さらばユニヴァース

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さらばユニヴァース



半端な言葉でも 暗い眼差しでも
何だって俺にくれ
哀しみを塗り潰そう
君は どう思ってる?


「手塚」
 名前を呼ばれて、手塚はヒヤリとした。
 別に、名前を呼ばれることそのものは、特別なことではない。なぜなら、毎日数え切れないほど繰り返されることだから。
 けれど、今手塚を呼んだ乾の声は、普段とは明らかに違っていた。いつもは手塚を包み込んでくれるような、優しい響きを持ったその声は、今は凍りついたように冷たかった。呼ばれただけで、部屋の空気が3度ほど下がったような錯覚さえ感じるほどに。
「何だ」
 雰囲気の違う乾の声に動揺しているのを悟られないように、手塚はできるだけ普段と変わらない口調になるように気をつけて、返事をした。
 すると、乾は呆れたようなため息を一つついて、問い詰めるような口調で訊いてきた。
「お前さ、なんで大石と病院行ってんの?」
「なんでって……」
「あそこ、確か大石の親戚がやってる病院だよな。整形外科が有名なんだっけ?」
 乾は、乾のベッドを占領してテニス雑誌に目を通している手塚に背を向け、机に広げたノートから視線を外すことなく、言葉だけを手塚に向けていた。
「そんな所に行くほど、悪くなってたんだ?」
 どこか突き放すような口調に、手塚は背筋を冷たいものが走ったような感覚に襲われていた。こんな冷たく、暗い感情を突きつけられたのは、初めてだった。
 思えば、乾との付き合いはもう1年と8ヶ月以上になる。好きだと告げられて、恋の相手として意識するようになってからは、半年余り。恋人になってからは、まだ3ヶ月も経っていない。
 その間、手塚を呼ぶ乾の声はいつも優しい響きを帯びていて、手塚への“好きだ”という想いが溢れていて、呼ばれる度に胸が苦しくなるほどの切なさと安心感を与えてくれた。それなのに。
 今の乾の声には、優しさの欠片も存在しない。そんな感情など、忘れてしまったかのように。
「お前、1年の時に一度肘やられてるし、練習でもかなり酷使してるみたいだから、いつか壊すんじゃないかって心配はしてたけどね。でも、病院行って診てもらわなきゃならないほど悪化してるって、なんで黙ってんの?」
「それは……」
 手塚は、乾が急に態度を変えた理由を図れずにいた。
 今日は土曜日で、明日は久しぶりに部活もない日曜で。両親も出かけていて不在だから泊りにおいで、と部活前に誘われた時は、いつもの乾と変わった様子はなかった。部活中もいつも通りに接していたし、終わってから乾の家に来て、夕食を一緒に食べて、乾の部屋に押しかけるまでも普段と変わらなかった。
 それなのに……。
「もしかして、大石と病院に行ったことを怒っているのか?」
「それもあるけどね」
「だが、あそこは大石が一緒にいた方が、話が早いと思っただけのことで……」
「そうだろうね。大石の親戚がやってる病院なんだから、付き添いにはヤツの方がいいよな」
 乾の口調の冷たさもさることながら、一向に自分を振り向こうとしない乾に、手塚は不安になった。何故、自分に背を向けたまま、冷たい言葉だけを突きつけてくるのか。
「そう思っているなら、何故……」
「まだわからないんだ、俺がどうして怒ってるか」
 乾は嘲笑するように言い捨てて立ち上がり、ようやく手塚の方へ振り向いた。分厚いレンズが目の表情を隠してしまって、乾の怒りがどれほどのものなのか、手塚には全く想像がつかなかった。
「もしかして、今日ずっと怒っていたのか?」
 恐る恐る尋ねた手塚に、乾は微笑してみせた。それは、普通に怒りの表情を浮かべられるよりずっと不気味で、かえって恐怖心を煽られた。
「うん。正確には、君が大石と病院に行くのを見た後から、ずっとね」
「そんな、3日も前から……」
「次の日には手塚から話してくれるんだと思って、その場は流したんだけどね。でも、一昨日も、昨日も、今日も。手塚は何も言ってくれなかったよな。何で、そんな大事なこと俺に黙ってんの?」
 冷たかった乾の声が、少しだけ和らいだ。そしてその中に、寂しさが混ざっているのを手塚は感じていた。
 話す必要がないと思ったわけじゃない。ただ、知られたくなくて、黙っていた。それが乾を怒らせることになるとは、思っていなかったのだ、手塚は。
 そんな手塚の言い訳に、乾は苦笑した。
「手塚さ、俺のこと、何だと思ってるわけ?」
「何って、恋人だろう?」
「一応、それはわかってるんだ」
「当たり前だろう」
「だったら、何で肝心なことは何も話してくれないんだ」
 声を張り上げて、悔しそうに言いながら、乾は大股でベッドに歩み寄った。
「知られたくないって、何だよ、それ。何も言ってくれないで、いきなり事実だけ突きつけられる方が余計に心配するって、何でわかんないわけ? それとも何だよ。俺に心配されるのもイヤなのか?」
「そういうわけじゃない」
 乾の勢いに押されるように答えながら、手塚は乾がこんな風に声を荒げるのを初めて聞いた、とどこか他人事のように思っていた。
 乾はいつも冷静で、硬質な話し方をするもののその声は柔らかくて深みがあって、聞いていて心地よかった。中学に入って初めて会った時には、すでに乾はほとんど声変わりが終わっていて、今とあまり変わらない低さだった。その声が自分を呼ぶ回数が増えて、優しい響きをしていることに気づいた時には、手塚は乾をかなり好きになっていたのだ。
 その乾が今、自分のために怒りを露にしている。他の部員たちが手塚の笑顔を見たことがないのと同様に、乾が怒ったところも、手塚以外の誰も知らないだろう。手塚でさえ、今初めて目にしたのだから。
「乾……」
 愛しい、と思った。自分のために怒る乾を。
 そしてそれが何よりも、手塚を想っている証なのだと気づいて、手塚は嬉しくなった。
「すまない、乾」
 謝罪の言葉は、すんなりと口を突いて出ていた。耳に届いたその響きの柔らかさに、手塚は自分で驚いていた。
「お前を必要以上に心配させたくないと思って黙っていたんだが、結果としてお前を怒らせることになってしまって、すまない」
「手塚……」
 いつになく優しい声で自分を呼ぶ手塚に、乾も怒りの矛先を収めてしまった。
「お前がずっと気にかけてくれていたのに、痛める事になってしまって、正直情けないと思っていたんだ。それもあって、言えなかった」
「……そんな、意地張る必要ないだろ」
「そうだな。だが、お前にはいつも無茶をするなと言われ続けてきたからな。さすがに、酷使しすぎて痛めたとは、言いづらい」
「だったら、最初からそう言えばいいのに」
 乾は柔らかく苦笑して、手塚が居座っているベッドに腰を下ろした。
「俺は手塚の恋人なのに、何で大石が知ってることを俺が知らないんだって思ったら、すごく悔しかったよ。何で手塚は俺を頼ってくれないんだろう、ってね。俺は、そんなに頼りないのかって」
 手塚にもたれかかるように、額を手塚の肩に寄せて呟くようにそう語る乾は、いつもの大人びている乾ではなかった。弱気で、素直で、手塚の言動に一喜一憂する。それが本音なのだと、全身で訴えているようだった。
「頼りないなんて、思ったことは一度もないぞ。ただ、お前は必要以上に心配するからな」
 自分より大人だと思っていた乾も、結局はまだただの15歳で。自分と同じなんだと思うと妙に安心して、手塚は自分の肩にもたれかかる乾の頭に腕を回した。
「当たり前じゃない。手塚は大事な恋人なんだから」
「大事な恋人、か」
 少し面映い気がするが、そういう言われ方も悪くない。乾が自分をどれほど大切に思っているか、あの怒りを見れば痛いほどよくわかる。そしてそれを見ることができるのは自分だけなのだという事実が、手塚を優越感に浸らせる。
「だから、手塚もちゃんと話してくれ。俺は他の連中とは比べ物にならないほど、手塚に関しては察しがいいと思う。でも、それでもわからないことはあるんだ」
 少し硬めの髪に指を埋めて、手塚は目を閉じた。頭に頬を寄せると、乾がいつも使っているシャンプーの匂いがした。自分とは違う、乾の匂いを肺の底まで吸い込んで、手塚は相槌を打った。
「ああ」
「隠し事をするな、なんてことは言わない。でも、手塚が感じてることや考えてること、全部知りたいと思う」
「……それは、矛盾してないか?」
「そうだね」
 手塚のもっともな指摘に、乾は肩を揺らして笑った。肩にかかる息に、ゾクリと覚えのある熱いものが身体を走る。
「でも手塚は、他の誰も知らない俺を知りたいとは、思わない?」
 誘うような口調に、手塚は時と場所を選ばないその熱から目を逸らして、できるだけ冷静に聞こえるように注意を払って答えた。
「思わない……ことはない」
「二重否定は、イコール肯定だってこと、わかってる?」
「それくらい、言われなくてもわかっている。いちいち揚げ足を取るな」
 少し怒ったようになってしまった手塚の言葉に、乾は手塚の腕を押しのけるようにして顔を上げた。その顔にはいつも見せる、何か企んでいるような不敵な微笑が張りついていた。
「手塚ってさ、素直じゃないように見せてるけど、実はすごく素直だよね」
 言いながら、乾は手塚をぐい、と引き寄せた。手塚はバランスを崩して、乾の胸にダイブするように抱きとめられた。その反動で乾は背中からベッドに倒れこんでしまい、手塚が押し倒したような格好になった。
「……と、ちょっと勢いをつけすぎたかな」
「バカが、少しは力を加減しろ」
「でも手塚に押し倒されてるみたいで、たまにはこういうのも悪くないね」
「言ってろ」
 投げやりに言い返すと、乾は手塚の下で笑った。くつくつと上下する胸に頬を預けていた手塚が少し顔を上げると、乾の首筋が視界に入った。それを見て、手塚はふと誘われるように乾の首筋に鼻先をすり寄せた。
「手塚?」
 自分を呼ぶ乾の声を、耳と、首筋に当てた唇で聞いた。薄い布を通して直に伝わってくる乾の体温に、手塚の熱が上がり始める。それは、身体を密着させている乾も同じはずだった。
「俺が感じていることや考えていること、全部知りたいんだろう?」
「そういう誘い方、かなりヤバイよ、手塚」
「どうヤバイんだ?」
「行動で示してほしい?」
 分厚いレンズの奥に潜む、飢えた獣のような目が手塚を射抜く。その視線と、低く甘く囁く声が、手塚の体温を引き上げる。
 手塚は自分で眼鏡を外して、微笑してみせた。
「行動で示してみろ」
「じゃぁ、遠慮なく」
 手塚の了承を得た乾が眼鏡を外したかと思うと、天地が逆転した。ついさっきまでは自分が乾を見下ろしていたのに、今は乾が手塚を見下ろしている。
「まさかとは思うけど、こうするためにわざと怒らせたとか?」
「お前じゃあるまいし、俺がそんなことをすると思うか?」
「手塚は、時々俺のデータも予想も飛び越えてくれるからね」
 そう言いながら、乾の顔がゆっくりと近づいてくる。手塚は少し口を開いて、乾のキスを迎え入れた。唇が触れるとほぼ同時に舌が潜り込んできて、深く弄ってきた。
「ん……ふぅっ…」
 キスはダイレクトに欲情する。
 そんな知識は、どこで手に入れたのだったか。考えるともなく思っていると、乾が腰を押し付けるように擦り合わせてきた。布を数枚隔てていてもわかる熱を感じて、手塚は乾の首と頭に腕を回して引き寄せた。
「気持ち良くなったらどうなるのか、俺に見せて」
 長いキスから手塚を解放して、少しだけ身体を起こして乾が囁いた。
「お前も全部見せてくれるなら、見せてやってもいい」
「わかった」
 その日二度目のキスを受けながら、手塚は考えていた。
 これで、乾の怒った顔が手塚の頭にある写真集にストックされた。後は、どんな顔を見ていないんだろう……。
 思い起こそうとして、失敗した。
「手塚」
 熱くて甘い、欲望に濡れた乾の声に、手塚は思考を奪われてしまった。


Fin

written:2003.7.17

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