助言を求めることはなく、たいてい乾からあれこれと世話を焼いて、アドバイスをしているのだが。
 礼儀正しいのは認めるが、素直ではない性格の海堂が、唯一懐いているのが乾だ。

『海堂とダブルスを組んでみようと思うんだけど、どうかな』

 関東大会の前、レギュラーに復帰した乾がそう言い出したとき、手塚は正直軽い嫉妬を覚えた。そして今も。
「海堂と、何か約束していたのか?」
「約束っていうわけじゃないけどね。海堂のヤツ、放っておいたらすぐムチャをするからね、見ててやらないと」
 そう言いながら、乾は眼鏡のブリッジをくい、と指で上げた。
「ま、君ほどムチャなヤツは他にいないけどね」
 そして続けた一言に、手塚は引っかかるものを感じた。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だけど。ああ、ストレッチ、手伝ってくれるかい?」
 手塚の問いかけをさらりと流して、乾はラケットを置き、足を伸ばしてグランドに座った。手塚は釈然としない思いを抱えたままで、乾の背中を押した。
 打倒手塚を目指して体を鍛えた乾の背中は、程よく分厚い筋肉で覆われている。青学テニス部の誰よりも高い身長に、鍛え上げた体。女子生徒の中に隠れファンが多いことも、手塚は知っていた。
「そういえば、手塚に背中押してもらうの、久しぶりだな」
「お前、いつも海堂と組んでいるからな」
「まぁ、ここ最近はね」
 ぐい、と体を前に倒す動きと言葉が重なって、乾がふうっと息を抜く。もともと低くて深みのある乾の声が、吐息混じりになるその瞬間が、手塚は好きだった。
「手塚、もう少し強く押しても大丈夫だよ」
「そうか」
 伸ばした長い脚に上半身がつくくらい、乾は息を吐きながら体を曲げる。手塚は乾に言われたとおり、背中を押す手に力を入れた。手塚が背中を押す力に合わせて、乾はいったん肺の奥まで吸い込んだ息を吐く。そして息を吐きながら、乾は額が脚につくくらい体を曲げた。
 悔しいが、乾という男は手塚より体が大きくて、柔らかい。手塚は、同じように柔軟をしていても、ここまではいかない。
『腹式呼吸をして、吐きながら曲げるといいよ』
 乾からそうアドバイスしてもらって実践してみても、やはりだめだった。
 ぐい、と手を押し戻そうとする乾の動きに合わせて、手塚は腕の力を抜く。薄いポロシャツ1枚を隔てただけで、乾の肌に触れている。手の平に伝わってくる彼の体温は、今この瞬間、手塚だけのものだった。

「お前が好きだ」

 何度も言いそうになって、その度に心の底に押し込んできた言葉が、また口をついて出そうになる。それをいつものように、手塚は奥に飲み込んだ。
「手塚? 何ぼーっとしてるの?」
 一度起き上がった乾は、一向に背中を押さない手塚に声をかけてきた。
「あ、ああ。すまない」
 自分が感傷に浸っている場合ではない。今は、練習に集中しなければ。
 手塚は頭を切り替えて、再び乾の背中を押した。
「珍しいね、手塚がぼーっとするなんて」
「少し考え事をしていただけだ」
「そうか」
「柔軟が終わったら、ランニングとダッシュだぞ。ちゃんと体をほぐしておけ。今、お前に怪我でもされたら困るからな」
「ああ、わかってる。無理はしないよ」
 乾の聞き分けのいい返事を聞いて、手塚はトレーニングに専念することにした。他でもない、乾のために。


「お前たち、そろそろ片付けて帰んな」
 顧問の竜崎スミレにコートを追い出されるまで、手塚は乾と打ち合っていた。
「手塚、お前さん病み上がりなんだから、あまり無理はするんじゃないよ」
「はい、すみません」
「ま、練習熱心なのはいいけどね」
 夜間練習用のライトが点灯されてから、二人とも時間を忘れて集中していたのだ。スミレに促されるまま、手塚は乾と手分けをして片づけをし、部室に戻った。

 誰もいない部室に二人きり。

 その状況に、手塚は妙に乾を意識してしまう。が、対する乾はといえば、全く頓着していない様子でさっさと汗に濡れたポロシャツを脱いだ。
 練習を始める時、ポロシャツの上から触れた背中が、露になっている。日に焼けた顔や腕とは対照的に、白い背中。乾も手塚と同じように、どちらかといえば色白なタイプなのだ。蛍光灯の明かりに、汗が反射していた。
 ついまじまじと見つめてしまいそうになって、手塚は慌てて目を逸らした。視線を乾に気付かれたら、変に思われてしまう。
 半裸になって、タオルで体の汗をぬぐう乾を横目で伺いながら、手塚は自分も汗だくになったポロシャツを脱いだ。
「手塚、腕大丈夫かい?」
「え?」
 脱いだポロシャツをたたもうとした時、手塚は左隣にいた乾に利き腕をつかまれた。特別な感情などこもっていない、診察するような手つきで手塚の腕に触れる。
 乾が手塚の腕の具合を確かめるために触れてくることは、今までに何度もあった。慣れているはずのその行為に特別なものを感じてしまうのは、今二人きりでいるせいだろうか。
「悪いね、病み上がりなのにつき合わせて」
「構わない。俺が自分で言い出したことだ」
 乾の方へ振り向くと、首からタオルをかけただけの、裸の胸が目に入った。練習でかいた汗をぬぐっても、今度は部室内の暑気のせいで、白い肌に汗が滲んでいた。
「お前に心配されなくても、もう完治している。腕も、肩もな」
 乾も手塚も、制服のシャツの下に下着を着ない。部活を終えて、裸になることなどいつものことだ。だから、こんなことは何でもない。
 手塚は自分にそう言い聞かせようと必死だった。
 乾に不自然に思われないように腕をほどいて、制服に着替えてここを出よう。
 二人きりになれたら。そう願っていた気持ちとは裏腹に、いざこうして二人きりになってしまうと、どうしていいのか、手塚は戸惑っていた。
「もう関節も痛まない?」
「ああ。医者に太鼓判を押された」
「ドロップショット打っても、長時間試合しても、支障なし?」
「そうだ。わかったなら、放せ。着替えができない」
「なるほど、それもそうだな。悪かった」
 乾は苦笑しつつ、手塚の腕を解放した。そして少し照れたように、眼鏡のブリッジをくいと上げて、首からかけたタオルを無造作にロッカーへ放り込んだ。理路整然としたデータ分析を口にする人間とは思えないほど、乾はポロシャツもタオルも、放り込み方が大雑把だった。
 手塚は腕に乾の指の名残を感じつつ、自分も制服のシャツに腕を通した。
「でも、さすがだね」
 穿いたズボンのファスナーを上げながらそれだけ言い、次の言葉が出てこない乾に、手塚は思わず聞き返していた。
「……何がだ」
「療養中はラケットも握ってなかったっていうわりには、体力もテクニックも落ちてないし、ペース配分も変わってないみたいだったから」
 ウォーミングアップが終わると、乾と手塚はセルフジャッジ方式で試合をした。途中休憩を挟みつつ、1セットマッチを3回。
 試合をしながら、やはり乾は手塚のデータを収集していたらしい。
『君は病み上がりだから、少し手加減しないといけないかな』
 そんなことを言いつつ、乾は本気のサーブを打ち込んできた。時速200キロ近い、超高速サーブを。
 青学テニス部には、サーブで時速200キロ近いスピードを出すプレーヤーが二人いる。一人が乾で、もう一人はパワープレーヤーである河村だ。
 小細工の通用しない、力任せに打ち込んでくる河村のサーブも脅威だが、乾は河村と比べてコントロールが抜群にいい。時にはミリ単位での調整が可能なほど、恐ろしくコントロールがいい上に、あのスピードである。敵に回せば、厄介な相手だった。
 手塚は試合中、そんな乾からリターンエースを何本か取っていたが、その倍以上のサービスエースを取られていた。その中の数本は、触れることすらできなかった。
「お前のデータを修正するほどではなかった、ということか」
「まぁね。もう少し力が落ちててくれるかと思ったんだけどね」
「なんだ、俺に弱くなっていてほしかったのか?」
「冗談だよ。だいたい、故障したり、弱くなったりしてる君に勝っても、意味ないからね」
 乾は、手塚の腕を潰すためにわざと試合時間を延ばし、故障を誘った氷帝学園部長、跡部景吾を暗に批判していた。
 対戦相手の弱点を見抜く、という点では、乾も跡部も観察力がずば抜けている。が、二人が決定的に違うのは、乾はたとえ弱点を見抜いたとしても、わざとそこを攻めるような真似はしない、ということだ。真剣勝負の場において、それも戦術の一つである、ということを理解していても。

 弱点やクセを利用することはあっても、敢えて攻めることはしない。

 そんな不器用なところが乾のいい所であり、手塚も気に入っている所だった。
「お前は、関東大会の間にまた強くなったようだな」
「そう思ってくれたのかい?」
「ああ。サーブの切れも、前より良くなっている。お前だけじゃない。他のレギュラーたちも、前より強くなっているな」
「全国大会に向けて、特訓メニューを組んだからね。君が帰ってきても、レギュラーに入る余地がないくらい、強くなっていよう。っていうのが合言葉だったんだけどね」
 やっぱり君は強いよ。
 乾は悔しそうに、でもどこか嬉しそうにそう言った。
 すっかり着替え終わった乾は、脱いだシャツや濡れたタオルを無造作にバッグに突っ込んだ。そして、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。
「あれ、着信入ってたんだ」

 乾に少し遅れて着替え終えた手塚は、たたんだタオルをバッグに押し込みながらその声を聞いた。
「海堂からか?」
「みたいだね」
「そうなのか。……すまないことをしたな」
「別に気にしてないと思うよ、あいつは。でも、様子見に行ってやった方がいいだろうな」
 乾は携帯をポケットに戻して、帰る素振りを見せた。
 二人きりでいる時間が、もう終わってしまう。手塚は思わず乾を呼び止めていた。
「乾……」
「何、手塚?」
 ロッカーからバッグを取り出そうとした手を止めて、乾は手塚を振り返った。とっさに呼び止めたものの、何を言えばいいのか一瞬迷って、手塚は考えながら言葉を紡いだ。
「例えばの、話なんだが……」
「うん」

「今好きだと思う人がいるとして、もしその人とあと数ヶ月で離れ離れになるとしたら、お前はどうする?」

 例え話にしては、いささかストレートすぎるということに、手塚は気付いていなかった。
「それ、自分のこと言ってない、手塚?」
「例え話だ」
「君、好きな人いたんだ。データは取ってたけど、好きな人がいたとは気付かなかったな」
「だから、例え話だと言っている」
 ムキになればなるほど、それは肯定していることと同義である。ということにも、手塚は気付けなかった。
「まぁ、いいけどね。で、好きな人とあと数ヶ月しか一緒にいられなかったら、どうするか、って?」
 乾は右手の指で、眼鏡のブリッジをくい、と上げた。何か思いついたらしい。
「そうだな、俺だったら……まず、ちゃんと告白するな」
「好きだと、告げるのか」
「ああ。だって、好きだってことをちゃんと言わないと、何も始まらないだろう。それで振られたら諦めるかもしれないし。OKだったら、残りの何ヶ月かだけでも付き合えばいい。好きな気持ちを押し殺して、後でちゃんと好きだと言っておけばよかった、って後悔するのだけは、嫌だからね」
 乾の答えは、明快でもっともなことだった。
「とりあえずは、ちゃんと好きだって言うね。それでもし両思いになれて、付き合えることになったら、残りの時間を無駄にしないように努力する」
「……そうか」
「手塚は、言わないつもりかい? 言わずに留学して、後悔するの? 君には、そういうのは似合わないと思うけどね、俺は」
 なだめるように、諭すように。乾は手塚の頭に軽く手を載せた。
「後悔するのは、似合わない……か」
 乾の大きな手は暖かくて、その手に触れられたことが引き金になって、手塚は泣いてしまいそうになった。部活の時間以外に、こうして乾に触れられたのは、初めてのことだ。
「ああ。迷いがなくて、潔くて、力強くて、しなやかで。君のプレースタイルにも現れているからね、そういう所」
「……そうあろうと、必死に取り繕っているだけだ」
 時に、技術より精神面が大きく左右するスポーツであるだけに。手塚は常にベストなプレーができるように、まず自分の心を制御することを覚えた。
 一番得意なスポーツだから、テニスでは誰にも負けたくない。そのための努力も惜しまなかった。
 でも、それと引き換えに失ったものがあったことも、事実だ。手塚は自分たちとは違うのだと敬遠され、常に完璧であることを求められてきた。部活の仲間は大勢いるが、未だに特別親しい友人がいるわけでもない。
 そういったものを失うことで傷ついても、平気だ。そう言い聞かせても、割り切れない部分は当然ある。自分はまだ、それを割り切ってしまるほど、大人ではない。
「そうかい? 俺には、そうは見えないけどね。ま、平常心と仏頂面を保つのは、それなりの努力が必要なんだろうけど」
 言いながら、乾が微笑した。軽口を叩くような口調でも、乾は手塚の痛みをわかっていた。
「でもね、手塚。誰かを好きになって、本当に好きなら、その相手が誰であれ。素直に気持ちを伝えることも、テニスで強くなること以上に大切なことだと、俺は思うよ」
 その相手はお前だと。手塚は話の流れで言ってしまいそうになった。

 自分が好きなのは、今目の前にいる乾なのに。他でもない乾に、好きなら告白しろと諭されるとは。

 手塚は、心の中で思わず苦笑した。自分が努力して身につけた、感情を面に出さない術が、こんな場所で裏目に出ている。いっそのこと、菊丸や河村のように、ストレートに感情を出せるような性格だったら。乾は気付いただろうか?
 いや、それ以上に。誰よりも手塚を見つめてデータを取っていながら、その恋心に気付かない乾が鈍すぎるのだ。
 そう考えたら、手塚は少し腹立たしく思えてきた。
「そういえば、手塚とこういう話をしたの、初めてだったね」
「……そうか?」
「ああ。英二や他のヤツとは、結構そういう話もするんだけど。手塚は、テニスに関係ないことには関心がないと思ってた」
 それは、手塚を見ている人間の大半が抱く印象だ。
 手塚がそう指摘すると、乾は苦笑した。
「そうだろうね。でも、ちょっと安心したよ」
「何がだ?」
「君でも、好きな人のことで悩むことがあるんだ、と思ってね」
「お前のデータに加えるつもりか」
「そう照れないでよ」
「照れてなどいない」
「手塚さぁ、意外と顔に出るんだよね、考えてること」
 乾はそう笑いながら、手塚を見下ろしているせいでずれてきた眼鏡をくい、と上げた。
「どういう意味だ?」
「顔というより、目だね。目は口ほどに物を言う、っていうけど、手塚の場合は口以上に語ってる」
「……」
 母親に微笑っていると指摘されたことはあったが、それ以外の人間から顔に出ている、と言われたのは乾が初めてだった。
 そこまでわかっているのに。手塚の精神面でのクセまで、把握しているくせに。

「どうして気付かないんだ、お前は」

 心の中で呟いたはずのその言葉は、口をついて出ていた。
 何度も言いかけて閉じ込めた言葉があることに。ずっと押し殺してきた感情があることに。どうして気付かない?
 心臓の鼓動が速く、大きくなっていくのを、手塚はどこか他人事のように感じていた。
「手塚?」
「そこまでわかっているくせに、誰よりも俺のデータを取っているくせに、どうして肝心なことには気づかないんだ、お前は」
「手塚……」
 ため息混じりの困惑したような声で、乾が手塚を呼んだ。
「好きな人がいるなら告白しろ、などと。相手が誰であっても、ちゃんと伝えろだと? どうしてわからないんだ、お前は」
 手塚は思わず乾のシャツをつかんでいた。そのまま乾の胸に、額を押し付ける。自分がめちゃくちゃなことを言っている自覚はなかった。
「手塚……」

「俺が好きなのは、お前だ。ずっと好きだった。他の事はわかっているのに、どうしてそんなことに気付かなかったんだ、乾」

 勢い余って、手塚は乾に抱きついていた。
「……手塚」
 頭の上に乗っていた乾の手が、髪を撫で下ろしながら頬へ辿り着いた時、手塚はようやく、何度も自分を呼ぶ乾の声が、優しい響きを帯びていることに気がついた。今までに、聞いたことがないくらいに。
 毎日ラケットを握って、毎日重量のあるカバンを持っているせいで、指も手の平もタコだらけの乾の手が、手塚の頬を撫でる。そのまま上向かされて、手塚は乾と視線を合わせた。分厚いレンズの奥に隠れた瞳が、優しく細められたのを見ているうちに、乾が顔を寄せてきた。
「……っ!?」
 自分の唇に触れているのが、乾のそれであることに気付くまで、3秒かかった。
 とっさに引きかかった手塚の唇を、乾は体ごとぐい、と引き寄せた。平らな胸をぴたりと合わせて、より深く唇が重なる。
 合わされた胸に、速くなった乾の鼓動が伝わってきた。同じように乾にも、手塚の鼓動が速く強くなっているのが伝わっているはずだった。
 静まり返った部室に、二人の胸の鼓動と、時折漏れる吐息が響くような気がしていた。
「乾……」
 ただ唇を合わせるだけのキスだった。それでも、手塚を驚かせるには十分だった。

 どうして、乾が?

 信じられない思いで見上げた乾は、手塚が何を言いたいのか。自分を呼ぶ声で理解していた。
「なんとなく、そうなんじゃないかと思ってたんだ、本当はね。ただ、確信が持てなかった」
「確信?」
「ああ。君が俺を好きでいるんじゃないか、っていう確信。君が本当に俺を好きでいるのか。それとも、俺が君を好きで、君も俺を好きでいてくれたらと思うから、そう見えるのか。断定するにはデータが不足してたんでね」
 乾は、手塚を抱き寄せたまま、耳元に囁きかけるように告げた。
「君が俺の練習に付き合ってくれて、部室で二人きりになれて、嬉しかったんだ。二人で話をして、様子を見るふりをしてその手に触れられて、嬉しかった」
「お前も、そう思っていたのか?」
「お前も、って言うことは、手塚もそう思ってたんだ?」
 逆に問い返されて、手塚は無言で頷いた。
「それだけでもいい、って思ってたんだけど。君があんまり可愛らしい事を言ってくれるからね、つい欲が出た」
 そこまで言われて、手塚は乾の意図に気付いた。
「お前、わざと俺に告白させたのか?」
「ごめんね、手塚。でも、あんなこと聞かれたら、やっぱり好きだって言葉、聞きたいじゃない?」
 そう言って乾は笑った。笑う振動が、合わせたままの胸に伝わってきた。

「……とんでもない策士だな、お前は」

「青学の頭脳で、君の参謀だからね」
 少しも悪びれた様子を見せない乾の耳に、手塚は軽く噛み付いた。
「だけど、手塚」
「なんだ」
 痛いよ、とクスクス笑いながら乾が続けた。

「やっと素直になれたね」

「……うるさい」
 手塚は唇で、減らず口を叩く乾の口をふさいだ。ただ唇を押し当てているだけの、ぎこちないキスだった。
「……っ」
 名残惜しさを感じつつ唇を離した時、二人同時に腹の虫が鳴いた。

「……」
 体が密着している状態では、その音を隠すことはできない。二人とも決まりの悪い表情で顔を見合わせて、次の瞬間、乾が声を上げて笑い出していた。つられて、手塚の表情も少し緩む。
 静まり返って、甘い雰囲気が漂っていたはずの空気が、一気に現実に戻る。それまで蓋をしていたかのように温度を感じなかった皮膚が、再び熱気を感じ始めた。
「……離れがたい気持ちはすごくあるんだけど、さすがに暑いね」
「……だな」
「それに、早くここを出ないと。竜崎先生が見回りに来て、こんな所を見られたら大変だ」
「それもそうだな」
 乾の言葉に同意して、手塚は乾から離れた。
「明日も部活あるし、腹も減ったし。帰ろう」
 手塚は頷いて、二人揃ってバッグを肩からかけ、部室を出た。
 乾が鍵をかけ、並んで校門へ歩いていく。その間、二人とも無言だった。
 満月を少し過ぎたその夜、二人が帰る時間にはまだ月は出ていなかった。夏の夜空には、はくちょう座やわし座、こと座が作る夏の大三角形や、天の川が見えるはずなのだが、東京の街の明るさに邪魔をされて、はっきりとは見えなかった。
「じゃぁ、また明日」
 手塚が夜空に気を取られている間に、校門にたどり着いていたらしい。
 電車通学の手塚と、徒歩通学の乾。帰る方角は、全く逆だった。
 ついさっき、お互いに相手を好きでいるとわかったばかりなのに。
 会っていられる時間が限られているなら、残された時間を無駄にしない。そう言ったのは乾の方なのに。
 その舌の根も乾かないうちに、乾はさっさと自分だけ帰ろうとしている。

「待て、乾」

 そんな乾が腹立たしくて、手塚は背中にかかっている乾のテニスバッグを掴んで、彼を引き止めた。
「……何、手塚?」
 何故自分が引き止められたのか、全くわかっていない風情の乾に、手塚は引き止めた理由を説明した。
「そう言っておきながら、お前はさっさと帰るつもりか」
「……」
 手塚にそう言われた乾は、まいったな、と照れくさそうに眼鏡をずり上げた。
「ごめん、照れ隠しだよ。本当は、このまま君と離れるの、俺も嫌なんだ」
「だったら」
「家に来る? って聞くの、ちょっと照れくさくてね」
 ストレートに言われて、手塚はつい赤面しそうになった。
「乾」
 呼ぶ声が、咎めるような声になってしまったのは、照れ隠しのためだ。
「だって、誰にも邪魔されずに二人きりになれる場所、他には思いつかなくてね」
 今日は両親がどちらも不在だから。わざと耳元に囁きかけるように、乾は続けた。
「もっとも、手塚の外泊許可が出れば、の話だけど」
「そんなことなら、心配無用だ」
 ハメをはずすこともなく、成績もよく、生徒会長やテニス部の部長までこなしている手塚は、両親からの信用もある。その上、長期療養のせいで授業が遅れているだけに、勉強の二文字を出せば、親は反対などするはずがない。
 手塚は自分の携帯を取り出して家に電話をかけ、さっさと外泊許可を取り付けた。
「これで、問題ないだろう」
「……さすがだね、手塚」
 じゃ、晩飯の買出しして帰ろうか。
 乾の申し出を断る理由は、手塚にはなかった。


Fin

written:2003.3.30

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