ためらいの頃

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ためらいの頃


Side:I

歌って、そして何よりもうそをつかないで
踊って、そして心の不安は全て追い払おう
ただ私を愛して
1、2、3、1、2、3
これが私のあなたへの歌


 ブルルルル、ブルルルル。
 ふいに、胸を揺らした振動に、俺の集中が途切れた。制服の胸ポケットに入れて、マナーモードにしていた携帯が鳴ったのだ。
 薄いシャツを通して直接伝わってくる振動に不快感を覚えて、俺は周りの迷惑にならないように、小声で応答した。
「はい」
「ああ、乾。大石だけど。今どこにいるんだい?」
 かけてきたのは、大石だった。
「どこって、パソコンルームだけど」
「なんだ、やっぱりそこにいたのか。もう部活始まってるぞ。早く来ないと、グランド50周だ、って部長が怒ってる」
「ああ、もうそんな時間だったのか。悪いね、すぐに行くよ」
 期末試験も終わって、授業時間が短くなっている今の時期、俺は空いた時間を利用して、全国大会へ向けてのデータを準備している。その作業に没頭している間に、時間を忘れてしまったらしい。画面の右下に映し出されている時間を見ると、部活が始まる時間を過ぎてしまっていた。
「部長には、他校のデータを分析してました、とでも言い訳しておいてくれ」
 そう言って電話を切ろうとすると、大石に慌てて止められた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、乾」
「……何?」
「ついでで悪いんだけど、手塚を連れてきてくれないか?」
「手塚? まだ来てないのか?」
「ああ、生徒会で呼び出されてる、って話してたから、多分そっちじゃないかと思うんだけど。ちょっと様子を見てきてほしいんだ」
 なるほど、と俺は納得していた。生徒会室は、パソコンルームと同じ棟にある。
「わかった。終わってるようなら、引っ張っていくよ」
「悪いな、乾」
 そう言って、大石は電話を切った。
「手塚を、ね」
 俺は呟いて、開いていたデータをMOに保存し、ドライブから引き抜いた。そして、システムの電源を落とし、立ち上がった。
 梅雨が明け、いよいよ夏本番といった暑さが襲い掛かってくるこの時期、テニス部では全国大会へ向けた練習が続いている。関東大会ではベスト4に終わったものの、全国大会への切符は確保したのだ。
 そしてその後、全国大会へ行くレギュラーを決めるランキング戦で、俺はレギュラー復帰を果した。俺がレギュラーに入るのは、地区予選・都大会へのメンバーを決めるランキング戦に次いで、2度目。そして今回のレギュラーは、8名のうち俺を含む5名が2年生で占められている。
 大石も、その中の一人だった。
 そして手塚は。俺たちがレギュラーを決めるランキング戦に参戦するようになってから、まだ一度もレギュラーから外れていない。
「ま、先輩たちより強いんだから、当然なんだけどね」
 というのが、俺の結論だ。
 俺はパソコンルームを出て、手塚がいる生徒会室へ向かうため、階段を上がっていった。
『お前が好きだって言ったら、どうする?』
 そんな言葉で、俺が手塚に告白したのが桜の時期。
 それから3ヶ月以上たった今、二人の関係はあまり進展していない。手塚に触れる機会は何度かあったし、それほど嫌な顔はされないんだけど。まだ手塚は俺を好きになるまでには至っていない様子だった。
 いっそのこと、ちゃんと振ってくれたらな。と思うこともあるけど、それはそれで哀しいな、といつも思い直す。
生徒会室と書かれた札が下がった教室へ着いた俺は、ノックをして戸を開けた。
「失礼します……て、なんだ、誰もいないのか?」
 青春学園中等部の生徒会は、会長以下計6名で構成されている。手塚は、1年生の時に書記に立候補し、見事当選を果たしていた。そして今は、次期会長の最有力候補だ。その書記が呼ばれているということは、当然会長も副会長も揃っているんだろう、と思っていたのだが。
 中には人影がなかった。
 でも、なんで戸が開いていたんだ?
 戸が開いているってことは、中に人がいるってことだよな。と思い直して、戸を閉めて中に入った。すると……。
「……手塚?」
 生徒会室に用意されている長椅子に横たわって、手塚が規則正しい寝息をたてていた。
「珍しいな、手塚が居眠りなんて」
 少なくとも、俺は今まで手塚が欠伸をしたところすら、見たことがない。常に油断も隙もなく、砕けたところを見せないのが手塚国光という男だった。その手塚が。
 重量のあるカバンを机に置いて、俺は手塚が寝ている長椅子に近づいた。
 手塚が今青春学園中等部で得ている肩書きは、二つ。一つが生徒会書記で、もう一つが男子テニス部副部長だ。生徒会はまだしも、1年の2学期で副部長に抜擢された時には、部内から、特に先輩から反発を招いた。
 その二足わらじを履き、どちらも見事にこなし、さらに成績は常にトップ。まさに、完璧が服を着て歩いているような男なのだ。でも。
「……どこかで無理してるんだろうな、やっぱり」
 眼鏡をかけたまま、目を閉じて眠っている手塚を見下ろして、呟いた。そんな声も届かないほど、すぐ側まで人が来ていることにも気づかないほど、手塚は熟睡しているようだった。
 自分を失うほど熟睡している想い人を目の前にして、人間が取る行動はだいたい決まっている。俺も、その例に倣うことにした。
「手塚」
 寝息をたてる手塚に顔を近づけて、そっと呼びかけた。が、反応はない。
 無防備な寝顔がこんなにかわいいとは、思わなかった。
 俺の携帯にカメラ機能がついてたらなぁ。
 カメラ付携帯を持っている英二や不二に、そんなカメラ何に使うんだよ、といつも言っていたけれど、俺は少し、いやかなり後悔した。運悪く、今日はデジカメも用意していない。
「手塚、起きろよ」
 試しに、俺は手塚の頬に触れてみた。でもやはり反応がない。
 冷房は入っていないが、開けた窓から入ってくる風が、手塚の寝ている場所にちょうど心地よく吹いてきていた。
 なるほどね、それで気持ちよくなって寝てるわけか。
「起きないと、キスしちゃうよ?」
 声もかけた。頬にも触れてみた。それでも、起きなかったんだから、お前も悪いよ。
俺の行動を咎められたら、そう言ってやろう。
 そう決意して、俺は誕生日の時に未遂に終わった事を実行することにした。だいたいお姫様を起こすのは、王子のキスと相場は決まっている。
 軽く触れるだけだから、少しだけ許してくれ。
「手塚」
 目を覚まさないかどうか、念のためもう一度確かめる。俺は周囲を見回して、耳を澄ませた。大丈夫、生徒会室の周辺には誰もいない。
 では、いただきます。
 心の中で両手を合わせ、俺は自分の眼鏡を外して手塚に顔を近づけた。
 手塚の寝息が、俺の頬にかかる。くすぐったいような、少し心苦しくなるようなものを感じつつ、俺はそっと手塚の唇に自分のそれを重ねた。
 手塚の唇は少し乾いていて、柔らかくて、温かい。
 軽く触れて、すぐに離れるつもりだった。でも、触れてしまったら、手塚の唇の感触をもう少し確かめていたいと思った。
 もう少し。
あと少しだけ。
 ただ軽く触れていただけの唇が、少しずつと思うたびに深く重なっていく。
「ん……」
 ふいに、手塚の寝息が乱れた。鼻に抜けるような声を聞いて、俺は弾かれたように手塚から唇を離した。
 バレたか?
 眼鏡をかけ直して手塚を見た。
 心臓の鼓動が大きくなって、耳鳴りのように聞こえていた。
 ドクドクと速く脈打つ鼓動が、少しずつスピードダウンして、ようやく落ち着いてきた時。手塚がゆっくりと目を開けた。
「手塚?」
 まさか、気づかれてないよな?
 思いながら声をかけると、手塚が怪訝な顔をして俺の方を向いた。焦点の定まらない目で、俺をじっと見つめてくる。じいっと見つめて、3回瞬きをして。
「乾?」
 手塚が小さく俺を呼んだ。そして、弾かれたように、ガバッと長椅子から体を起こした。
「……っ」
「手塚っ!」
 起き抜けに勢いよく起き上がったせいで、頭がクラッとしたらしい。椅子から手塚の体がずり落ちそうになって、俺はあわてて支えた。
「大丈夫かい?」
「……乾」
 横抱きにされて、手塚は俺の胸に耳を押し付ける格好になった。眼鏡が邪魔をして、どうしても横向きになってしまうようだ。
 それでも、手塚は俺に体をすり寄せて、抱いている俺の腕に手を添えてきた。
「手塚……?」
 手塚に触れたことは、何度かあった。その時に、悪戯まがいのリアクションはあったけれど、こうして自然に、手塚から俺にアクションを起こしたのは、初めてだった。
 まさかとは思うけど、寝惚けてる、なんてことは、ないよな……。
 思いつつも、こんな絶好のチャンスは、そう何度も巡ってくるわけじゃない。俺は手塚を抱いた腕に力を込めた。
 暑さでほんの少し汗ばんだ手塚の体から、手塚の匂いがする。今は、まだ部活前でスプレーも何も付けていないから、これが本来の手塚の匂いなんだろうな。思っていると、つい、手塚の髪に頬を寄せていた。
「手塚」
 もう一度呼びかけると、手塚が急に体を固くしたのがわかった。抱きしめた腕と、抱き込んだ胸で、わかってしまった。
 そして案の定、長椅子から起き上がった時のように、手塚は俺を突き放すように離れてしまった。
「……何をしに来た?」
 やっと覚醒したのか、口を開いた手塚は、いつもの手塚に戻っていた。
「部活、もう始まってるから早く出て来い、って部長から伝言でね。手塚を迎えに来たんだ」
「そうなのか」
 手塚はズレてしまった眼鏡を直して、椅子から立ち上がった。
「それで、お前は何をしているんだ? まだ制服のままのようだが」
「パソコンルームでデータを整理していたら、時間を忘れてしまってね。これから行く所だよ」
「そうか」
 短く答える手塚の態度に、俺はどこかよそよそしい雰囲気を感じた。
 3つ並べた長机に置いたカバンを取って、手塚はそのまま生徒会室を出て行こうとする。
「手塚?」
 呼んでみると、手塚は俺を振り返ることもなく、戸に手をかけた。
「部活へ行くんだろう? グランドを走らされたいのか?」
「いや。行こうか」
 俺は手塚を追いかけた。

 それからしばらくの間、手塚は俺と目を合わせようとしなかった。
 キスしたのがバレたのかと思ったけれど、手塚は何も言わない。
 というより、話しかけようにも取り付く島がなかった。
 照れているにしては、期間が長すぎる。
 手塚の真意を確かめる術もないまま、俺はしばらく悶々とした日々を過ごすことになった。


Side:T

 夢の中で、彼は俺を抱きしめて、好きだと囁いて、俺にキスをした。
 俺も、彼の背中に腕を回して、彼の唇を求めていた。
 彼の唇は優しくて、温かくて、柔らかく俺を包み込んだ。
 夢から覚めた現実は、夢の続きのようなシチュエーションだった。
 夢から覚めると、すぐ傍に彼がいた。
 夢で見ただけなのに、彼の唇の感触が残る。
 夢と現の狭間で抱きしめられた肩に、彼の腕の感触が残る。
 現実で囁かれた声が、耳から離れない。
 その日から俺は、彼の顔をまともに見られなくなった。


「手塚」
 呼ばれて、俺はボールを打ち返す手を止めた。
 声をかけられた方向を見ると、乾が近づいてくるのが見えた。乾の手には、彼がいつも持っているノートがあった。
「手塚、練習熱心なのはいいけど、オーバーワークだよ」
 青学のテニスコートの一角には、一人でも練習できるように、と白線でネットを描いた壁がある。部活が終わった後、俺は部室の鍵を預かってそこでボールを打っていた。
「明日の練習もあるんだから、無理はダメだ。今日はここまでにしておいた方がいい」
 言いながら、乾は俺が打ちっぱなしにしていたボールを拾い始める。一つ、また一つと拾っては、カゴに入れていく。
「……菊丸たちと、帰ったんじゃなかったのか」
 乾は一度部室に戻って制服に着替え、他の部員たちと一緒に帰ったはずだ。
 練習で小腹が空いたから、ハンバーガー屋で何か食べて帰ろう。そんな誘いを、俺は断ってここで練習していたのだ。
「まぁね、一緒に店まで行ったんだけど。手塚が気になって、途中で抜けてきたんだ」
 話しながら、乾は俺がコートに散らしたボールを、全て拾い集めてしまった。
「ずっと、ここでボール打ってたのか?」
「ああ」
「ボール打つのはいいけどね、手塚。今日はお前にしては、コントロールが乱れてる」
 乾は、壁にできたボールの跡を見て、そう告げた。
 敢えて球種やコースを打ち分けることはあっても、普段の俺なら、ネットの部分にボールが当たることはまずない。
 それが、今日は。実戦ならばネットにかかっている位置にまで、ボールの跡が残っていた。
 打っている最中にも、気持ちが乱れていることには気づいていた。
 壁は、自分が打ったボールをこれ以上ないほど正確に返してくれる。いつもなら、一か所から動くことなくボールを打ち返せるはずなのに、今日は前後左右に大きく動いてしまっていた。
 が、乾にまで見抜かれてしまうということは、いよいよ調子が悪いということだ。
 いや、調子が悪いというより、これは練習と称して、ボールに八つ当たりしているだけだ。
「腕に違和感は?」
 乾は、壁に視線を向けたまま、俺に尋ねてきた。
 乾は俺が練習のしすぎで、利き腕を傷めないかといつも気にかけてくれている。俺が打つショットの中には、俺たちの年齢で打つには肘に負担がかかりすぎるものが、いくつかあるためだ。
 いつもの乾は、直接俺の腕に触れて、手で具合を確かめる。けれど、今日それをしないのは……俺がこの1週間、ずっと乾を避け続けて、乾もそれを気にしているせいだ。
「ない。何をそんなに心配しているんだ?」
「もうすぐ全国大会も始まる。お前はうちの要だからね。調子を崩してもらっては、困るんだ」
「そんなに無理をしているつもりはない。そんなことを言うために、わざわざ戻ってきたのか」
「そうだよ。悪いかい?」
 問い返すように言いながら、乾は俺の方に視線を移した。俺を見て微笑する乾の顔が、いつになく憂いに満ちているのが見て取れた。
 乾がそんな顔をするのは、俺が乾を避けているからだ。
 俺が乾から目を逸らすと、乾は寂しそうな表情をした。そんな顔をさせてしまうことに良心の呵責を覚えていると、乾はもっと哀しそうな顔をした。そして乾の寂しそうな顔を見るたびに、俺は心が痛んだ。
 寂しそうな乾の顔は、見たくない。
 そんなことが数日続いて、乾は俺を見る度に、どこか愁いを帯びた顔をするようになった。
「悪いとは言わないが、あまり俺に構うな。お前の心配には及ばない」
「俺に心配されるのも、嫌になった?」
 俺にそう尋ねてくる乾の声は、酷く優しかった。でも力のない声だった。
「嫌だとか、そういうことじゃない。ただ、心配する必要がない、と言っているだけだ」
「必要がない?」
「そうだ。お前に心配されなくても、自己管理ぐらい自分でできる。お前に止められなくても、もうそろそろ切り上げて帰ろうかと思っていた」
 どうして、俺はこんなに苛立っているんだ?
 自分でも、わからなかった。
「余計なお世話だった、ってことか」
「そうだ」
 ただ、弱々しい乾の声は、聞きたくなかった。
「ボールを拾ってくれたことには、礼を言う。だが、もう俺に構わないでくれ」
 俺は、ボールを拾い集めてくれたカゴを乾から受け取って、そのままコートを出ようとした。すると、乾はカゴに手をかけた俺の手を、強く握りしめてきた。
「もう構うな、って……どうして、そんな事言うんだ?」
 乾の声が震えているような気がした。捕まれた手に、いっそう力がこもって痛かった。
「心配する必要ないなんて、どうしてそんな事言えるんだ? 手塚のことに無関心になれ、って本気で言ってるの?」
 俺は手塚が好きだから。
 乾は口に出して言わなかった。けれど、俺には乾がそう言いたいのだと、わかっていた。
 乾の言動には、いつも好きだという気持ちがこもっている。乾が俺に対して何か行動を起こす時、いつも俺を好きだという思いが動機になっている。
 そんなことは、痛いほどよくわかっていた。
「手塚は、誰かを好きになって、その人のことに無関心でいられるのかい?」
「……」
 俺は、答えなかった。いや、答えられなかった。
 乾の言っていることは、至極当然のことだ。俺を好きだと思ってくれている乾に向かって、どんなに俺に構うなと言ったところで、はいそうですか、とは言えないだろう。
「俺が嫌いなら、はっきりそう言ってくれ。俺がお前を怒らせるようなことをしたなら、ちゃんと怒ってくれ」
 乾の声に、力がこもってくる。今まで抑えていた感情が、溢れ出してくるような声だった。
「俺はお前を嫌いなわけじゃないし、お前に対して怒っているわけでもない。……この手を、離せ」
 俺が乾を避けるのは、単に俺のわがままで、身勝手なだけだ。けれど、俺の足りない言葉では、そんな俺の感情までは伝わらなかった。
「だったら、どうして俺を避けるんだ。自分から避けておいて、どうしてお前の方が傷ついたような顔をするんだ、手塚?」
「……!」
 俺は思わず乾を睨み上げていた。
 傷ついたような顔? 俺が?
「……やっと、まっすぐ俺の顔、見てくれたね、手塚」
 寂しげに微笑して、乾がゆっくりと囁いた。その声はとても小さかったけれど、静まり返ったグランドの中で、すぐ傍にいるせいで、はっきりと俺の耳に届いた。
「怒ってるわけじゃない、って言ったけど、本当は怒ってるんじゃないのか、あのこと?」
 あのことが何を指しているのか、聞かなくてもわかった。生徒会室でうたた寝をしていた俺を乾が見ていて、寝起きの俺を抱きしめたことだ。
「……怒ってはいない」
 俺はもう一度言った。
 あのこと、と言われると、乾の腕の感触や、乾の体温を思い出してしまう。捕まれた手から伝わってくる乾の体温は、記憶に蓋をしようとする俺を妨げる。
 夢の延長で抱きしめられた乾の胸は、そのまま自分を全て預けてしまいたくなるほど心地よかった。夢の中で重ねられた唇は、泣きたくなるほどに優しくて……。
 そんな感情を抱いたことまで、思い出す。俺はまだ、そこまで乾を好きなわけじゃないはずだ。
 思い出させないでほしかった。
 生徒会室での乾の感触は、夢の中の記憶とつながっている。その記憶まで蘇ってきて、それが自分の本音のような気がしてしまう。
「だったら、どうして」
 なおも問いかけようとする乾を、俺は遮った。
「お前には関係ない」
 そう、これは俺自身の問題だった。
「関係ない……?」
 けれど、乾にはそれが拒絶の言葉に聞こえていた。乾の手から急に力が抜けて、俺の手は自由になった。
 俺が言った言葉が、乾にとって絶望をもたらすものだと、俺は気づけなかった。
「生徒会室でのことは、何とも思っていない」
 何とも思っていないわけじゃない。
 むしろ、逆だ。乾の顔をまともに見られないほどに、意識している。
「俺がお前を避けているとか、傷ついた顔をしているとか。そんなことはお前の思い過ごしだ。俺がそんなにお前を意識していると思ったのか」
「手塚……」
 思い過ごしなわけがない。
 誰よりも俺を見ていて、俺の一挙一動に注目して、一喜一憂している男なのだから、乾は。
 考えるより先に、言葉が心を裏切って出て行ってしまう。
 そんな俺の言葉に、また乾が寂しげな顔をした。
「自惚れるのも、いい加減にしろ」
 寂しそうな、哀しそうな乾の顔を見たくない。そんな顔をさせるつもりではないのに、俺の言葉は乾を傷つけてしまう。
 これ以上乾と話していると、もっと乾を傷つけてしまう。
 俺は乾に背を向けた。
「明日の練習があるんだろう。俺も、もう帰る。だから、お前も帰れ」
 そう言い残して、俺はコートを出た。
 乾は、追いかけてこなかった。
 乾に捕まれていた手に残る温もりが、痛かった。

 それから、乾は俺に話しかけようともしなくなった。
 他の部員たちに怪しまれないように、必要最低限の挨拶や会話を除いて。
 好きだと告げられてから、数ヶ月の間。
 ほぼ毎日のように、俺を想う気持ちから優しくしてくれる。
 そんな乾に慣れてしまっていた俺は。
 乾が自分から遠ざかることが、こんなにも寂しいことなのだと、初めて気づいた。


 「はい」は嘘をつくこともあり
 「いいえ」が心を欺くこともある
 黙って! 沈黙が真実(ほんとう)を語っている
 信じる、信じない、揺れ動く私の心

 ただ私を愛して


Fin

written:2003.5.12

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