sweet poison1

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「お待たせ致しました。牛フィレ肉のパイ包み焼きでございます」
 前菜から始まって、スープに魚料理に続いて出された料理に、乾は軽くため息をついた。
「こちらのお料理は……」
 料理について説明してくれるギャルソンの言葉を、乾は全く聞いていなかった。
 テーブルにズラリと並べられていたナイフやフォークも、一組しか残されていない。それを一度手に取って、パイにナイフを入れようとして、乾はそのまま皿の上にそれを置いた。
「どうした? もう満腹になったのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
 一つ一つの料理が出されるペースが比較的ゆっくりしているために、満腹でもう食べられない、といった状態ではない。大食漢というわけではないが、育ち盛りの乾にとってはまだ十分余裕を持って食べられる量だ。
 だが、次々に出される料理はどれも手が込んでいて、素材も申し分ない物ばかりで。もちろん、味も素晴らしいものばかりで。明らかに、一皿が最低でも4桁後半、あるいは5桁はするのではないか、と乾は思っていた。
 誕生日や、何か特別な日というわけでもないのに口にする料理ではない、という感覚が乾を支配していて手を出すことが躊躇われた。
 それだけではない。
 今自分が身に着けている服も、ファッションには疎い乾でさえ、その名を知っているブランドの物だ。シャツにネクタイにスーツに靴に、胸のチーフ。全て合わせたら何十万円もする物を、目の前にいる人物は普段着でも買うような感覚で買い求め、乾に着替えさせた。
(こんな物をいただくわけにはいきません)
(お礼に、今夜は私の言うとおりにする、ということを承諾したのは君だ。その私が君に着せたいと思っているのだ。黙って受け取ればいい)
 今身に付けている物一式を買い揃えるために入った店で交わされたやり取りを思い出して、乾は再び軽くため息をついた。
 いつもは分厚いレンズで顔を覆っている眼鏡も、今は外している。代わりに、使い捨てのコンタクトレンズを入れるようにと指示されて、乾は言うとおりにしている。
 着慣れないものを着て、慣れないコンタクトレンズを入れて、生まれて初めて食べるような料理を次々と口に入れて。
 まるで自分が自分ではないような、そんな違和感を覚えていた。
 だがそれを口にすれば、目の前にいる人物はまた言うに違いないのだ。
「君が気にすることではない。私が好きでやっていることなのだからな」
 と。
「口に合わないようなら、別の料理を持って来させるが、どうする?」
 目の前に置かれた肉料理にも、サラダにも手をつけず、パンにも手を伸ばそうとしない乾を見て、彼はそう尋ねてきた。
「……いただきます」
 いくらなんでも、そんなことをさせるわけにはいかない。店の人にも、彼にも。
(この人に助けてもらったのは有難いけれど。まさか、こんなことになるとは思わなかったな)
 乾は心の中で苦笑して、ナイフとフォークを取ってパイにナイフを入れた。


 何となく手持ち無沙汰で、家にいるのも落ち着かなくて。人のいる所に行こう、と繁華街へ出てきたのは黄昏時だった。
 ぼんやりとしてブラブラと歩いているうちに乾は、お世辞にも品がいいとは言いがたい、怪しげな店が立ち並ぶ界隈へと足を踏み入れてしまっていた。
 これはマズイな、と気づいた時には、乾は3人の男に囲まれていた。
 身長は皆、乾より低い。そしていかにも頭の悪そうな男たちだった。
「彼氏、一人? だったら俺らと一緒に遊ばねぇ?」
 一緒に行ったとしても、この連中に弄ばれるのがオチだな。と乾は冷静に分析していた。この連中の目的は自分と一緒に遊ぶことではなく、自分で遊ぶことなのだ、と。
 男たちは何とかして乾を誘い出そうとあれこれ話しかけてきていたが、乾は全く聞いていなかった。
(相手は3人か……下手に刺激して喧嘩沙汰になった場合、多勢に無勢だな。ということは……)
 作戦を練っていた時、男たちの後ろから声をかける人物がいた。
「私の連れに何をしている?」
 低くて響きのいいバリトンには、乾は聞き覚えがあった。
「な、何だよ…こいつ」
「遊び相手が欲しいなら、他を当たってもらおうか」
 彼は乾に絡んでいた男たちを振り払うように近づいてきて、乾の腰に腕を回して引き寄せた。嫌味ではない程度につけられた品のいい香りと、仕立てのいいスーツの上質な生地が乾を包み込んだ。
「待たせてすまなかったな」
 乾の腰に回した腕はそのままに、もう一方の手で彼は乾の顎を捉えてそっと上向かせた。そして男たちを睨みつけていた鋭い目つきはどこへやら、といった甘い視線を乾に向けた。
「行こうか」
 腰に回された腕が、促すように動く。乾は素直に頷いた。
「はい……」
 乾を男たちから解放して歩き出した彼は、男たちの視界から自分たちが消えたのを確認すると、ようやく乾の腰に回していた腕を外した。
「あの…助けて下さって、ありがとうござました。榊先生」
 腕が外されたのに気づいて、乾は立ち止まって頭を下げた。
 顔を上げると、見覚えのある彫りの深い顔が乾を見下ろしていた。
関東大会の初戦で、乾が所属していた青春学園と激しい死闘を繰り広げた氷帝学園の監督、榊太郎だった。
負けた選手は二度と使わない、と言われるほど勝利へのこだわりを見せる彼はすでに、男たちから乾を連れ出すために見せた甘い視線を消していた。
「ここは子供の来る所ではない。何をしていた?」
 有無を言わさぬ口調で詰問するように尋ねてくるそれに、乾は逆らわずに答えた。男たちに絡まれるまでに至った経緯を。
「……そんな理由でこんな所に入り込むとはな。それでも、参謀として青学を全国優勝に導いた選手か、乾?」
「すみません」
 呆れたような口調で話す榊に反論することもできず、乾はうなだれた。
 全国大会が終わり、2学期が始まってからは部活も引退し、急に自由になる時間が増えた時。それまで部活に明け暮れて、毎日遅くまでトレーニングに励んだり、データ分析と整理に取り組んだり……という生活が崩れたことで、乾は途方に暮れた。
 何かをしていなければ、落ち着かない。けれどトレーニングのためにランニングに出ても、データ整理のためにパソコンを立ち上げても。張り合いがなくて、すぐに飽きてしまう。
 そんな状況を何とかしようと、気分転換にいつもより大人びた服を着て、街へ出て来たところを絡まれてしまったのだ。
 榊に情けない、と避難されても口答えもできなかった。
「まぁいい。君は私の教え子ではないからな」
「いえ……先生が通りかかっていなかったら、どうなっていたかわかりませんでした。本当に、ありがとうございます」
「それがわかっているなら、今日のところは見逃してやる。二度とここには来るな」
「はい」
 もう一度頭を下げて、榊から離れようとした時。ぐぅ、と乾の腹の虫が鳴いた。
「あ……」
 あまりのタイミングの悪さに、乾は思わず頭を抱えてしまいそうになった。
 考えてみれば、家にいても食欲がなく、こうして外に出てきたものの、やはり何も食べる気にはなれずに歩いていたのだ。男たちに絡まれて、解放されて安心したことで食欲を自覚するようになったとしても、不思議なことではなかった。
「何も食べていないのか」
「はい……食欲が、なかったので」
 それに続けて考えていたことを話すと、榊は苦笑するように表情を崩した。
「コートの上ではあれほど冷静だったというのに、意外と抜けているところがあるようだな、君は」
 もっともまだ15歳なのだから仕方ないが、と続ける榊に、今度は乾が苦笑した。
 制服を着ていなければ、乾は中学生に見られることはない。ましてや今夜は、柄のついたシャツにジャケットを羽織り、下半身もGパンではなくコットンパンツ、といった様相だ。未成年に見られないように、と計算しての服装が裏目に出た形になってしまった。
「反省しているようならば、私への礼代わりに付き合ってもらおうか」
「榊先生?」
「私も夕飯はまだなのでな」
「でも、俺はあまり持ち合わせが……」
 ブランド名まではわからなかったが、一見してどこかの有名なブランドの高級品だとわかるスーツをサラリと着こなして、高価だと思われる香水を身につけている榊のことだ。夕飯を食べに行く、と言ったらどんな高級料理店に連れて行かれるかわかったものではない。
 財布の中身を心配する乾を見て、榊は少し機嫌を損ねた様子で叱るように言った。
「私は、中学生に食事代を払わせるような非常識な男ではない」
「すみません」
「何を心配しているかはだいたい想像がつくが、君がそんなことを心配する必要はない」
「はい」
「これから私がすることに逆らわず、言うとおりにする。それが、君の私への謝礼だ。いいな」
 榊の言葉は、有無を言わさない迫力があった。乾は黙って頷いた。


 その出会いは、本当に偶然がもたらしたものだった。
 仕事が早く終わり、行きつけになっているフランス料理店へ久しぶりに顔を出そう、と黄昏にまぎれるように街に出てきた榊は、見覚えのある顔を見つけた。
 夏に行われた男子テニスの関東大会と、全国大会において、榊が監督を務めている氷帝学園中を下した青春学園の選手の一人、乾貞治だった。
 選手には常に勝利を要求する榊にとって、乾は意に沿った選手とは言い難かった。だが、勝利への強い執着心と、誰よりも冷静に試合を見、短期間で情報を収集して分析し、相手を倒すための作戦を構築し、敵も味方も騙して試合のペースを手中に収めるその手腕には、榊も一目置いていた。
 全国大会が終わり、秋になって。榊が教えている氷帝の選手たちがそうであったように、乾もまた、全てを後輩に託して部活を引退し、次なるステップへ向けて努力しているはずだった。
 その乾が何故、ここにいる。
 身長が高く、表情を隠す四角い黒縁眼鏡をかけていることで目立つ乾を、榊は思わず目線で追い、後姿を追った。
 落ち着いた色合いのコットンパンツに、柄の入ったシャツ。その上から羽織ったジャケット。
 そんな姿の乾は、傍目にはとても中学生には見えない。もちろん、彼もそれを計算した上でそのような格好をしているのだろう、と榊は思った。完璧なシナリオメイクで、大勢の観戦者や対戦相手はもちろんのこと、榊まで騙されそうになったほどの計算高さを見せる乾のことだ。間違いないだろう、と榊は判断していた。
 榊の目には、乾は享楽と物欲にまみれた雑踏に染まらない存在のように映っていた。乾との距離を詰めて、榊は不意に納得した。
 乾の目は、周りを見ているようで見ていない。視界には入っているが、認識していない様子だった。ひどく虚ろで、雑踏の中を歩きながらもその意識は内なる自分へと向けられているようだった。
 その乾が、急に方向を変えた。
 恐らく何も考えず、曲がり角があったから適当に曲がってみたのだろう。
(あそこは……)
 乾の姿が決して広いとは言えない道幅の通りへと消えていくのを見て、榊は眉間に皺を刻んだ。
 乾が曲がっていった通りは、柄がいいとはとても言えない所だ。通りの両側にはパブやクラブや性風俗の店が立ち並び、それ相応に頭も素行も悪い連中も多い。
 榊がその通りに入った時、乾は案の定、いかにもといった3人の男たちに囲まれていた。
 分厚いレンズに隠されていて一目見ただけではわからないが、乾は整った顔立ちをしている。高い身長と、テニスで鍛え上げられた均整の取れた体は、彼らには格好の餌食に見えたことだろう。
 妙な連中に絡まれて、困惑しているのではないかと思いながら榊は乾を見た。
(これは……――なるほどな、面白い)
 遠目から見た乾の表情には、困惑の色など浮かんでいなかった。自分が今置かれている状況を冷静に分析し、どう打破するか。考えている目だった。榊の生徒たちとコートの上で戦っていた時のような顔をしていた。
 そのまま乾がどう男たちを交わすのか、見届けるのも一興だと榊は思った。だが、相手が一人ならまだしも、3人ではさすがの乾でも難しいだろう。ましてや、相手は全く気づいていないようだが、乾はまだ中学生だ。
 教え子ではないが、全く知らない相手というわけでもない。こうしてすれ違ったのも、何かの縁なのだろう。
 榊は男たちに気づかれないように背後に回り、声をかけた。
「私の連れに何をしている?」
 明らかに機嫌を損ねているといった声を出し、乾に絡んでいた男たちを睨みつけた。意識的に、侮蔑の色を浮かべて。
「遊び相手が欲しいなら、他を当たってもらおうか」
 見たところ、乾をどこかへ連れ込んで3人で嬲るつもりだったようだった。ならば……乾を連れ出すのは簡単だ。榊の情人だと思わせてしまえばいい。
 榊は男たちを払いのけるようにして乾の方へ進み出た。愛しい者を見るように目を細め、腰に腕を回して抱き寄せた。
 あまり体温の高くないほっそりとした体が、何の抵抗もなく榊の腕の中へと倒れこんできた。
 鍛えているから筋肉はついているのだろうが、見た目以上に細い。
 榊は乾を支えるように、腕に力を込めた。
「待たせてすまなかったな」
 ベッドでの睦言を思わせるような甘い響きを乗せて、榊は乾に囁きかけた。ついでに、片手で乾の顎を捉えて自分へと顔を向けさせる。
 男たちには、待ち合わせに遅れて来てみたら情人が見知らぬ男に話しかけられていて、軽く嫉妬しているようにも見えただろう。
「行こうか」
 腰に回した腕で、榊は乾を半ば強引に促した。
「はい……」
 乾は、逆らわずに歩き出した。
 二人を舐めるように通り過ぎていった弱い風が、乾の決して強くはない汗と体臭とシャンプーの香りが混ざった微かな匂いを、榊の元へと届けた。密接したこの距離でなければ、わからないほどのそれを。
 明晰な頭脳、どんな時でも己を曲げることのない真っ直ぐな精神、強い上昇志向とそれを実現させるだけの努力と忍耐力を持ち合わせた心。
 それが宿っているとは思えない、頼りなさすら感じさせる細い体。
 それらは、こうして近づいてみなければ、気づくはずもなかったものだ。
 成長途中で、成熟した部分と未熟さを併せ持つ不安定な乾の匂いが、凪いだ水面にさざ波が立つように榊の本能を刺激した。
 このまま手放すのは、惜しい。
 男たちの視界から完全に乾を切り離し、追ってこないことを確認した上で乾を叱りながら、榊は思った。つなぎとめるのは容易なことだった。妙な男たちに囲まれて困っていた乾に、助けた榊。主導権は自分にある。
(教え子でないということは、幸運だったな)
 更に幸いなことに、絶妙なタイミングで鳴った乾の腹時計を聞いて、榊は心の中だけで微笑した。
 これで、乾をつなぎとめるに足る十分な口実もできた。
 榊は乾を夕食に誘った。自分と榊の立場や財力の差を自覚して戸惑う乾に、榊は逃げ道を用意してやった。
「これから私がすることに逆らわず、言うとおりにする。それが、君の私への謝礼だ。いいな」
 榊への謝礼ということにして、全て受け入れてしまえ。
 逃げ道であると同時に退路を断つ意味でもある誘いに、乾は黙って頷いた。


 助けてもらったお礼に、今夜は榊の言うことに逆らわず、言うとおりにする。
 それを承諾したのは他でもない、乾だったのだが。
(まさか、食事をすると言ってブランド店に連れて行かれて、その場で着替えさせられた上に、一流ホテルのレストランに連れて来られるとは……俺のデータでは計れないな、この人は)
 パティシエが趣向を凝らしたデザートも全て腹の中に収めて、食後のコーヒーも終えた後。榊はホテルの最上階にあるバーに乾を連れ出した。窓から見る景観を売りにしているそこは、席が全て窓に向けて置かれている。乾は榊と隣り合わせで、窓に映る自分と榊の姿と、その姿越しに見える眼下の街並みを眺めていた。
 家には、友達の家に泊めてもらうと電話をした。榊が友達の親だと偽って電話に出ると、母親も納得した様子で乾の外泊を許した。
(もう夜も遅いですし、貞治君は責任をもって私が預かります)
 母親に話した榊の言葉に嘘はない。だが、母親は夢にも思わなかっただろう。乾がいるのは友達の家ではなく、都内でも有名なホテルだということも。榊が友達の親などではなく、乾にブランド物の服を着せて高級な料理を食べさせて、連れまわしている張本人だということも。
(さすがに、あの氷帝の顧問というだけはあるな。とんだ食わせ者だ)
 乾は心の中で呟いて、そっと隣にいる榊の姿を窺った。
 榊は窓の外を眺めながら、バーボンのロックで満たされたグラスをゆっくりと傾けて中身を干した。そして絶妙のタイミングで通りかかったウエイターに2杯目をオーダーした。
 乾の目の前には、榊が選んだノンアルコールのカクテルが置かれている。アルコールが入っていないとはいえ、ほんの少し大人の味がするそれを口にして、乾は考えていた。
 氷帝学園は、都内でも有名なお金持ち校だ。
 通っている生徒の大半は、家柄がいいか、あるいは豊かな財力があるか、その両方を持ち合わせている家に生まれ育っている。
 そんな学校で教師をしている榊もまた、金を湯水のように使える立場にある、ということを乾はまざまざと見せつけられていた。
(俺みたいな庶民には、想像もできないな)
 高級な服を普段着として当然のように身にまとい、高級な料理を平然と口にする。そんな榊を見ていると、自分が服に着られた状態で場違いな所にいる、ということを思い知らされるようだった。
「よく似合っているな」
 グラスを揺らし、氷とグラスがぶつかる軽やかな音をさせながら、榊が呟くように話しかけた。BGMとして流れている密やかなジャズの響きに紛れるような小さな声がよく聞き取れずに、乾は横にいる榊を振り仰いだ。
「え……?」
「そのスーツだ。私が見立てたとおり、君によく似合っている」
「そうですか?」
「気に入らないのか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
 反射的に聞き返した乾に、榊が尋ね返してくる。乾は一瞬口ごもって、思っていることをそのまま伝えた。
 いつもなら立て板に水のごとくスラスラと話す乾が、今日は口ごもり、ポツリポツリと言葉を紡いでいた。
「気後れしている、というわけか。そんな必要はない、と何度も言っているはずだが。私の言葉は信用できないか?」
「そう…かもしれません」
「どんな宝石でも、磨かれる前の原石に輝きはない」
 バーボンを一口飲んで、榊はグラスをテーブルに置いた。
「宝石は磨かれて初めて輝きを放ち、見る者を魅了する。君はその原石、といったところだな」
 乾はとても磨き甲斐のある原石だ、と榊は続けた。
「石を磨くのはかなり骨の折れる作業だが、自分の手によって石が輝きを増していくのを見るのは、何物にも代えがたい楽しみでもある」
「俺には……自分が、そんな風に言っていただけるような人間だとは思えません」
「君はそう思っていなくても、私はそれだけの価値が君にはある、と判断した。先ほどのレストランで、どれだけの人間が君を振り返ったか、気づいていたか?」
「いえ……」
 ジンジャーエールがベースになっている、黄金色のカクテルが満たされたグラスを見つめて俯き加減になる乾の胸のチーフに、榊の手が伸びてきた。少し傾いていたそれを直して、榊は軽く苦笑した。
「自分の分を弁えて謙虚になる、という面は非常に好ましい。が、もう少し自分に自信を持て」
「榊先生……」
 思わず呼んでから、しまった、と思った。
 今夜は榊の言うとおりにすると承諾した時、乾は榊から一つの条件を示された。それは、榊を「先生」と呼ばないことだった。乾は榊を「榊さん」と呼び、榊は乾を「貞治」と呼ぶ。今夜限りの約束事だった。
 案の定、「先生」と口にした乾を咎めるように、榊は乾を見据えてきた。心の奥底まで見透かすように真っ直ぐで、鋭い視線だった。
「君は私の教え子ではない。今夜は先生とは呼ぶな。一度呼ぶごとに、ペナルティを科す。そう言ったはずだな?」
「あ…すみません」
 萎縮する乾の頬に、胸のチーフを直した榊の手が伸びる。軽く触れてきた榊の手は、冷たいようで温かかった。手首にもつけられているのか、夜が更けてきて榊の体臭と馴染んだコロンの香りがふわり、と漂ってきた。
 黄昏時の界隈で、妙な男たちから乾を助け出すためにその胸に乾を抱きこんだ時にも香ってきたそれは、数時間前と比べて甘さと深みが増しているように乾には感じられた。
「貞治」
「はい……」
 呼ばれて、乾はそのまま目を閉じてしまいそうになった意識を戻した。
「君は私を何度、先生と呼んだか…覚えているか?」
「7回、です……」
 回数を数えるのも、それを覚えていることも、乾にとっては得意分野だ。答えると、榊は胸のポケットから煙草を取り出して火をつけた。長い指で煙草を挟み、煙草を吸い込んで煙を吐き出す。それがひどく様になっていて、乾は軽く息を呑んだ。
「なるほど、7回か」
 乾が覚えていたそれを、榊は数えていなかったようだった。
 榊はいったいどんなペナルティを言い出すのか、乾は榊と、榊が吐き出す煙を眺めながら待った。
 会ってからの数時間、榊の行動は乾の想像を越えたものばかりだ。どんなことを言い出すのか、予想もつかなかった。
「貞治……選びたまえ――……」
 そんな前置きをして言い出した榊の言葉に、乾は文字通り固まった。

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