ホワイトデー狂騒曲

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ホワイトデー狂騒曲



「はぁ、………ぁ、――……」
 乾はベッドに突っ伏して、息を弾ませていた。
「大丈夫か、貞治?」
 言葉面はそう言うが、全く心配していないような口調で乾の上から問いかけてくるのは、柳だ。
「降りろ、よ……重い………」
 息も切れ切れな乾に対して、背中の上からのしかかっている柳はかなり余裕の表情を見せる。
「もう限界か? 鍛え方が足りないな。部活を引退したからと言って、サボっているのではあるまいな、貞治?」
「うるさいよ」
 乾の要望に応えて体を離し、隣へ柳が体を横たえる。からかうようなその言い方に、乾は少し拗ねた表情を見せた。そしてそのまま、柳から顔を背けてしまう。
 二人の下敷きになったシーツの濡れ具合や乱れっぷりが、それまでの行為の激しさを雄弁に物語っているようだった。
 日頃は薄味なリアクションでクールな表情を見せる柳も、この時ばかりは豹変する。もっとも、当人に言わせると「好きな相手の前でクールさを装っても意味は無いだろう」ということらしいのだが。
「貞治、拗ねているのか?」
 言わなくてもわかる相手の様子を、柳はわざと口にする。そうすると乾はまた拗ねてしまうのだが、そんなところもたまらなく可愛らしく、好きだと思う。そして乾自身も、柳にそうされるのを口で言うほど嫌がってはいなかった。
「…………」
 柳の問いかけに、乾は沈黙で返した。拗ねているとわかっているのなら、お前が機嫌を直せ、ということらしい。
 柳はふっと苦笑して、乾の髪をそっと撫でた。
「すまなかったな。つい夢中になって度を越してしまったようだ。お前が余りに可愛らしかったのでな」
 柳と同じく、乾も日頃はストイックでクールな表情を見せる。だが、お互いに小学生の頃から見知っている上に、ダブルスコンビとして誰よりも知り尽くし、気心の知れた間柄だ。小学5年生の時に柳が転校したことで離れ離れになったが、今は恋人でもある。
 乾がこうして拗ねるのも、自分の前だけなのだと柳は知っている。だからこそ、余計に愛しくもあった。
「貞治」
 柳は耳元にそっと囁きかけて、背中越しに乾を抱きしめた。汗が引ききらない乾の肌は、しっとりと濡れていて柳に吸いついてくるようだった。
「そろそろ機嫌を直して、こっちを向いてくれないか?」
 優しく語りかけながら、柳は横を向いている乾の肩を引いて、仰向けにさせた。日頃は分厚くて、何故か不透過なレンズに覆われて垣間見ることの無い漆黒の、二重で睫毛の長い綺麗な目が柳を見上げてきた。
「……で、少しは反省したワケ?」
 見上げてくるその目が、柳を軽く睨んでいた。もっとも、快楽に濡れて潤んだ目で睨まれても、誘っているとしか思えないな、と柳はいつも思っているのだが。
「何のことだ?」
「だから……んっ………ぅっ、――――っ!」
 尋ねてくる乾にシラを切って、柳は更に言葉をつなげようとした乾の口を自分の唇で塞いでしまった。強引に乾の唇を割って、強引に自分の舌を潜りこませる。
 何度も柳によって煽られ、解放を迎えている体はすぐに反応した。ぞくんと、乾の体の奥に何かが走った。
「れ…んじっ、―――ぁっ……」
 唇を顎から喉へと滑らせると、乾が小さく声を上げる。
「ちょ、と……お前、まだヤる気?」
「これだけ雰囲気を出しておいて、それを言うか、貞治?」
「だって、もう4回もしてるんだよ? 前から2回と、横から1回と、さっきは後ろから1回。それでまだ足りないわけ?」
 げんなりといった様子で柳を見上げてくる乾に、柳は苦笑した。
「あの状況で、よく覚えていたな」
 指折り数える乾の額に軽くキスを落として、柳は尋ねた。
「お前、バレンタインデーの夜を覚えているか?」
「覚えてるけど?」
 それがどうしたと言わんばかりの乾に、柳の微笑が深くなる。
「ホワイトデーには3倍返しが相場だと、ブン太が言っていたが?」
「……それはプレゼントのことだろう?」
「だがその後で、俺はお前も心ゆくまで味わったが?」
「だからって、セックスまで3倍返しにする必要ないだろ」
 だいたい、あの時の3倍って一体何回だと思ってるんだ?
 そう続けようとした乾の唇を、柳は再び塞いだ。有無を言わせずに、容赦なく乾の快感を煽っていく。
(お前……タフすぎっ!)
 心の中で毒づいたそれは、乾の口から発せられることはなかった。


(―――……今、何か聞こえた?)
 何か自分を呼び出すような音に、乾の意識が急に浮上した。
 昨夜の激しい行為の名残で、体が異様にだるい。が、そんな乾を叩き起こす音がリビングの方から鳴り響いてきた。
 ピンポンピンポンピンポーン!
「……何?」
 眼鏡がないためにぼんやりとした視界の中に、目覚まし時計を見つけて乾は目を凝らした。全裸のままで柳に抱き込まれているせいで、体を自由に動かせない。
(………6時半? こんな時間に、誰が……?)
 考えようとしても、頭が鈍くて重くて、考えが上手くまとまらない。
(あー、所謂ヤりすぎってヤツかな、これは?)
 などとぼんやり思っていると、再び呼び鈴が鳴った。どうやら、下のロビーで何者かが乾を呼び出しているらしい、とようやく乾は思い当たった。
「蓮二、蓮二……起きてくれるかい?」
「…………何だ?」
 そのまま放っておいてもいいのだが。こんな早朝から呼び出すくらいだ、よほど何か重要な用事でもあるのだろう。と乾は結論づけた。
「下に誰か来てるみたいなんだ。とりあえず、出てみないと……」
「放っておけ」
 瞼をうっすらと開けて、柳はあっさりとそう言って、再び眠りにつこうとした。
「そういうわけにもいかないだろう。とりあえず、寝てていいから俺を解放してくれ」
「……ずいぶん非常識な輩だな」
 もう一度目を閉じる前に、柳はしぶしぶといった様子で乾を解放した。自由になった乾は、ベッドから降りて立ち上がろうとした。
「………」
「どうした?」
「お前のせいだぞ、蓮二」
 立ち上がろうとしたのだが、膝に上手く力が入らない。おまけに、腰も重く疼く。
 柳を睨みつけて、乾はいつもの四角い黒縁眼鏡をかけて、下着とシャツだけとりあえず身につけて、リビングまで出て行った。
 そのタイミングを見計らったように、もう一度鳴らされた呼び鈴に応えて、乾はインターホンの受話器を取り上げた。
「はい……」
「おはようございます、乾先輩。……起こしたっすか?」
 早朝から乾を叩き起こしたのは、秋まで同じ部に所属していた後輩の海堂薫だった。ロビーにいる来訪者を映し出すモニターには、トレードマークになっているバンダナを頭に巻いて、かなりの距離を走っていたのだろう、汗に濡れた海堂がいた。
「どうしたんだ、こんな早くから」
「あの……先輩に渡すもの、あるんすけど。ちょっといいっすか?」
「渡すもの?」
「ランニングで近く通るんで……と思って」
 卒業を間近に控えた乾と違い、これから最上級生になる海堂は練習試合や大会、レギュラーを決める校内ランキング戦に向けてのトレーニングを毎日欠かさない。そしてそのトレーニングメニューの中に、早朝のランニングを組み込んだのは、他でもない乾だった。
「えっと、それって…つまり………」
 海堂が乾に渡すものがある、と言って呼び出したということは。とりあえず、ロビーの鍵を解除して、それからエレベーターでここまで上がってきてもらわないといけない、ということで。
(……この格好で会うわけには、いかないな)
 一瞬乾の顔から血の気が引いた。
「と、とりあえず開けるよ。ゆっくり上がってきてくれ」
 乾はロックを解除するボタンを押して、力が抜けそうになる腰と膝にムチを打って、慌てて部屋に飛び込んだ。
「何事だ、貞治?」
 勢いよく開けて閉まったドアの音に、もう一度寝入ろうとしていた柳が不機嫌な声をあげる。が、そんなことに構っている余裕は、今の乾にはなかった。
「……っと、ズボン、ズボン。それから……トレーナーっ!」
 本当ならばシャワーの一つでも浴びたいところだが、そんな暇はない。海堂がロビーに入って、エレベーターに乗って最上階にあるここまで辿り着くまでは、3分もかからないのだ。
 乾は大慌てでクローゼットをひっくり返し、Gパンとトレーナーを身につけた。髪をとかすとか、顔を洗うとか。そんな暇もなかった。
 ピンポーン。
 3分どころか、2分弱で乾の家の玄関の呼び鈴が鳴らされた。
「はいはいはい」
 独り言のように呟いて、乾は玄関のドアを開ける。
「朝早くからすみませんっす」
「……わかってるならいいよ」
 もっとも、お前にこの時間のランニングを設定したのは、俺だけどね。
 言いながら乾は海堂に苦笑して見せる。何のかんのと言いつつも、乾はこの後輩には甘いのだ。
「それで、あの、これ……」
 はにかむような風情で海堂が乾に差し出したのは、可愛らしくラッピングされ、リボンまでかけられた手作り風の包みだった。
「これは?」
「その……母さんが作ったから、先輩に持って行け、って」
「穂摘さんが?」
 円筒型のそれを受け取りながら、乾は不思議そうに首を傾げた。
 確かに、海堂はよく面倒を見ているが。3月半ばにもなって、こんなに唐突に何かプレゼントされる謂れは乾にはない。
 そんな乾の疑問は、口にしなくても海堂に通じたらしい。海堂は自分から説明してくれた。
「バレンタインの時、俺先輩からチョコレートもらったっすよね? それ、うちの母さんたちも食べてて、お返しに……」
「お返し?」
 海堂に説明されてもなお、乾には心当たりがなかった。だいたい、自分がチョコレートをあげたのは柳だけで、他の人間にあげた覚えはないのだ。
 柳の名前は伏せたままでそう言うと、海堂は頭を振って答えた。
「その前の日に、先輩部室に遊びに来たっすよね?」
「うん、行ったね」
「その時、味見してくれって、俺たちにチョコ分けてくれたっすよね?」
「ああ、そういえば」
 一つ一つ問いただされて、乾はようやく思い出していた。柳にあげるために、乾は手作りチョコを何度か試作した。そしてそれをいろいろな人に味見してもらったのだ。
「でも、だからってお返しまでしてくれなくてもいいのに」
「ホワイトデーには3倍返しだから、って母さんが……」
「ははは、穂摘さんもオチャメな人だな」
 不幸なことに、乾は海堂の真意には気づいていなかった。海堂にしてみれば、乾からチョコレートを貰ったこと自体が重要だったのだ。それがたとえ、味見であったとしても。
 今でこそ乾は柳の恋人という立場だが、いずれは自分が柳に成り代わってやろう、と企んでいる者は自校、他校問わず数多く存在している。そしてその事を、乾を独占している柳は気づいているが、当の乾は全く自覚していないという状況だった。
 バレンタインでチョコを味見させてもらった、という事実は『乾からチョコレートをもらった』という認識にすり替わり、お返しという名目で、海堂は起きぬけの乾を拝みに来たのである。
「それで、せんぱ……」
「なるほど、ご苦労なことだな」
 今日のご予定は? と尋ねようとする海堂の言葉を遮るように、乾の背後から柳が現れた。玄関で交わされている会話を盗み聞きして、起き上がって服を着て、牽制しに出てきたのである。
「ほう、その太さ、大きさからしてさしずめ中身はロールケーキといったところか? 後で貞治と一緒にいただくとしよう」
 乾を狙っている者多しといえど、名前で呼べるのは自分だけなのだ。そしてこれは俺のものだ、と柳はここぞとばかりに自己主張していた。
「柳さん……アンタ、いたんすか?」
「いて悪いか? 今日3月14日は日曜日。昨日は土曜日で学校は休み。そして俺も貞治も、進学先も決まって後は卒業式を待つだけの身だ。恋人の家に泊まりに来るのも、当然の成り行きだろう?」
 何か文句でもあるのか、といった口調に海堂の抗議は封じ込められた。何せ、データマンとして常に正論を繰り出して反論の余地が無い乾を、更に上回るほど口の立つ男である。海堂に太刀打ちできるはずもなかった。
「だいたい、こんな朝早くから貞治を呼び出すとは、いったいどういう了見だ? 貞治が優しい顔をしているからといってだな……」
 起き抜けだというのに、もう説教モードに入っている柳を制したのは、乾だった。もっとも、一度説教モードに入った柳を止められるのは、乾を置いて他にいないのだが。
「それくらいにしておけよ、蓮二。海堂だって、悪気があって来たわけじゃないんだから」
「貞治……」
 乾は、海堂の下心には全く気づいていなかった。
「海堂のランニングコースを決めたのも、俺だからね。この近くを通りかかるついでとはいえ、わざわざ立ち寄って穂摘さん特製のケーキまで届けてくれたんだから。ありがとうな、海堂」
「いえ……別に、その………」
 柔らかい微笑を浮かべる乾の、純粋で屈託の無い表情を直視していられなかったのか。海堂は言葉を濁して俯いた。
「穂摘さんにもお礼を言っておいてくれ」
「っす……」
「用事が済んだのなら、さっさとランニングを再開するんだな、海堂君」
「アンタに言われる筋合いないっす」
 勝ち誇ったような柳を睨み返して、海堂は名残惜しそうにきびすを返した。
(起きぬけの乾先輩……髪の跳ね具合がかわいかったな。早起きは三文の徳か)
 海堂が心の中でそんなことを考えているとは、乾は予想だにしていなかった。
(首の辺りが紅くなってたのって、もしかして……。あのヤロウ………)
 昨夜の名残を悟られたことも、海堂が柳に嫉妬の炎を燃え上がらせていることも。


 海堂の思いがけない来訪で、乾も柳もすっかり目が覚めていた。
 ゆっくりと朝食を摂って、柳が先にシャワーを浴びて、乾がバスルームにこもっていると、また乾宅の呼び鈴が鳴らされた。
(今度は何者だ?)
 ロビーにいる来訪者を映すモニター画面は、二人の少年の姿が映し出されていた。
 それを見て、柳は無視することを即決した。
 見なかったことにしよう、と決めてリビングのソファに戻ろうとすると、それを見計らっているかのようにもう一度呼び鈴が鳴った。
「蓮二ぃー?」
 無視だ、無視。
 そう柳は思っていたのだが、音を聞きつけた乾がバスルームから柳を呼んだ。
「誰か来てるんだ?」
「……新聞の勧誘のようだぞ」
「そっか、なら……」
 適当に誤魔化そうとしたのだが、相手の方が1枚も2枚も上手だった。インターホンを無視していたら、乾の家の電話が鳴ったのである。発信先は携帯電話で、モニターを見ると二人のうちの片方が携帯電話を耳に当てていた。
 乾の家の電話は、常に留守電が稼動している。
「只今、電話に出ることができません。ご用件のある方は……」
 お決まりの応答文句が終わって発信音が鳴ったかと思うと、悪魔のような声が留守電に録音されはじめた。
「呼び鈴を無視したことから考えて、今そこにいるのは柳君一人だね。乾はシャワーでも浴びてるのかな?」
 監視カメラでもついているのか、と思うほどの洞察力である。これが天才の底力か、と柳は戦慄した。
「悪いんだけど、開けてくれないかな? 僕達、乾に用事があるんだよね。いくら君が乾の恋人でも、同じ部で乾と戦ってきた僕達を追い返す権利はないと思うんだけど。それとも何かな? 僕と手塚を追い返したっていう証拠、このテープに残るけど。それでもいいんだ?」
 口調は穏やかだが、話している内容は完全に脅しである。
 留守電メッセージが終わってからもう一度鳴らされた呼び鈴で、柳はしぶしぶロビーの鍵を解除した。
「貞治の同級生というよしみで入れてやる。用事が済んだら、さっさと帰れ」
「ずいぶんとご挨拶だね。高校に行っても大会で顔を合わせる間柄だ、っていうのに」
 苦虫を噛み潰したような顔で迎え入れた柳に、脅し文句で押し入ってきた不二周助は平然と言い返した。どちらも、いつもは閉じている瞼がカッと開かれていて、傍から見ていると恐ろしいことこの上ないのだが、不二に同行している手塚は相変わらず無表情だった。
「乾は?」
「風呂だ」
「珍しいな」
 家の中に入ってきても、リビングのソファに腰かけても無言だった手塚が、柳の返答に反応した。
「何が珍しい?」
「こんな時間に風呂に入っていることが、だ。朝からトレーニングでもしていたのか?」
「……相変わらず平和な思考回路してるね、手塚」
 手塚の発言に、不二も柳もため息をついた。
「あれ、手塚に不二? どうしたんだい?」
 3人の間に重い沈黙が垂れ込めようとした時、濡れたタオルで頭を拭きながら、乾がバスルームから出てきた。
「やぁ、乾」
「邪魔しているぞ、乾」
 ひらひらと手を振る不二に、相変わらず無表情なままで話しかける手塚。乾はそのどちらにも、同じように穏やかな微笑を浮かべていた。
「珍しい組み合わせだね、手塚と不二が揃って家に来るなんて」
「今日はホワイトデーでしょ? 乾にはチョコレートもらったから、お返ししなきゃと思ってね」
「俺、あげた覚えないけど?」
「だが手作りだというチョコを食べさせてくれただろう。お返しというより、お礼をと思ってな」
「そんな、お礼されるほどのモノでもないと思うんだけどなぁ」
 乾は苦笑して、タオルをそのまま首からかけてキッチンに入った。やかんに水を入れて、それを火にかける。お湯を沸かしてお茶を淹れるつもりらしい。
 そんな様子を見て、不二がすかさず乾に声をかけた。
「悪いね、乾。お茶まで用意させちゃって」
「……貴様ら、長居するつもりか?」
「乾は客人に茶も出さずに追い返すような男ではない。違うか?」
「………」
 問いかけた柳に、手塚が言い返す。
 乾が髪を乾かしている間にお湯も沸いて、さあお茶を淹れようか、と思っていたその時。またまた乾宅のインターホンが鳴った。
「今度は誰だろう?」
「やっほー、いーぬいっ!」
 受話器を取り上げるや否や、調子のいい高い声が響いてきた。
「やぁ、英二。それに大石も」
「乾にプレゼントだよーん、開けて、開けて?」
 不二と手塚に続いて、菊丸と大石までが乾の家に上がりこんできた。柳と乾を入れて、すでに6人。ソファだけでは座りきれず、乾はフローリングの床に腰を下ろす状態になってしまった。
「にゃーんだ、不二も手塚も来てたんだ?」
「うん。姉さんがラズベリーパイを焼いてくれたからね、乾に…と思って」
「俺は母さんがホワイトチョコを練りこんだシフォンケーキを焼いてくれたのでな」
 言いながら、不二と手塚がそれぞれ、20センチ四方の箱をテーブルに置く。そこに、菊丸が持ってきたスナック菓子の袋がいくつも。さらに、大石が持ってきた健康食品の袋が置かれた。
「凄いな……。とてもじゃないけど家だけじゃ食べきれないよ」
「そういえば、タカさんも後でお寿司持って来るって言ってたよ」
「そうなんだ?」
「おチビと桃も来るってさ。おチビのことだから、多分ファンタいっぱい持って来るんじゃない?」
「なるほどな。それで飯と飲み物は確保できる、ってワケか」
 青学を全国大会へと導いた3年生元レギュラーたちの会話を、柳は呆然と聞いていた。二人だけで甘いホワイトデーを過ごそう、という彼の野望はすでにもろくも崩れ去っていた。
「……ちょっと待て、貞治。ということは何だ、青学の連中がことごとくここに来る、ということか?」
「うーん、この調子だとそうなるな。あ、そうだ。ついでだから海堂も呼ぼう。グラスが足りないから、ついでに買ってきてもらって……」
 呑気にそう言いながら、乾は部屋に戻って海堂に電話を入れて戻ってきた。
「海堂も来るって。来る途中にコンビニに寄って、ロックアイスと使い捨てのコップと、紙皿を買ってくるように言っておいたよ」
「さすが乾だな。これでタカさんが来ても、越前たちが来ても大丈夫だよ」
 桜の季節にはまだ早いが、さながら宴会の様相を呈してきたことに、柳は心の中で頭を抱えたい気分だと思っていた。
「貞治……」
「何、蓮二?」
「お前、そんなに大勢の人間にチョコの味見をさせたのか?」
「だって、せっかく買った材料を無駄にするのももったいないだろう? だから、味見を兼ねて皆には食べてもらったんだ」
 小声で交わした会話は、すぐそばにいた不二に聞き取られていた。
「僕達、家族で食べてって何個ももらっちゃってね。乾が作ったチョコ、美味しいって姉さんも母さんも言ってたんだ。このパイも、お礼に持って行け、って言われてね」
「俺もだ」
「俺もぉ、姉ちゃんや兄ちゃんに全部取られそうになっちゃって。死守したんだもんにゃ」
「俺も、妹に取られそうになって大変だったんだよな」
 不二の言葉に、手塚も菊丸も大石も同意する。
 全員にお茶が行き渡ったところで、ちょうどタイミングを計ったようにまた乾宅のインターホンが鳴った。
 次にやって来たのは、越前と桃城。二人とも相手が起きるのが遅かったのだ、と責任を擦り合っていた。
「桃先輩が起きるの遅いんすよ」
「そういう越前だって、待ち合わせの時間に起きたって言ってたじゃねーか」
 越前は菊丸の予想通り、ファンタの1.5リットルペットボトルを4本。桃城はウーロン茶やコーヒーのペットボトルを持参していた。
 その二人が下級生ということでフローリングの床に腰を下ろしたところで、またインターホンが鳴り響く。やって来たのは、朝も一度やってきた海堂だった。手には、乾に指示されたとおり、コンビニで仕入れた物を提げている。
「やぁ、海堂。2度も来てもらって悪いね」
「別に…構わないっすよ」
 海堂が床の空いている場所に落ち着いたら、今度は河村が実家の寿司を持って現れた。握り寿司と散らし寿司、それぞれ十分な量があった。
「いつも悪いね、タカさん」
「いいって。乾にはいつも世話になってるし、チョコも食わせてもらったし。それに、いい練習になるからて、親父もさ」
 かくして、全国大会を戦った青学のレギュラーたちに柳が加わる、という妙な取り合わせでの宴会が開始された。


 全員に飲み物が行き渡って、いざ乾杯!となった時。
 これで全員揃ったのだろうと思われた宴会に、更なる珍客が現れた。
「久しぶりだね、乾。うちの参謀がいつも世話をかけているみたいだけど」
 訪ねてきたのは、立海大附属の元レギュラーたちだった。
「やぁ、立海の幸村じゃないか。体の具合はもういいのかい?」
「うん、おかげ様でね。再発も再燃も、心配ないみたいだよ」
 モニターの向こうで柔らかく微笑する幸村の後ろに、3人少年がいることに乾は気づいた。
「そうか、それは良かった。あれ、真田や仁王、柳生もいるんだ?」
「邪魔じゃったかのぉ?」
「手ぶらでお邪魔するのもどうかと思いまして、差し入れなども持参しているのですが」
「蓮二もそこにいるのか?」
「うん、いるよ」
 受話器越しに頷いて、乾はロビーの鍵を解除して宴会の輪に戻ってきた。
「精市たちが来たのか?」
「うん。4人ばかりね」
 かくして、乾宅の13帖あるダイニング・リビングの一角に、それなりに体格のいい中学生男子が14人も座り込む、という暑苦しいことこの上ない図が展開されることとなった。全員がフローリングの床に座り込むだけのスペースがなかったために、ソファやテーブルは移動させてある。
「お邪魔してしまって、悪いね」
「手ぶらで邪魔するのもどうかと思ってな。サンドイッチや惣菜を何種類か買ってきた」
「あ、ホントだ。これだけの人数でも食べきれるかなぁ。ありがとう」
 穏やかな微笑を浮かべる幸村と、手塚と張るくらいのむっつり無表情の真田が、乾にスーパーの大袋を2つ3つと手渡していく。鳥のから揚げや餃子、シュウマイにポテトサラダに…とパーティーさながらの惣菜が河村持参の寿司の中に入って、豪華な宴会料理が勢揃いした。
「ついでに、参謀が飲みたがるんじゃねぇかと思ってお茶も買ってきたで」
「あと、今日は用事があって来られないという桑原君や丸井君、切原君からこれを…ということで、ホワイトチョコのホールケーキです」
 仁王と柳生も、持参した食物を乾に手渡した。
「全員揃ったようだな。ならば、改めて乾杯といくか」
 手塚の仕切りで、後から加わった立海メンバー4人にもファンタや緑茶や紅茶入りのカップが手渡され、改めて全員で乾杯、と宴会は始まった。
「それより、お前達はいったい何をしに来たんだ」
 並んだ料理をひとしきり味わった後で、柳は瞼を閉じたままで不機嫌そうな顔をして、真田や幸村たちに話しかけた。すると、幸村は何を今更?という顔をして聞き返してきた。
「何って…今日はホワイトデーだよね、柳?」
「それはそうだが?」
「バレンタインの時にお前、乾が作ってくれたとか何とか言いながら、俺たちにさんざん自慢した挙句にチョコを味見させてくれたじゃろうが」
「確かに、一人1個ずつ食わせてやったが。それがどうかしたのか」
 平然と言い返す仁王に、柳はだから何だとばかりに言い返す。
「チョコレートを食べておいて、何のお礼もしないというのは失礼に当たりますからね」
「我が立海の精神にも反する」
 柳生と真田にまくし立てられて、柳は絶句した。
「それに、お返しといえば、相場は決まってるからね。何と言っても……」
 幸村が言いかけた時、その場にいた乾と柳以外の全員が口を揃えた。
「ホワイトデーには3倍返し」
「だろ?」
「でしょ?」
「だ」
「っす」
「じゃろ?」
「…………」
 異口同音のその言葉に、乾は呆然と口を半開きにしたまま固まってしまい、柳は握った拳を怒りでふるふると震わせていた。
「ホ…ホワイトデー? 3倍返し? ふざけたことをほざくな!」
「それに、そうやって乾の前で相好を崩す柳なんて、そう何度も拝めるものじゃないしね」
「ホワイトデーだからって、乾を独り占めなんてさせないよ、柳君」
「独占禁止法発令だにゃ!」
 立ち上がって叫んだ柳に、幸村と不二と菊丸が天使のような悪魔の微笑を浮かべる。見た目は笑顔だが、「何か文句あるの?」という無言の圧力が柳にかかっていた。
「蓮二、蓮二」
 そのまま立ち尽くしてしまった柳に、隣にいる乾がズボンの裾を引いて小さく呼びかけた。
「なんだ、貞治?」
 それまでの怒りはどこへ?と言いたくなるほどに、乾を呼ぶ柳の声は柔らかかった。
「とりあえず、幸村と不二には逆らわない方が身の為だと思うよ?」
「……そのようだな」
「さすが、賢明な判断だな、乾」
 元部長権限で乾の右隣をキープしていた手塚が、もっともだと頷いていた。


 乾の家に集まったテニス部員たちは、存分に食べ、飲み、しゃべり。
 柳と乾が再び二人きりになった時には、もう外は暗くなっていた。
「やれやれ、今日は千客万来な1日だったな」
「珍客の間違いだろう」
 乾の言葉を、柳がすかさず訂正する。あれだけの人数がいたわりには、まだ二人が夕食として食べるに足りる料理が残っていた。
「まぁ、いいじゃない。おかげで、俺たち今日は家から一歩も外に出てないのに、こうして昼飯にも晩飯にもお茶菓子にも困る必要なかったんだから。まぁ、立海の連中まで家に来るなんて、想像してなかったけど。……嬉しい計算違いだったな」
 使い捨ての紙皿やコップを入れた袋の口を縛りながら言われた言葉に、柳はふと引っかかるものを覚えた。
「貞治……」
「何だい?」
「お前、青学の連中にさんざん味見をさせたのは、今日のこの事態を予測して、計算した上での行動だったのか?」
「さぁ、どうだろうね?」
 柳の問いかけは、ミステリアスな微笑と話の矛先を逸らすことで煙に巻かれてしまった。
「それより、幸村ってちゃんと話をしたの、今日が初めてだったんだけど。何だかうちの不二が手塚になったみたいな性格してるよね」
 明日も学校があるし遠いから、と立海の4人は青学の面々より先に帰宅した。その別れ際、幸村は柳に向かってこう言ったのだ。
(柳、ほどほどの時間には帰るんだよ。明日、卒業式の予行演習だけだからってサボっちゃだめだからね。ちゃんと出て来なかったら、グラウンド300周と素振り1500回だから、そのつもりでね?)
 不二を思わせる穏やかで柔らかい微笑を浮かべながら、口から出てくるのは手塚の上をいく厳罰だったのである。
「貞治……それは誉め言葉になっていないぞ」
 乾の言い方は確かに言いえて妙なのだが、柳は思わず軽く眉間を押さえた。
「そうかな?」
「そういえば、ごたごたしていてすっかり渡し損ねてしまっていたな」
 残っていた緑茶をペットボトルから注いだグラスを手に、柳はようやく元の位置に戻したソファに落ち着いた。
「渡すって、何を?」
「ホワイトデーのお返しだ」
「ああ、なるほど」
 前日から一緒にいるのだが、お返しのプレゼントを渡すのは14日になってから、と思っていた柳はまだ乾にそれを渡していなかった。
「遅くなってしまったが、受け取ってくれ」
 柳は乾の部屋に置いているバッグから、綺麗にラッピングされた包を取り出して、乾に手渡した。長方形のそれは、触ってみると少し固い。
「開けていい?」
 尋ねる乾に、柳は黙って頷いた。
 包装紙を丁寧に取り去ると、平らな箱が現れる。箱を開けると、中から木製のシンプルな写真立てが出てきた。
「写真立て……」
「食べ物は、後に残らないからな」
 今日乾の家に押しかけてきた連中が持ち込んだ食べ物の数々は、ありがたかったが今はその大半が集まった面々の胃袋の中に消えている。
「お前の部屋に、小学生の時に撮った写真があるだろう?」
「ああ」
 二人で出場するのは最後になってしまった大会で優勝して、月刊プロテニスの記者に撮ってもらった写真だった。
「それには、中学に入ってから二人で撮った写真を入れて飾ってくれ」
「わかった。ありがとう」
 写真立てを手に、乾はふわりと微笑した。
「………貞治」
 そっと呼びかけて、柳は唇の端を微笑の形に引き上げた。そして両手で乾の頬を優しく包み込んだ。
「そういう顔をされると、帰りたくなくなるな」
「でも、明日学校サボったらグラウンド300周と素振り1500回が待ってるんだろ?」
「朝早い時間の電車に乗れば、問題ない」
「おじさんとおばさんには、どう言い訳するつもり?」
「昼間テニスコートで偶然一緒になった連中のデータを整理するのに時間がかかるのだ、とでも言っておく。全国クラスの選手が6人も7人も居合わせたのだ、とな」
「……まるっきり嘘ってわけじゃないけどね、それ」
 悪巧みを持ちかけてニヤリと笑う柳につられて、乾もクスクスと笑い出した。
「バレない嘘をつくには、真実を半分ほど織り交ぜておくものだ」
「本当に策士だね、蓮二は」
「お互い様だろう、貞治?」
 どちらからともなく唇が重なって。
 二人の笑い声は吐息に溶けた。


Fin

written:2004.3.14

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