LONESOME CHAKI-CHAKI

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LONESOME CHAKI-CHAKI



 その日、手塚国光は浮かれていた。
 気合が入りすぎていたためか、いつも以上に目覚めは早く、じっとしていられずに朝っぱらからランニングに出かけ、この日のためにと新調したシャツを着た。
 そして、約束の時間までまだ30分はあろうかというのに、鼻歌を歌いながらスキップでもしそうな勢いで、待ち合わせの場所へと向かっていた。……もっとも、日頃鍛えた仏頂面が災いしたのか幸いしたのか、すれ違う人間には無表情な美少年が歩いている、としか思われなかった。
 それでも、手塚国光はいつになく浮かれていた。
 理由は単純である。休日に関する法律が変わり、祝日が月曜日に移動し、学生には嬉しい3連休になったその週。日曜日と祝日の月曜日は部活も休みになったのである。
 部活が休みということは、誰にも気兼ねすることなく、心置きなくエッチ……ではない、デートができるのである。そう考えていたのは、嬉しいことに手塚だけではなかった。手塚が今、誰よりも夢中になっている蜜月真っ最中の恋人、乾も同じ事を企んでいた。
(俺、日曜日にちょっと用事があるから、ついでに付き合ってくれるかな? デートして、その後泊まりにおいで)
 誘われた時には、天にも昇る心地で思わず乾を抱きしめてしまいそうになったのだが、周りにはまだ他の部員がいて、それは叶わなかった。だが。
(気にすることはない。今日と明日、たっぷり乾と一緒にいられるのだからな)
 お泊りセット入りのテニスバッグを肩にかけ直して、手塚は人波をかき分けた。


 駅前にある小さな広場に出ると、遠くの方に頭一つだけ飛び出た乾の姿が見えた。分厚いレンズがはめ込まれた、野暮ったい黒縁眼鏡。そして休日にはよくかぶっている黒いHEADの帽子。
 手塚が見間違えるはずがなかった。
 思わず早足になって、乾に近づいていく。すると、手塚は乾の表情が気になった。何か困ったような顔をしているのだ。
 さらに近づいてみると、乾の前には小学生らしい帽子の少年がいて乾を見上げていた。
「……じゃん?」
「だから、………で……」
 会話を聞き取るには、まだ距離がありすぎた。
(いったい、誰と話しているんだ?)
 こっそりと近づいていくと、小学生のような帽子の少年は、いつも部活で顔を合わせている新入生の越前だった。
(越前? いったい、乾に何を……?)
「せっかくテニスバッグ持ってるんだし、俺とやろうよ、センパイ」
「悪いけど、人と待ち合わせしてるんだ。また今度にしてくれないかなぁ」
「待ち合わせって、もしかして部長?」
「まぁね」
「なぁんだ、デートか。ちぇっ」
 手塚と待ち合わせをしているとわかるやいなや、生意気が枕詞のルーキーはつまらなさそうに舌打ちをした。
「でも、デートでテニスって、他にすることないんすか?」
「別にいいだろ。たまに、練習や試合抜きで打ち合ってみたいんだよ」
 越前は、なんとしても乾を誘い出そうとしていた。日頃は乾には何の関心も持っていないような様子だというのに、油断できないな、と手塚は自分のデータに加えていた。
「乾、ずいぶん早いな。待たせてしまったか?」
「やぁ、手塚」
 そして、目の前で起こっていたことなど全く知らない、という様子を取り繕って、手塚は乾に声をかけた。すると、乾は少し「助かった」という顔をして、手塚を見た。
「部長。ホントに二人してテニスするつもりなんすね」
 越前は手塚の持っているテニスバッグを目に止めて、怪訝そうな顔をした。
「たまには、練習や試合を抜きにして打ち合ってみたいからな」
「……乾先輩と同じこと言ってるし」
 手塚がわざと乾と同じ理由をつけたのだということには気づかずに、越前は呆れたように呟いた。
「ほんっと、どっちもテニスバカなんだから」
「それは、お前もだろう、越前」
「ちぇっ。あんまり乾先輩に絡んでると、部長が週明けの部活でグラウンド100周とか言いかねないんで。今日のところは諦めますけど」
 手塚にちょっと恨めしそうな視線を投げて、越前は相変わらずの減らず口を叩いた。
「今度、部長抜きで一度付き合って下さいね、乾先輩」
 そしてそう言い残して、越前は踵を返した。身長の低い越前は、すぐに人波に埋もれてしまった。
 それを見送って、乾が検討外れとも思える言葉を口にした。
「越前のヤツ……なんで俺をナンパするんだ?」
「一応、ナンパされているという自覚はあったようだな」
「あれだけあからさまだとね、嫌でもわかるさ。でも、手塚や桃が相手ならまだしも、まさか俺とはね」
 言いながら、乾はすれ違う人波から手塚をかばうように、自分の方へ引き寄せた。乾はちょうど人波から外れた場所を選んで、立っていたようだった。
「それにしても、ここはいつ来ても人が多いな。どこから集まってくるんだろうね」
 自分から待ち合わせ場所を指定しておいて、乾はそんなことを口にした。
「ここで待っていると言ったのは、お前の方だろう」
「それはそうだけど」
「だいたい、今日は連休の中日なんだ。人出が多いのも、当然だろう」
「それもそうだね。さて、じゃぁ行こうか。今から行けば、適当に昼飯食って、ガット張り替えてもらったらちょうどいい時間になる」
 今日の乾の用事は、ラケットのガットを張り替えてもらうことだった。いつも使っている試合用のラケットと、練習で使っているラケットのうちの1本が切れてしまっていたのだ。
(前にガットが切れて、そのままになってるラケットがあるから、ついでに張り替えてもらおうと思ってね)
 マメなのかと思えば、意外と大雑把なのがこの男である。昨日、部活で部内一のパワーヒッター河村と打ち合って、試合後にガットが切れてしまった後のセリフが、これだった。
 学校から近い青春台にもスポーツ用品店はあるのだが、2本まとめて張り替えるとなると、かなり時間がかかってしまう。場合によっては、数日預かって……となってしまうため、県境にある大型専門店へ行こう、という話になっていた。
(ついでに、その近くにテニスコートがあってね。打っていこうか?)
 ただのデートだけでも嬉しいのに、それにテニスが加わるということもあって、手塚は二つ返事で頷いていた。
「休日に打ち合うのは、初めてじゃないか?」
「俺のデータによると、そうだね。手塚とは、いつも部活内での練習か、ランキング戦だったから。でも、手塚のことだから、打ってる間に本気になってくるんじゃない?」
「俺を本気にさせられたら、の話だけどな」
「じゃ、本気にさせてもいいんだね?」
 軽いジャブを交し合うように言い合いながら、乾は上手く人波を縫って歩いていく。手塚は、その後をしっかりとついて行った。
「切符は?」
「ああ、手塚の分も先に買っておいたよ。はい」
「そんなに早く来たのか?」
「まぁね」
 切符売り場には寄らず、そのまま改札へ向かおうとする乾に声をかけると、乾は手塚に切符を差し出した。大雑把かと思えば、こうして気が利きすぎるほどに気が利く。
「俺のデータによれば、手塚は待ち合わせ時間より早く来るだろうから、待たせちゃ悪いと思ってね。そうしたら、早く来すぎたんだ」
「それで、越前にナンパされていたのでは、意味ないだろう」
「手塚、そんなに妬かないでよ」
「お、俺は妬いてなどいない!」
「はいはい。そういうことにしておいてあげるよ」
「乾っ」
 嬉しくて仕方がない、といった表情で5センチ上から見下ろしてくる乾に、手塚は思わずムキになっていた。
「んふっ、ずいぶんと仲がいいんですね」
 そんな二人に、艶のあるテノールが投げかけられてきた。聞き覚えがあるかと問われれば、ありすぎるほどある声だった。
 よもや、自分が無視されるなどとは露ほども思っていない、妙な自信に満ちた声に振り返ると、思ったとおりの人物がそこにいた。
 都大会で対戦した、聖ルドルフの観月はじめである。
「観月……」
「乾君も手塚君も、今日は練習お休みなんですか?」
「ああ。時に休むことも必要だからな」
「そういうルドルフも、今日は休みのようだけど……」
 観月の服装を見て、二人とも一瞬言葉に詰まってしまった。観月は悪趣味としか言いようがない、極彩色で派手な柄が描かれたシャツを着ていた。その肩には、やはりテニスバッグを提げていた。
「ええ、さすが乾君ですね。耳が早い」
「いや、それは見ればわかると思うんだけど……」
 感心したように話す観月には、乾の呟きは聞こえていないようだった。
「それにしても、休みというわりには二人ともテニスをなさるつもりのようですね」
「まぁね」
「僕も、今日はストリートテニス場へでも行ってみようと思いましてね。どうです、乾君? 僕と君のデータを競い合ってみるというのは」
 あまり長く一緒にいると、自分たちまで妙な人間だと思われてしまう。一瞬交わした視線で頷きあって、乾と手塚はすぐに連携した。
「乾、電車が来るぞ」
「え? あ、本当だね。じゃぁ、またな、観月」
「乾君? ……んふっ、残念ですね」
 不敵な微笑が聞こえてきたが、乾と手塚は振り返らずに改札を抜けていた。とっさに口を突いて出た言い訳とはいえ、ホームに下りてみるとちょうど電車が滑り込んできた。階段から一番近いドアから中に飛び込んで、反対側のドアに張り付くと、急に乾が笑い出した。
「乾?」
 つい驚いて、手塚は乾の顔を覗き込んでしまった。すると、乾は分厚いレンズの奥に涙を浮かべて、笑いすぎで苦しそうな顔をしていた。
「だって、おかしくてね。まさか、観月に会うなんて。それも、あんな……」
「……確かに、あまり趣味は良くないようだったな。だが、そんなに笑うのは……」
「手塚の分まで笑ってるんだから、感謝しろよ」
「……俺は頼んでいないぞ」
 どんなに悪趣味でも、本人がそれでいいと思ってるのなら、あまり笑うのは申し訳ない。と感情より義理が先に立つ手塚は、相変わらず傍目には仏頂面に見える表情を崩してはいなかった。違っているといえば、眉間の皺がなくなっていることくらいである。
 だが、乾は観月から完全に離れてしまった場所で、大っぴらに笑っていた。
「だって、手塚は笑えないでしょ? 人前では笑えないだろう? だから、代わりに笑ってるんだよ、俺が」
「だが……ちょっと笑いすぎなんじゃないのか」
「でも、手塚だって思っただろう? あの観月の服は、かなり前衛的だよね」
 前衛的とはつまり、理解に苦しむという意味である。手塚は乾につられて頷いてしまった。
 観月の服装の趣味に関しては、弟が同じ寮に入っているという不二から聞いてはいたが。実際目にするのは初めてだった。
「確かに、話には聞いていたが、あそこまでとは思わなかったな」
「だろう?」
 結局乾は、その後もしばらくの間笑い続けていた。
 試合をした時もそうだったが、観月はデータテニスをする乾を妙に意識しているようだった。さっきも、何気ない会話をしているようで、乾を誘っているようだった。……服装の奇抜さに押されて、乾は気づいていないようだったけれど。
 気持ちはわからないでもないが。
 今日のデートを邪魔する権利は、観月には微塵もない。
(これで良かったんだろうな)
 手塚は、密かに安心していた。


 日曜日ということもあって、乾が手塚を連れて入ったスポーツの大型専門店は人で賑わっていた。テニスコーナーでラケットを預け、ガットを張り替えてもらっている間、手塚は乾と一緒にグリップテープやリストバンドを物色したり、乾の薀蓄を聞きながらラケットやシューズを見て回ったりしていた。
「これ……」
 手塚はふと、エメラルドグリーンのリストバンドに目がいった。日頃は、白いリストバンドをつけることが多いが、たまに別の色もいいかもしれない、と思って見ていたのだ。
「へぇ、いい色だね、その緑」
 他の人なら見逃してしまうであろう、手塚の小さな意思表示を乾は何気なく、けれどしっかりとキャッチしていた。そして、数あるリストバンドの中から、手塚が見ていたエメラルドグリーンのそれを見つけ出し、一つ棚から外して手塚の手首にかざして見せた。
「うちのユニフォームにも合うし、手塚がいつも来てる藤色のポロシャツ、あれにもよく合う色なんじゃないかな」
 青学のユニフォームは、名前のごとく青色と白が基調になっていて、赤のポイントが入る。また、手塚はプライベートでテニスを楽しむ時には、白地に藤色が入ったポロシャツを着ている。
 そのどちらにも映えそうだ、と手塚も納得していた。
「俺も新しいのを買おうかな」
「なら、俺が選んでやる」
 と物色を始めた時、また乾を呼ぶ声があった。
「貞治?」
 いつも名字で呼んでいる手塚にとって、それが乾の名前なのだと気づくのに、少し時間がかかってしまった。
「蓮二」
 声のした方を振り返った乾は、やはり名前で彼を呼んだ。
 そこにいたのは、ストレートの短い黒髪で、目を閉じているのかと思うほど細い目の、黄色を基調としたジャージを着た少年だった。
「柳……」
 彼は、去年の関東大会と全国大会で顔を見たことがあった。現在全国2連覇中、今年は3連覇に向かって驀進中の立海大付属中でレギュラーを務め、去年はジュニア選抜にも選ばれた柳蓮二だった。
「お前の方は、今日は練習が休みだったな」
「まぁね。そういう蓮二は、今日は部活あったんじゃなかった?」
「急きょ、午前中だけになったんだ」
 彼らは、なぜかお互いの予定を知っているようだった。
「だが、珍しいな。お前がここまで足を伸ばして来るとは」
「そうだね。本当に久しぶりだよ、こっちまで出てくるのって」
「それで、どうしたんだ?」
「ラケットが2本、ガット切れちゃってね。家の近くじゃ心もとないから、ここまで来たんだ」
「なるほどな」
 乾の言葉に頷いて、柳はふと手塚を見た。そして口元にわずかな笑みを浮かべて、乾をからかうように言った。
「ただテニスをしに来ただけではなさそうだな、その様子だと」
「まぁね」
 そんな柳に、乾はただ笑ってごまかした。どうやら柳は、乾のスケジュールだけでなく、プライベートまでかなり踏み込んだ情報を持っているようだった。
「乾?」
「ああ、手塚にはまだ話してなかったっけ。蓮二のことは……知ってるよな?」
「顔と名前は知っている。試合で会っているからな」
「君が辞退しなければ、ジュニア選抜の合宿で一緒になるはずだった」
「そうだったな」
 去年行われた全国大会の後、当時2年生で有望な選手がジュニア選抜に選ばれ、手塚も本当ならばその中に入っていた。が、痛めていた肘の具合が思わしくなく、辞退したのだ。
「俺は幼稚園と小学校が立海大附属でね。蓮二とは幼なじみなんだ」
「立海だったのか、お前?」
「うん。蓮二とは、小学校の時ダブルス組んでたパートナーでね」
「ついでに、生まれた病院も同じで、家も近所だったという腐れ縁だ」
「そうなのか」
「さらに付け加えると、プレースタイルも同じなんだけどね」
「データテニスか」
 確認するともなく手塚が呟くと、乾と柳は二人同時に頷いた。ダブルスを組んでいたというだけあって、息のあった二人のリアクションを見ながら、手塚は思わず想像してしまった。
 日頃の乾のプレーといえば、試合中にやれストレートの確率が何%だの、ショットの角度が何度だの、ラケットが何ミリずれただの、と重箱の隅をつつくような細かい、正直言ってうるさいことこの上ない。それが二人揃うということは……。
(試合中にデータと確率が飛び交うのか。なかなか大変そうだな)
 手塚も何度かやられている。まるで詰め将棋のような乾のテニスは、本当に隙がない。手塚は、それをねじ伏せるだけの強さを持っているが、そうでない人間にとっては、嫌なテニスをすると敬遠されている。
「もっとも、先に始めたのは蓮二の方で、俺は中学に入ってからなんだけどね、データ取り始めたの」
「なるほどな」
 通りで、親しそうにしているはずだ、と手塚は納得していた。だが。
(そういえば、俺はまだ名前で呼んでもらったことはないぞ)
 柳に邪魔をするつもりはないようだったが、恋人として付き合うようになってからも、まだ乾とは名字で呼び合っていることを思うと、少し面白くない。
 その時、ガットの張替えが終わったというアナウンスが入った。
「12番って……ああ、俺のだ。ちょっと行ってくるよ」
「ああ」
 乾は手塚には優しく、柳には軽く笑いかけてカウンターへ歩いて行った。
「……柳君は、何か買いに来たのか?」
「ああ。グリップテープがなくなりかけていてね」
 乾がいなくなって、気まずい沈黙が訪れかけたのを察して、手塚から柳に話しかけた。本来の目的を思い出したように、柳はテープが置かれている棚へ向かう。そして手に取ったテープは、乾がいつも愛用している物と同じだった。色も、メーカーも。
 それを見て、手塚の心の奥の方がチクリと痛む。
「それで、君の方は? さっき声をかける前に、リストバンドを選んでいたようだったが」
「……新しいのを買おうと思って。ついでに、乾のも選ぼうとしていたんだ」
「そうか。それは、邪魔をしてしまったな」
「いや、別に構わない」
 申し訳なさそうに言われて、手塚は条件反射で答えていた。
「……柳君。君なら、乾にはどれが似合うと思う?」
 何か話さなければと思って、手塚はつい、そんなことを訊いてしまった。
「貞治に? ……そうだな、貞治はいつも白か薄いグレーだから、こんなところか」
 訊かれた柳は、何気なく薄いグレーに黒のワンポイントが入ったリストバンドを手にした。それを見て、やはり、と手塚は思う。柳は、乾が好んでつけているリストバンドの色まで知っている。
 乾はただの幼なじみだと言っていたが、それだけではないんじゃないか、と手塚は思い始めていた。乾の方はともかくとして、柳に関しては……。
「それで、君なら何を選ぶんだ? 手塚君」
 そんな手塚の心を見透かしたのか、それとも単に聞き返してきただけなのか。柳が瞼の奥に隠された眼差しを手塚に向けた。
「俺は……」
 さっき、エメラルドグリーンのリストバンドが目に止まる前。手塚が気になった商品があった。
 ボルドーに近い、深みのある赤いそれ。私服には無頓着なのかと思えば、手塚よりも色の組み合わせにこだわる乾には、モノトーンよりその色が似合っているような気がしていた。
 手塚がその赤いリストバンドを手に取ると、柳は一瞬意外そうな表情をして、けれどすぐに納得したように頷いた。
「なるほど。貞治は色が白いから、それくらいの赤なら映えるかもしれないな」
「ああ。もとが色白なんだろうな、乾は夏でもほとんど日に焼けない」
「赤くなって黒くならないのは、今でも変わらないようだな」
 手塚もあまり焼けない方だが、乾は手塚よりさらに色白だ。それでも不健康そうに見えないのは、日頃テニスで鍛えた筋肉が程よく身体についているからなのだろう。
 一瞬、肌を晒した乾の姿が頭に浮かび、意識を取られそうになって、手塚はあわててそれを振り払った。いくらなんでも、こんな場所で思い出すのは不謹慎すぎる。
「ごめん、待ったかな?」
「貞治」
「乾……」
 ラケットを受け取って戻ってきた乾に、柳と手塚はほぼ同時に声をかけていた。
「清算してから行けば、ちょうどいい時間になるね。計算どおりだ」
 予測どおりにコトが進んで満足げに呟く乾に、柳が笑いかけた。
「これから打ちに行くのか?」
「ああ。新しいガットの具合も確かめたいしね」
「ということは、あそこだな」
「うん」
 柳はこの周辺の事情に明るいらしく、手塚と乾がどこへ行こうとしているのか、わかったらしかった。
「蓮二は?」
「お前の邪魔をして、馬に蹴られるのはごめんだ。帰ってデータの整理でもするよ」
「そっか。また遊びに来てよ、母さんも喜ぶ」
「そう言うお前こそ、たまには顔を出せ」
「はいはい」
 無表情で言い切る柳に、乾が苦笑する。乾はガットの張替え代を、柳はグリップテープの清算をするためにレジへ向かう後について行こうとして、手塚は思いなおした。
(やはり、買ってやろう)
 今日は誕生日でも何でもないけれど。たまに、ただのプレゼントとして渡すのも悪くないだろう。
 手塚は赤いリストバンドを手にとって、二人を追ってレジに向かった。


「ねぇ、手塚?」
 夕食後、乾の部屋に引き上げるや否や、手塚は乾に手を引かれた。そのまま勢いでベッドへ座ると、一足早くベッドに上がっていた乾になおも腕を引かれて、手塚は乾に圧し掛かるように胸の上へ倒れこんだ。
「こら、乾……」
「だって、ずっと我慢してたんだよ? 手塚は?」
「え?」
「俺と、したくない?」
「……したくない、わけじゃない」
 照れくさくて、思わず顔を背けてしまう。そんな手塚に、乾はクスリと微笑した。
「やっぱりしたいんじゃない」
 天地がひっくり返って、手塚は乾に組み敷かれていた。そして額に、こめかみに、鼻の頭に、頬に、唇の端に。手塚の眼鏡を剥ぎ取って、羽のように軽いキスが降ってくる。
「プライベートでテニスするのもいいけど、やっぱりせっかく二人きりなんだから」
 自分も眼鏡を外して、乾は手塚の服を脱がしにかかる。この日のために、と手塚が新調したシャツのボタンに手をかけて、一つ一つ外して肌を露にしていく。
「――っ……んぅ……」
 唇が深く重なって、口の中にもぐり込んできた乾の舌が心地よくて、手塚もそれに応える。キスに夢中になっているうちに、シャツのボタンが全て外されていて、乾の手が手塚の胸をまさぐっていた。
 胸をまさぐる手が、時折手塚の感じる場所を引っかく。
「んっ……ぁ………」
 吐息に小さい喘ぎが混じる。乾の唇が顎から首を伝って胸へ降りていくのを感じながら、手塚は思い出していた。自分のテニスバッグの中に、乾に渡そうとしてまだ渡せていないものが入っていることを。
「乾、ちょっと待ってくれ」
「何、手塚?」
 手塚の胸にしゃぶりつこうとしていたのを止められて、乾はほんの少し拗ねたような声を出した。
「お前に渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?」
 おうむ返しにされて、手塚は小さく頷いた。起き上がって、手塚は一度ベッドから降りた。そして床に置いたテニスバッグから、包みを取り出す。戻るついでに、肩から滑り落ちそうになっていたシャツを脱いでバッグにかけた。
「これを……」
 再びベッドへ戻って、手塚はその包みを差し出した。
「さっき、テニスをしている時に渡せばよかったんだが……」
 なんとなく、きっかけが掴めずに手塚は渡せなかったのだ。乾のためにと選んだ、このリストバンドを。
「俺に、くれるの?」
 尋ねてくる乾に頷いて、手塚はベッドの端に腰掛けた。
「開けていい?」
「ああ」
 手塚の返事を聞いてから、乾は包みを開けた。中のリストバンドを見て、一瞬目を見開いて、けれどすぐに柔らかく微笑した。
「俺のために買ってくれたの?」
「ああ」
 尋ねられて、もう一度手塚が頷く。すると、乾は思いがけないことを口にした。
「手塚、これ…手塚が俺につけて?」
「……今から、つけるのか?」
「うん。だって、いつかは汗で濡れるんだし。手塚が買ってくれた物を、少しでも早く身につけたいと思うのは、ダメか?」
「……ダメじゃ、ない」
 臆面もなく言い切る乾に、手塚はつい照れてしまった。けれど、乾が差し出してきた右手首に、手塚はリストバンドをはめてやった。
(貞治は色が白いから、それくらいの赤なら映えるかもしれないな)
 柳が言ったとおり、手塚の見立てたとおり、そのリストバンドは乾の肌の色によく映えた。
「ありがとう、手塚」
 言って、乾は手塚の唇の端に軽くキスをした。そして、いたずらを思いついた子供のように、ニヤリと笑った。
「実は、俺もあるんだ」
 乾はそう言うと一度ベッドから降りて、手塚と同じ包みを手にして戻ってきた。その乾が中から取り出したのは、手塚が気にかけたエメラルドグリーンのリストバンドだった。
「これは、俺から手塚に」
 言いながら、乾はそれを手塚の左手首にはめる。お互いの利き手に、相手からプレゼントされたリストバンドをつけるというその行為から、なんとなく連想されるものがあって手塚は閉口した。
「……どうしたの、手塚? 別のものが良かった?」
「いや、そうじゃない……」
 お礼の言葉も何も言わない手塚を、乾が訝しげな表情で見つめてくる。手塚は軽く首を振って、思い切って言ってみることにした。その行為が……
「まるで、指輪の交換のようだと……思った」
「指輪の……?」
 呟いて、乾がクスリと微笑する。互いの利き手に、相手から贈られたリストバンドを身につけて、手のひらを合わせて指を絡ませながら、
「ということは、次は誓いのキスだね?」
 微笑した顔が近づいてくる。手塚は、思わずうっとりと目を閉じて、儀式のような優しい唇を受け止めていた。
 軽く触れてくるだけのキスだと思っていたのは最初の2秒だけで、すぐに深いキスに変わっていく。
「んっ……んんぅーーっ!」
 抗議しようにも、唇がふさがれていて言葉にはできない。手塚は空いたもう片方の手で、乾の身体を押した。すると、わかったわかった、といった様子で乾は唇を離した。
「そんなに照れないでよ、手塚」
「照れてなどいないっ! だいたい、お前……」
「何?」
「誓いのキスが、こんな……」
「ディープキスは、イヤかい?」
「そういうわけじゃないが」
「じゃ、問題ないね」
 あっさり言いくるめられて、手塚は再びベッドに押し倒されていた。太もの辺りに何やら熱いものが押し当てられるのを感じて、一気に体温が上昇する。
 組み合わせた左手と、乾の右手はそのままで。
乾は手塚の身体をまさぐって、感じる場所を探って攻めて、熱を煽っていった。
 乾が指を外したのは、手塚が乾を受け入れられるようにする時だけだった。互いの指を絡ませあったまま、一つに繋がる。
「あっ………あ、んうっ……くっ―――」
 乾が入ってくる瞬間の圧迫感に、思わず声があがった。繋いだ指にも、力が入ってしまう。
「きつい?」
「いや……平気、だ……」
 痛みよりも、充足感の方が大きかった。乾で満たされていく感覚に、全身が震えた。
「だから、もっと……」
 乾で満たしてほしかった。乾以外のことは、何も考えられなくなるほどに。
 そんな手塚の想いは、絡めあった指から乾に伝わったのか。根元まで手塚の中に入り込んで、手塚がその大きさに慣れるのを待っていた乾が、柔らかい微笑を口元に浮かべた。
「動くよ、手塚?」
「ああ………貞治」
 その優しい目の色に導かれるように、手塚は思わず名前を呼んでいた。
「手塚?」
 少し驚いた乾に、手塚はキュッと手を握り返した。
「呼んで……みたかった。ダメか?」
「……ダメじゃないよ。国光」
 名前で呼ばれて、こめかみに軽いキスを受ける。手塚の中で乾がピクンと脈打って、その形をはっきりと感じ取って。手塚は思わず声をあげた。
「あ――っ、さだ…はる………」
「国光……好きだよ、国光」
 手塚の名前を呼びながら、乾が動き始める。
「だから、もっと呼んで……国光」
 吐息混じりに囁かれて、手塚は中にいる乾を締めつけていた。
「あっ、あ………貞治っ!」
 始めは穏やかに、やがて激しくなっていく動きに翻弄され、自らも乾を追い求めて。二人の律動が次第に重なっていった。


 二人同時に頂点を極めて、心地よい疲労感に身を任せていると、乾が優しく髪を撫でてきた。
「貞治?」
 閉じていた目を薄く開けると、髪を撫でる手つきよりももっと優しい目で、乾が見下ろしているのがぼんやりと見えた。
「国光……」
 微笑したまま、乾が手塚の額に軽く唇を押し当てる。
「ねぇ、国光?」
「なんだ」
「今日……もしかして蓮二に嫉妬した?」
「……何故、そう思うんだ」
 手塚の横に身体を滑り込ませてくる乾に、静かに問いかけた。
「急に貞治って呼んでくれるようになったから」
 答える乾の声も、静かで穏やかだった。
「蓮二に会ったせいなのかと思って」
「お前が柳とあんなに親しいなんて、知らなかったぞ」
 手塚のことに関しては誰よりも鋭い乾には、見抜かれてしまっていた。
「別に隠してたわけじゃないよ」
「そんなこと、わかっている。幼なじみなら、あんな風に名前で呼び合っていても不思議ではないからな」
「……やっぱり、妬いてくれてたんだ」
 思わず出てしまった本音に、乾がクスリと笑う。
「別に、君が心配することじゃないよ。名前で呼んでるからって、こうやって……」
 言いながら、乾は手塚の瞼に口づけて、唇に軽くキスをする。そして手塚の目をまっすぐに見つめてきた。
「キスしたり、抱いたりしたいなんて思わないしね、蓮二には」
「お前は……」
「それに、名前で呼ぶのって、蓮二のクセみたいなものでね。仲のいい人間は、みんな蓮二って呼ぶし、蓮二も名前で呼ぶから。手塚も仲良くなったら、すぐに国光って呼ばれるよ」
「貞治」
「……と、ゴメン」
 今までのクセで、思わず手塚と呼んだ乾を軽く睨むと、乾は柔らかく苦笑した。
「本当はね、俺もちょっと前から国光って呼んでみようかと思ってたんだけど」
「そうなのか?」
「うん。でも、一度国光って呼び出したら、学校やみんなの前でも国光って呼んじゃいそうでね。さすがに、それはちょっとマズイじゃない?」
「それは……そうだな」
 乾に言われて、手塚は一瞬考えた。
 そうでなくても、ここ最近手塚と乾は仲がいい、と噂されている。そんな中で、いきなり名前で呼び合っているのを知られてしまったら。菊丸や不二辺りが大騒ぎをしそうだ。
 なにせ、青学では手塚も乾も、名字でしか呼ばれないのだから。
「だから、我慢してたんだ」
「そんなことを我慢して、どうする」
「そうだね」
 手塚に言い返されて、乾は小さく声をあげて笑った。
「でも、国光から呼んでくれて、嬉しかった」
「それくらい、たいしたことじゃないだろう」
「それはそうだけど。でも、名前で呼ばれると、本当に恋人同士って感じがするから」
「貞治と呼ばれたいなら、いくらでも呼んでやる」
 照れくさそうに笑う乾の肩に、手塚は頬をすり寄せた。
「俺が名前で呼ぶのは、お前だけだからな」
「……そうだね、国光」
 これ以上ないほど幸せそうに笑った乾に、手塚は抱き寄せられた。
「そういえば、さっき誓いのキスをする時に言い忘れたんだけど」
「なんだ?」
「俺が好きなのは、国光だけだよ」
 顔を上げてまじまじと乾を見つめると、いきなり深く口づけられた。
 そのまま次のセットへ突入しようとする乾に、手塚はおとなしく身を任せた。
 丁寧で一途で情熱的な愛撫を受けているうちに。
 乾がナンパされていたことも、柳と会ったことも。
全て手塚の頭の中から消えていった。


Fin

written:2003.10.23

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