決戦の前

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決戦の前



 ダブルス1を終えて、立海大附属は2連勝して優勝に王手をかけた。優勝が決まるかどうかのシングルス3に臨む直前、少し離れた青春学園ベンチに座る乾を柳は横目で窺った。
 乾の手には、古くて分厚いノートがあった。立海の応援団による盛大な歓声も、その耳には入っていない様子だった。ただ視線をノートに注ぎ、試合への集中を高めている。
 乾の手にあるそのノートが何なのか、柳にはわかっている。
 小学生の頃、同じテニススクールに通っていた頃から、柳のデータを記録し続けてきたノートだ。
 手垢で汚れ、角が折れ、破れた場所をテープで修復したそのノートの表紙に書かれている文字も、柳は明確に思い出すことができる。

 『マル秘 べっさつ柳ノート』

 そのノートを作った時、乾はまだ『別冊』の漢字も知らず、『柳』の字も『卯』の左側のはらいが微妙に短くて妙な字になっている。
(お前、いい加減にその誤字は書き直したらどうだ?)
 三度ほど見かねてそう言ったのだが、乾は直そうとしなかった。
(いいじゃない。『別冊』も漢字で書けないような頃からずっと、蓮二のデータを取り溜めてきたっていう証拠なんだから)
 妙なところでマメさを発揮するくせに、意外と不精なところがある乾に、柳は思わず苦笑したものだ。
 そして同時に思い出す。
 乾が小学生の頃、漢字をなかなか覚えられなくて苦労していたことを。それを言うと、いつも乾は苦笑して言い返してきた。
(そういう昔の話を蒸し返さないでくれるかなぁ、蓮二)
(算数のテストではいつも100点を取っていたお前も、漢字の書き取りだけは悪かったからな。忘れようとして、忘れられるものではないだろう)
 逆にそう言い負かしてやると、乾は決まって「蓮二は意地悪だ」、と拗ねるのだ。そんな拗ねる顔も可愛らしくて、ついつい柳はからかってしまう。
 物心つく前から側にいて、一緒にテニスを始めて、一緒に強くなって、一緒に大会に出て優勝して。
 別々の中学に進学してからしばらくして、「ただの幼なじみ」から「恋人」へと関係を変えて、会う回数は減ったけれど、心は誰よりも側にいる相手。
 その彼と、これから真剣勝負をする。お互いのチームの優勝をかけて。
 立海も青学も、どちらも部長を欠いている。チームから離れた場所で試合の行方を案じている彼らのためにも、負けられない。
 この決勝戦は、ただの試合では済まないのだ。
 この試合で柳が勝てば、立海大附属の関東大会17連覇が決まる。
 そして乾が勝てば、青学は優勝への望みを繋ぐことになる。
 お互いの手の内は、わかっている。乾があの分厚いノートで柳のデータを蓄積し続けてきたように、柳の頭の中にも乾に関する膨大なデータが記憶されている。
 クセも性格も、何もかも知り尽くした相手との対戦だ。勝ちたい、という気持ちがより強い方が試合を制することになる。
「俺は負けないよ、蓮二」
 決勝戦が始まる前、大会の時にはいつも二人で会っていた場所で、乾は静かに、だが力強く言い切った。
「蓮二のことは誰よりも好きだし、大事に思ってる。だからこそ、俺は蓮二に勝つ」
 そう話す乾を、蓮二は綺麗だと思っていた。
「立海は強いけど、俺たちは負けるためにここに来たわけじゃないからね。俺個人としても、青学としても、負けない。たとえ勝つ確率が低くても、データは生き物だ。俺はそのデータを覆してみせる」
 日頃冷静沈着で、闘志や感情をあまり表に出さない乾が、全身に闘志を漲らせているのがわかった。柳に好きだと告げるその唇で、柳を倒すと宣言する乾が愛しいと柳は思った。
 だが、愛しいからこそ。
 柳もまた、全力で乾を倒す。そう思っていた。
「お前が自らのデータを覆すというなら、俺はその上を行ってお前を突き放す」
「望むところだよ」
 分厚いレンズの奥の目が、獲物を狙うハンターのような輝きを帯びて柳を見据えていた。ラケットを手に立ち上がりながら、柳はそれを思い出していた。
 立ち上がった柳に合わせるように、青学ベンチから乾が立ち上がる。試合中にも思い返すために、柳のデータを記したそのノートを置いて、ラケットを手に取る。
 筋力を鍛えるために、と日頃から外さないパワーリストは、今はその手にはない。恐らく、足につけているパワーアンクルも外しているだろう。
 もちろん、柳もそれを外している。
(貞治……俺のデータとお前のデータ、どちらがより優れているか。この試合でわかる)
 そして、そのデータを打ち破る力を持ち合わせているかどうかも。
(見極めさせてもらうぞ。本気の試合で見せる、お前の強さを)
 ネットを挟んで、柳は乾と向き合った。
 そして、柳は聞いた。乾が、強いと認める相手と対峙する時に呟く口癖を。
「データは集まった」 
 まっすぐに自分を見つめてくる乾を、柳も見据えていた。


Fin

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