君が生まれた日に~手塚

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君が生まれた日に Side Kunimitsu



「離せ! お前なんか、もう知らない!」
 まさに、売り言葉に買い言葉で口を突いて出てしまったセリフだった。
 覆水盆に返らず。
 そんな言葉を、手塚は他人事のように思い出していた。
「手塚がそう言うなら、仕方ないね」
 そう言って、乾は手塚から離れた。
 いつもなら、なんとかして手塚を宥めようとする彼なのに。その日の彼は嫌に物分かりが良くて、あっさりと離れてしまった。
 そして脱ぎ捨てていた上着を手早く身につけて、カバンを手にしてさっさと部屋を出て行ってしまった。
 その後姿は、手塚が見送ることさえ拒絶しているようだった。



「5回目だね」
 ストレッチ中、手塚の背中を押しながら不二がポツリと言った。それを聞いた手塚は、身体を起こしながら不機嫌そうに聞き返した。
「いったい何を数えているんだ」
「僕が背中を押している間に、手塚がついたため息の数」
 答える不二の声は、どこか楽しそうだった。もっとも、不二はいつも穏やかに微笑していて、楽しそうにしているのだが。今の手塚には、それが不愉快に思えた。
「そんなものを数えて楽しいか」
「まぁね。だって、乾と痴話ケンカして凹んでる手塚なんて、滅多に見られるものじゃないし」
「……」
 あっさりと答えられて、手塚は絶句してしまった。
「ここしばらく、乾と口きいてないんでしょ?」
「……だったら、どうなんだ」
「そんなに凹んでるんだったら、早く謝って仲直りしちゃったら?」
「どうして俺が謝らなければいけないんだ」
「そうやって意地張ってたら、いつまでも仲直りできなくて、そのまま喧嘩別れ状態になっちゃうよ。手塚は、それでもいいんだ?」
 口調は穏やかで、声は楽しそうなのだが。不二が話す内容は、かなりキツイものだった。
 返す言葉がなくて、手塚は再び黙り込んでしまった。黙々と前屈運動を続けながら、思い返してみる。
 そもそも、乾とケンカをしたのは本当に久しぶりだった。手塚はそれほど激昂するタイプではないし、乾も沈着冷静を絵に描いたような男だ。口論をすることはあっても、ケンカにはならない。
 それなのに、どうしてあの日だけ。乾が冷たい態度を取ったのか、手塚にはさっぱりわからなかった。手塚はただ、あまり自分を甘やかすな、と言い出しただけなのに。
(好きな相手を甘やかして、何が悪いのかな、手塚)
(それとも何? 手塚は、俺に甘えるのがイヤなの?)
 返ってきた言葉は、付き合っている手塚でさえほとんど聞いたことのない、冷たい声だった。
 それからは、今思えば下らない事を言い合って。言い争っているうちに、だんだん言葉がエスカレートしてしまって。
 気がつくと、言うつもりもなかったような言葉を口にしてしまっていた。
 せっかく乾が手塚の部屋に来てくれたのに。見送りも許されないような状況で帰らせてしまったのは、手塚のせいだ。それは、わかっている。わかっているけれど……。
 口火を切ったのが自分だった、ということもあって、手塚は素直になれなかった。
 いや、正確には何度か謝ろうと思い、話しかけようとしたのだ。が、乾には取り付く島がなかった。手塚が話しかける隙もなく、まるで視界に入っていないかのような振る舞いを見せられて、手塚は話しかけることもできなかったのだ。

 そう思えば……。

「悪いのは、俺だけじゃない」
「当然でしょ。喧嘩両成敗って言うくらいだし」
「だったら……」
「でもね、手塚。こういうことは、先に謝った方が勝ちなんだよ」
 こういう時、不二の言葉には妙に重みがある。天才と言われるだけのことはあって、手塚や乾とは別の意味で達観しているのだ。
「それに手塚、今日誕生日でしょう」
「ああ」
「でも、まだ乾からはおめでとうって言われてない。違う?」
「……違わない」
「だったら、なおさら早く謝ったほうがいいね」
 身体を起こして後ろの不二を振り返ると、不二はいつもの微笑を少し深くして笑っていた。手塚を勇気づけようとするような表情に、手塚は軽く頷いた。


 手塚の誕生日である10月7日。
 青春学園男子テニス部で共に全国大会までを戦い抜いた部員たちが集まって、テニス大会が開かれた。公共のテニスコートを借りて、トーナメント方式で対戦し、優勝者と手塚には『河村すし』の無料食べ放題チケットが進呈される、という企画だった。
 発案者は、乾である。
 部活を引退した3年生6人にとっては、後輩たちと打ち合うのは久しぶりのことだった。そして後輩たちにとっては、3年生の引退後、どれだけしっかり練習を積んでいるかを試される場でもある。
「勝ったら寿司食い放題かぁ。こりゃ、負けらんねぇなぁ、負けらんねぇよ」
「でもぉ、それってタカさんが握るのかにゃぁ」
「ああ、親父が修行ついでに握ってみろって」
「へぇ、それは楽しみだな」
「不二が勝ったら、わさび寿司三昧になるんだろうな」
「わさび寿司って……不二先輩、絶対味覚おかしいっす」
 すでにアップを済ませ、対戦カードが知らされるのを待ちながら、桃城と菊丸と河村と不二と大石と越前が思い思いに話しあう。
 そこへ、乾がいつものノートに対戦表を書き記したものを見せた。乾を囲むようにして集合した面々に、乾は説明を始めた。
「じゃ、手塚杯テニス大会の対戦カード発表をする。まず、Aブロック。第1試合は越前vs桃城。第2試合は大石vs河村。第1試合と第2試合の勝者が第3試合を戦って、その勝者と手塚が対戦し、勝った方が決勝へ出る」
 手塚は誕生日で特別だから、という理由でシード枠になっていた。
「次、Bブロック。第1試合は菊丸vs不二。第2試合は海堂vs俺だ。今日は手塚の誕生日だから、手塚には成績に関係なく、河村すしの無料食べ放題チケットが贈られる。それと、もし手塚が優勝した場合は、準優勝者にもプレゼントされるから、頑張ってくれ」
 その言葉には、手塚以外の全員が顔色を変えた。小さく感嘆の声を漏らして、それぞれに顔を見合わせた。
「それから、コートを借りている時間の関係で、今回は特別ルールを設けるよ」
「特別ルール?」
 借りている時間は4時間。その間に、決勝まで済ませてしまわなければならない。おうむ返しにした大石の問いかけに、乾はさらに続けた。
「ああ、1試合につき30分の時間制限をつける。1セットマッチで戦って、30分以内に6ゲーム取った方が勝ちだ。もし30分以内でどちらも6ゲーム取れなかった場合は、その時点でより多くゲームを取っている方を勝ちとする」
「もし、ゲーム数でも並んでいたら、どうするの?」
「続行中のゲーム終了まで試合を続けて、取った方が勝ちだ」
「なるほど」
 時間制限ルールを納得して、不二が頷いた。
「5分後に第1試合を始めるから、それぞれのコートに入ってくれ。審判は、Aコートが大石、Bコートは俺がやるから」
 乾の合図で、メンバーは二手に分かれた。決められたコートへと向かう途中で、不二が乾に話しかけるのを、手塚は横目で追っていた。
「ねぇ、乾。せっかくの手塚杯ってことだからさ、勝者には手塚がキスするっていうの、どう?」
「不二……それ、本気で言ってるのか?」
「本気だよ。だって、面白いと思わない?」
「面白いってねぇ、不二。そんなこと、手塚がOKすると思うか?」
「そうだね……」
 言いながら、不二はあからさまに手塚に流し目を送る。冗談ではない、と眉をひそめた手塚の表情を見て、クスリと笑った。
 まったく、何てことを言い出すんだ、不二は。手塚は心の中でため息をついた。
「手塚がOKするわけないか」
「当たり前だろう。手塚がそんなことOKしたら、雨どころか槍が降ってくるよ」
「それもそうだね」
 乾の言葉に、不二が声をあげて笑う。何気ない会話なのに、乾の口が手塚を語ることに、手塚は神経を尖らせていた。

 ケンカ中の今、乾が自分をどう思っているのか。

 乾が他の誰かと交わす言葉の端々で、手塚の事を問われたその反応で。手塚は確かめようとしていた。
 手塚は、審判席へと上がっていく乾の後姿をじっと眺めていた。いつもなら敏感に手塚の視線を察知して、分厚いレンズの奥から手塚にしかわからない微笑を投げかけてくれるのに。
 乾は、手塚の視線には気づかない様子で、試合の段取りを始めていた。


 相変わらず、乾には手塚の取りつく島がなかった。テニスコートに来てからも、乾は必要最低限の挨拶はおろか、まともに手塚を視界に入れようともしない。
(去年の今頃は……)
 コート横のベンチに座って、手塚は1年前の誕生日のことを思い出していた。
 1年前の手塚の誕生日は、午前零時、10月7日になった瞬間に乾からおめでとうメールが携帯に送られてきた。
 登校してからも、女生徒たちからのプレゼント攻撃からできる限り手塚を守り、放課後は乾の家へ呼ばれて手料理を食べて。プレゼントと一緒に、甘いとしか形容しようのないキスを受けて、手塚は幸せな酩酊感を味わった。
 生まれてから最高に幸せな誕生日だったと、今でも思う。
 それと比べて今年はどうだ。おめでとうを言われることも、まともに会話をすることもない。
 今日のこの企画も、ケンカをする前から計画されていたものだ。
(すっぽかされなかっただけ、ましだということか)
 手塚は自嘲気味に苦笑した。といっても、周りの人間から見れば、全く表情が変わっていないように見えるのだろう。
 それもまた、皮肉なことだと手塚は思った。手塚の微妙な表情の変化は、母親を除けば乾にしかわからない。その乾が気づかなければ、手塚の表情が変わったことも、感情の起伏も。誰もわからないのだ。
 そう、今こうして、せっかくテニスコートに来ているというのに。久しぶりに試合をするというのに。一向に気分が乗らないことも、気づいてもらえないのだ。
 感情を表に出さないように、と努力し続けてきたことが、バカみたいだ。
 試合開始から27分。Aコートで行われた初戦で、越前が桃城を破った。6-2での勝利だった。
「越前のヤツ、また強くなったみたいだな」
「そうみたいだね」
 大石と河村が感慨深げに話すのを聞きながら、手塚はベンチから立ち上がろうとした。隣のコートでは、不二が菊丸を20分で倒したらしく、次の試合である乾と海堂がウォームアップのために軽く打ち合っていた。
 手塚の試合は、あと2試合後。1時間は待たなければならない。
 気分転換も兼ねて、どこかで壁打ちでもしよう。そう思い立って、手塚はラケットを手にしてベンチから立ち上がった。
「手塚、ウォームアップかい?」
「試合まではまだ時間があるからな。少し慣らしておく」
 尋ねてきた大石に言い返して、手塚はコートの出口に近いBコートを横切ろうとした。
「あ、ちょっと、手塚?」
「え?」
 手塚は、乾と海堂がストロークの打ち合いから、スマッシュ練習に切り替えたことに気づけなかった。声をかけられて足を止め、振り返ろうとした瞬間。手塚は顔に衝撃を受けた。
「――っ!」
「て、手塚っ!?」
 ネットの向こう側から、慌てたような乾の声が手塚を呼んだ。頬骨の辺りに走る痛みに、手塚は思わず頬を押さえて俯いた。
 下を向いた眼鏡に雫が落ちて、レンズを伝っていくのが見えた。ボールが当たった衝撃で、反射的に涙が出てしまったのか、と手塚は混乱気味の頭でどこか他人事のように考えていた。
「手塚、大丈夫かい?」
 ネットを飛び越えて駆けつけてきた乾が、手塚の肩に手を置いて声をかけてくる。ケンカした時の冷たい声が嘘のような、優しい声だった。
「ごめん。痛みは?」
「……」
 手塚は答えなかった。すると、乾は頬を押さえる手塚の手に、そっと自分の手を添えてきた。そして涙に濡れた手塚の眼鏡を外し、ポロシャツの裾でコシコシとレンズを拭ってもう一度手塚の耳にかけた。
「まさか、君が横切るとは思わなかったんだ、手塚。とっさにコースを変えようとしたんだけど……ごめん。痛む?」
 言い訳ついでに訊き方を変えた乾に、手塚はただ頷くしかできなかった。
 ほぼ1週間ぶりにかけられた言葉が、こんなもので。しかも、きっかけがこんな情けないことだなんて。

 最初は反射的に出てしまった涙が、次第に別のものへと変わっていく。

 情けないと思いつつも、こうして乾が自分を気遣ってくれるのが、手塚には嬉しかった。鼻の奥がつんとなって、また新しい涙が頬を伝った。
「乾ぃ、手塚泣かしちゃダメじゃん」
「さっきのスマッシュ、結構強烈だったもんね。手塚の顔に、ボールの跡がついてなきゃいいけど」
「部長、大丈夫っすか?」
「おい、桃。今はお前が部長だろ」
 アクシデントのせいなのか。それとも手塚が泣いているのが珍しいのか。二人の周りには、参加しているメンバー全員が集まってきていた。
 菊丸と不二は手塚を心配しながらも乾を軽くからかって、桃城は手塚を部長と呼ぶクセが抜けていないのを河村に指摘されていた。
「腫れたりしてないかな。冷やした方がいいかな、それとも……。ちょっと見せて、手塚」
 手塚にボールを当ててしまったことは、事故とはいえ乾にとってもショックだったらしい。いつも落ち着いている乾の声に、焦りと動揺が滲んで少し上ずっていた。
 半ば強引に、けれど優しい手つきで手塚を上向かせて、乾は頬を押さえていた手塚の手を避けさせた。そして赤くなっている場所を労わるように、そっと指を這わせた。押さえつけないように細心の注意を払って、壊れ物を扱うように軽く撫でる。
「痛くない?」
「……それくらいは、平気だ」
 心配する声音に引きずられるように、手塚は素直に答えていた。乾に対して抱いていた心のわだかまりは、ボールが当たったショックで吹き飛んでしまったようだった。
「そう。あまり押さえると、痛いよな。……本当に、ごめん」
「いや……周りをよく確かめずに、コートを横切ろうとした俺も悪い」
「手塚……」
 乾がしゅんとしたように手塚を呼んで、口角を下げる。叱られた子供のように肩を落とす乾が、ひどく愛しく感じられた。その肩を抱きしめてしまいそうなほどに。
「ちょっと赤くなってるから、タオルを濡らして冷やすといいんじゃないか」
「そうっすね。乾先輩も、100%の力で打ったわけじゃないし、ワンバウンドして当たったみたいっすから」
 大石と越前に代わる代わる言われて、青くなっていた乾が少し表情を取り戻した。
「俺、リターンすればよかったっすね。すみません、ぶちょ…手塚先輩」
 球出しした海堂も、深々と手塚に頭を下げた。もともと律儀で真面目な性格だからか、元部長である手塚のアクシデントに関わってしまったことに責任を感じていたらしい。
「気にするな、海堂」
 手塚は手の甲で涙を拭って、海堂に答えた。
「これは俺の不注意が招いたことだ。お前が責任を感じることはない」
「先輩……すみません」
 改めて頭を下げた海堂に頷いた時、手塚は完全にいつもの手塚に戻っていた。戻ったと同時に、明晰な思考回路が正常に回り出す。
 とりあえず、この頬を冷やすこと。その次に、すっかり凹んでしまったこの恋人をどうするか、だ。
 手塚は元気をなくしてしまった乾に声をかけた。
「乾、タオルを貸せ」
「え……?」
「お前がボールをぶつけたんだ。だから、お前のタオルを濡らして俺の頬を冷やすのが筋だろう」
「あ、う、うん……」
 相手のデータを調べ上げ、立て板に水の如くスラスラと分析結果を語る乾らしくない、歯切れの悪い返事だった。まだ手塚ほどには立ち直れていない乾に、手塚はわずかに苦笑した。
「Aコートの方は先に試合をしていてくれ。そっちの方が、試合数が多いからな」
「あ、ああ……そうだな」
「海堂は、乾が試合に臨めるようになるまで、少し待ってやってくれ」
「は、はい」
 大石と海堂に指示を出して、手塚は乾を促した。
「タオルはお前のバッグの中か? 水道は……ああ、クラブハウスの方にあったな」
 乾のバッグからタオルを出して、クラブハウスへ入ると手塚と乾は二人きりになった。天の配剤とでも言うべきか、その時間にこのテニスコートを利用しているのは手塚たちだけのようだった。
 更衣室の横にある洗面所でタオルを濡らし、手塚は少しジンジンと痛む頬にそれを当てた。濡れたタオルから水分が肌に染み込んでいく感触が、心地よかった。
「本当にごめん、手塚。こんなこと……」
「さっきも言っただろう。これは、俺の不注意が招いたことだ。何度も言わせるな」
「でも、俺のせいで……」
「乾」
 手塚は、空いている右手で乾の襟元を掴んだ。身長差の関係で乾をまっすぐに見上げると、おどおどしたような弱気な瞳が手塚を見つめていた。
「俺が平気だと言っているんだ。わからないか」
「手塚……」
「まったく。俺よりお前の方が、ダメージを食らったような顔をしているな」
 手塚を傷つけることを極端に嫌う乾だけに、ショックも大きいのだろう。それもまた、手塚を想うためなのだと思えば、責める気持ちなど欠片も浮かんでこない。
「大丈夫だ。こんなことは、よくあるアクシデントだろう?」
 襟元を掴んだ手を離して、手塚は乾の頬に触れた。親指で頬を撫でると、四角い黒縁の眼鏡が当たる。近視の上に乱視が混ざっているせいで、それを矯正するために普通より分厚いレンズがはめこまれた、それ。その奥にある、表情のわかりにくい黒い瞳。
 ほとんど表情を変えることのない手塚の感情が、乾にしか読み取れないように。乾の目が語る心の内も、手塚にしかわからない。
 今乾の目に映し出されているのは、動揺と戸惑い。そして後悔と自責の念。
「心配ない」
 それを消すには、言葉よりも行動で示す方が早い。

 手塚は身を乗り出して、顔を上げて、乾の唇に軽くキスをした。

「手塚……っ」
 瞳の色が、驚きへと変わる。手塚は乾を安心させるように、微笑した。乾の前でしか見せない、特別な笑みだった。
「すまなかった。あの時、あんなことを言うつもりではなかった」
「あの時……?」
 まったく。いつもの回転の速い頭はどこへ忘れてきてしまったのか。手塚の微笑が苦笑へと変わった。
「お前が俺の部屋に来てくれて、口げんかをした時だ」
「ああ、あの……」
 凹むと途端に鈍くなる思考回路が、ようやく繋がったらしい。乾は困ったような顔をして、決まりが悪そうに頭をかいた。
「あれは、俺も悪かったと思ってる。その、売り言葉に買い言葉になってしまって」
「それは俺も同じだ。本当は……お前に甘やかされるのは、そんなに嫌じゃない」
「……」
 素直に心の内を吐露する手塚に、乾は言葉を失っていた。
「それくらい、お前もわかっているだろうと思っていたんだ。……それ自体がすでに、お前に甘えていることなのに、な」
 手塚の感情や表情の変化に敏感で、察しのいい乾だから。何も言わなくてもわかっているだろう、といつも手塚は甘えていたのだ。
「だが、素直に言わなければいけないことも、あるんだな」
 そんなことも見失ってしまうくらい、手塚は乾に寄りかかっていた。心も、身体も。
 それを思えば、この数日。少し距離を置くことは、二人にとっては必要なことだったのだ。
 お互いにひどく不器用なものだ、と手塚は思う。ケンカをしてみなければ、大切なこともわからなくなってしまう。そして、互いに意地を張って、痛い目を見なければ仲直りもできない。
「お前が好きだ。お前が甘えさせてくれるのも、こうしてお前のそばにいるのも、好きだ」
「手塚……」
「この数日、お前と離れていて、お前とまともに話もできなくて、寂しかった。乾……」
 話しているうちに、また泣いてしまいそうになる。一度緩んでしまった涙腺は、なかなか固くなってくれないらしい。
 自分で思っている以上に手塚は涙もろいのだと、そんなことも乾と付き合うまでは知らなかった。
「お前と一緒にいられなくて、辛かった」
「ごめん、手塚。手塚がそんな風に思ってること、気づいてやれなくて、ごめん」
 謝罪の言葉を口にしながら、乾が強く手塚を抱きしめた。二人の体を通じて、乾の深い声がしみじみと優しく響く。
「お前のせいじゃない。ちゃんと言わなかった俺が悪いんだ」
 乾が自分を大事にしてくれるのが嬉しいのだと。本音ではそう思っているのに、つまらない意地を張って心とは裏腹なことを口にしてしまった。
「お前に大事にされると、俺は嬉しい。そうやって、俺を気にかけてくれるのも、嬉しいんだ、乾」
 もう一度、手塚は自分からキスをした。今度はさっきより少し強く、乾の唇に自分のそれを押し当てる。
「俺は、手塚を甘やかしてもいいの?」
「ああ。お前が俺に甘いのは、俺を好きでいてくれるからだろう?」
「そうだよ。だから、甘やかすなって言われると、どうしていいかわからなくなる」
 乾もまた、迷っていたのだ。この数日間。
 手塚と仲直りがしたくて、でもどうやって切り出そうかと悩んで。結局今日まで引き延ばしてしまった。
「でも、良かった。手塚がまだ、俺を好きでいてくれて」
「こんなことで、俺はお前を嫌ったりなどしない」
「本当に?」
「ああ。まぁ、腹が立ったのも、事実だがな」
「……ごめん」
 言葉と一緒に、乾はもう一度手塚を抱きしめた。猫背気味の背中をもっと丸くして、手塚の肩に顔を埋める。弱気になっている時の、乾のクセだった。
 多分、自分の肩に額を乗せている乾の顔は、泣きそうに歪んでいるのだろう。
 付き合い始めて1年と少ししか経っていないけれど、手塚にはわかる。その間、誰よりも手塚のそばにいて、手塚が一緒にいたいと思い、いつも気にしている相手だから。
 手塚は頬を押さえていた左手を外して、両手を乾の背に回して抱き返した。自分で身長を高くしたクセに、いつも猫背になっている背を軽く撫でながら、手塚は告げた。
 今日は手塚の誕生日なのに。
 一番好きな人から、まだ祝いの言葉をもらっていない。
「乾、今日が何の日か、覚えているか?」
「……手塚の誕生日だよ」
「忘れているわけでは、ないようだな」
「忘れるはずないだろう。だからこんな……て、俺、そういえば……」
 敏感かと思いきや、とんでもなく鈍感な一面を持っているこの恋人は、ようやく自分が大事なことを忘れていると気づいたらしい。
 乾ははっと顔を上げて、申し訳なさそうに手塚を見下ろしてきた。
「やっと思い出したか」
「ごめん。まだ、おめでとうって言ってなかったな」
「ああ。だから、ちゃんと言ってくれ。そうすれば、許してやる」
「うん。言うのが遅くなってごめん。手塚、誕生日おめでとう」
 生真面目すぎるほどまっすぐに手塚を見つめながら、乾が静かに告げる。厳かに、何物にも変えがたいほど大切な言葉のように。
「それだけか?」
 それはくすぐったいほど甘くて、でも言葉だけでは足りないと思わせる響きを持っていた。
「手塚杯の優勝商品とは別に、ちゃんとプレゼントも用意してあるんだ。だから、終わったら俺の家に寄ってもらっていい?」
「……まったく、本当に今日のお前は鈍いな」
「?」
 自分が思っていたのとは全く違う反応をされて、手塚は思わずため息をついた。今日の乾は、一から十まで事細かに説明してやらないと理解できないらしい。
「ただ言うだけで、終わらせるつもりか?」
「え……あ、ああ。ごめん」
 近づいてくる唇は、優しく笑んでいた。
 そして、軽くついばむようにキスをされる。手塚の唇を確かめるような軽いキスを何度か繰り返して、ようやく深く唇が重なってくる。
 舌を伸ばして探ってくる乾を、手塚は口を開いて迎え入れた。
「む……っ、んぅ――」
 口内を愛撫されて、舌を絡められて。鼻に抜けるような吐息が漏れた。
 お互いに、数日振りのキスに夢中になる。けれどここは公共の場所で、仲間たちの所へ戻らなければいけない、という理性は残っていた。
 本格的に感じさせないように、お互いに加減し合う。そんなもどかしさも、心地よかった。
「……そろそろ戻らないといけないな」
「そうだな。不二辺りが、余計な気を回して様子を見に……なんて言い出しかねない」
 先に言い出した手塚に、乾も同意する。これだけ軽口が叩けるようになれば、海堂相手に試合をしても問題はないだろう。
「乾、今日は俺の誕生日なんだ。くれぐれも、情けない試合はするなよ」
「わかってるよ。手塚と対戦しようと思ったら、決勝まで行かなきゃならないからね。海堂には負けられない」
 Bブロックにいる乾が決勝に出るには、海堂と、菊丸を下して駒を進めている不二を倒さなければならない。
「俺は必ず決勝に出る。だから、お前も勝ち上がって来い」
「俺に、天才不二を倒せって?」
「できないのか?」
「最大限努力するよ。手塚のためだからね」
 言い返してきた乾の口元には、いつもの不敵な微笑が浮かんでいた。
 それを見て、手塚は確信していた。
 もう、乾はいつもの乾に戻っている。
(どんなテニスを見せてくれるか、楽しみだな)
 手塚は、これから始まる乾の試合に思いを馳せていた。



「は……ぁう…んっ………」
 乾の上に突っ伏して、手塚は整わない息を弾ませていた。
「大丈夫、手塚?」
「ああ……平気、だ……」
 そんな手塚を抱きしめる乾の声も、乱れた吐息混じりになっている。
 お互いに、夢中で相手を求めていた。
 テニスコートを借りての、制限時間ルール付きで行われたテニス大会は、意外な幕引きとなった。Bブロックで番狂わせともいえる逆転劇が起きたのである。
 手塚でさえ、正直こんな結果になるとは予想していなかった。口ではああ言ったものの、まさか本当に乾が決勝に出てくるとは考えていなかったのだ。
 乾が海堂をねじ伏せた試合の審判をしていた不二が、審判席から降りる時に足を踏み外し、軽く捻ってしまったのだ。
(痛みはそれほどでもないんだけど、大事を取って僕は棄権するよ。それに、今日は手塚のスペシャル・ディだしね)
 妙な理由をつけて、不二はあっさりデフォ負けを選んだ。そして、かろうじて越前を突き放した手塚と、棚からぼた餅よろしく勝ちが転がり込んできた乾とで決勝が行われたのだ。
 決勝は、乾もかなり粘りを見せたものの、手塚が乾を寄せ付けなかった。そして二人仲良く寿司食べ放題チケットをゲットして、そのまま誕生日会ついでに皆と共に河村すしへと直行して、乾の部屋に帰ってきた。
 誰にも邪魔されない状況で、久しぶりに二人きりになったことに加えて、乾のプレゼントが嬉しくて。手塚はいつになく暴走した。つまり……

(お前の誕生日には、俺をくれてやったはずだ。だから、今日はお前を寄越せ)

 ということになったのである。
 手塚が乾を受け入れられるように手伝ったこと。そして最後手塚をイかせてくれたことを除いて、乾は手塚のなすがままになっていた。
「今日の手塚、すごく積極的だったからね。俺も、かなり興奮したよ。……手塚も、でしょ?」
「……うるさい」
 図星をさされて、手塚はキスでそれ以上の言葉攻めを封じた。口内を探って、舌を絡めあっているうちに、手塚の中にいる乾が再び元気を取り戻すのが、受け入れた場所でわかった。
「んっ……お前、まだ…足りないのか……?」
「手塚も、でしょ?」
 汗に濡れた手塚の背中を撫でていた手が、乾の体に触れている前へ回ってきて、柔らかく握りこむ。キスに反応してしまったのは、お互い様だったらしい。
「でも、手塚の誕生日に…仲直りが間に合ってよかったよ。……正直、仲直りできなかったら、どうしようかと思ってた」
「お前が企画した、今日の大会が、いいきっかけになったな」
「そうだね」
 せっかく治まりかけてきた息が、再び弾みだす。吐精の余韻に酔うそれではなく、もう一度頂点へ向かっていくために。
「来年の誕生日も、こうしていられるといいな」
「来年、だけか?」
 熱さを増していく手塚の前に触れながら、乾が感慨深そうに呟いた。それを聞きとがめて、手塚がジロリと睨みつけると、乾は苦笑した。
 眼鏡を取り去って、綺麗な黒い瞳が露になっている今、その笑みがひどく大人びて、男らしく見える。その瞳に宿る優しい光に蕩けそうになる心を叱りつけて、手塚は乾を睨んだまま続けた。
「お前は…んぅっ、来年限りに……するつもりなのか?」
 身体を支配していく快感に思考を奪われそうになりながら、手塚は最後まで言い切った。
「まさか。ほら、わかるだろう? 俺が、こんなに手塚のこと好きだって」
 吐息混じりの低い声で甘く囁きながら、乾が腰を突き上げてくる。まだ突っ伏したままの手塚は、乾の体の上でびくん、と跳ねた。
「あっ…ま、待て、乾っ……」
「待たない」
 意地悪く笑って、乾は腰をグラインドさせた。
「んぁっ……あ、あぁ……」
 じわじわと、乾が手塚を追い詰める動きを始める。手塚はついに、目の前に広がる快感に負けた。
「来年も再来年もずっと…手塚がもういい、って言うまで……一緒にいるよ」
 手塚よりまだ余裕のある乾が、途切れ途切れになりながらも告げるその言葉に、手塚は夢中で頷いていた。



Fin

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