August Basket

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 青春台健康センターの前でバスを降りると、バンダナを頭に巻いてノースリーのTシャツを着た少年が俯き加減だった顔を上げた。
 その表情が一瞬明るくなった。かと思うと、次の瞬間に彼は眉をひそめてしまった。
「なんでアンタが一緒にいるんだよ」
 眉をひそめて睨まれたのは、どう見ても目を閉じているようにしか見えないほどに細い目をした、背の高い少年だった。
「……それが目上の人間に対する言葉遣いかな、海堂君? だいたい、挨拶もなしにいきなり何だ、その口の聞き方は。全く、どういう教育をされてきたのか親の顔が見てみたいものだな」
 真夏の陽射しの下だというのに汗一つかかず、涼しげな表情をして彼はバンダナの少年、海堂薫にサラリと言い返す。その言葉を聞いて、更に身長の高い、分厚いレンズに阻まれてその奥の瞳を伺うことのできない黒縁の四角い眼鏡をかけた少年が呆れたように口を挟んだ。
「後輩の教育が行き届いてない、って暗に嫌味を言っているつもりかい、蓮二?」
「お前に嫌味を言った覚えはないぞ、貞治」
「つーか、俺が誘ったのは乾先輩だけっすよ。なんで柳さんまでくっついてくるんすか!?」
「俺は昨日から貞治の家に泊まっているんだ。貞治のご両親の都合でな。ご両親が戻ってくる明後日まで同じ屋根の下で過ごしているとなれば、共に行動するのも自然なことだろう」
 文句があるなら言ってみろ、と言わんばかりに柳は海堂に言い放った。
 本当ならば、柳が乾の家に泊まっている、という事実そのものにも異議申し立てをしたいところだ。だが乾の両親が言い出したこととなれば、海堂には口出しできない。
 しぶしぶと海堂は黙り込んで、恨めしそうな視線を乾に投げかけた。
「アンタ、そんなこと一言も言わなかったっすよね」
「昨日の朝になって、急に泊まりで出てくるって言い出してね。蓮二に確認の電話を入れた時には、もうこいつは家を出てしまっていたんだ」
 乾の言い訳を聞いて、海堂は思いついたことをつい口に出してしまった。
「……それって、謀られたんじゃないっすか?」
「そうなのか?」
「俺が何か裏工作をしたとでも言うつもりか?」
 海堂と乾の会話に聞き耳を立てていた柳が横槍を入れてくる。
「………」
「当たっているようだな」
 そのまま沈黙した海堂と乾に、柳はご満悦といった表情で言ってのけた。
「とりあえず、中に入ろうか」
 乾は沈痛な面持ちでため息をついて、柳と海堂を促した。
「そうっすね。でも、タダ券は俺と先輩の分2枚しかないっすよ」
「心配せずとも、俺は自分の料金は払って入る」
「当然っす」
 食ってかかっても全く表情を崩さない柳を睨みつけて、海堂は乾に続いて健康センターの自動ドアをくぐった。


 話の発端は、4日前にさかのぼる。
 海堂は父親から、職場でもらってきたという青春台健康センターの無料入場券を2枚渡された。誰か友達とでも行きなさい、そう言われて真っ先に思い浮かんだのは、日頃部活で世話になっていて、特別な思いを寄せている相手でもある3年生の乾貞治だった。乾と二人きりで長時間を過ごせるだけでなく、合法的にその裸を間近で拝むことができる。そんな下心ももちろんあった。
 誘いの電話をかけてみると、乾は二つ返事でOKした。その時には、まさか柳蓮二がくっついてくるとは夢にも思わなかったのだ。
 柳は乾とは幼馴染で、小学生の頃は共にダブルスを組んで数々の大会で優勝し、当時のジュニアテニス界を牽引していたという存在だ。神奈川に引越して乾と別れてからは、全国ナンバー1の立海大附属で1年生の時からレギュラーに名を連ね、全国優勝に導いてきたという男だ。
 乾との関係の深さも、テニスの腕前も、頭の良さも。
 何もかも海堂は柳に敵わない上に、柳もまた、乾に特別な思いを寄せているという非常に厄介なライバルだった。
「なるほど。タオルも室内着も全部用意されてるのか。便利なんだな」
「先輩、初めてなんすか?」
「ああ。あまりこういう場所には来ないからな」
 受付で無料券を渡し、バスタオルやフェイスタオル、それに館内を歩く時に着る室内着など一通りが入ったバッグとロッカーの鍵を受け取って、乾は感心したように呟いた。
「こんな近所にあるというのに、初めてとはな」
「近いからこそ、逆に利用しないことだってあるだろう。そういう蓮二は慣れてるみたいだね」
「時々は広い風呂でくつろぐのも、いい気分転換になる」
 乾の左側に海堂、右側には柳。身長は170センチを越え、それなりに体格もいい中学生が3人も横並びになって通路の半分以上を占領しながら、周りの人間には一向にお構いなしといった様子で3人は男湯と書かれた暖簾をくぐった。
「なんだ、その腰のタオルは。無粋だな」
「るせぇっすよ」
「湯船にタオルをつけるような真似は、慎んでくれ。一緒にいる貞治まで礼儀知らずだと思われるからな」
「誰がンなことするかよ。それくらいわかってるっすよ」
 着ていた服を脱いでロッカーにしまって、浴場へと入っていく。
 海堂が腰に巻いたタオルを見咎めて、柳がここぞとばかりに小言を言ってきた。そんな柳に、海堂は一時的に敬語を忘れていた。
「おいおい、あんまり海堂をイジめてやるなよ、蓮二。俺と違って、お前の厳しい物言いには慣れてないんだからな」
「苛めているとは心外だな。……貞治、お前そのまま入るつもりか?」
 海堂と同じように腰にタオルを巻いて中に入ってきた乾を見て、柳は問いかけていた。
「仕方ないだろう、外すと何も見えなくて危ないんだから」
 乾はその分厚いレンズがはめ込まれた四角い黒縁眼鏡をかけたまま、浴場に入ってきていたのだ。
「そんな心配しなくても、俺がちゃんと教えるっすから」
「何なら、俺が手を引いてやろうか?」
「どっちも断るよ。まったく、幼稚園やそこらの子供じゃないんだから」
 海堂と柳の申し出をあっさりと振って、乾は腰のタオルを取って内湯を浴びた。その陽にまったく晒されていない白い肌と、ほっそりとした腰の線が顕になって、海堂も柳も視線が釘付けになった。特に柳の方は、閉じていると思っていた目がカッと見開かれていた。
「……何ジロジロ見てるんだよ、恥ずかしいヤツらだな。さっさと内湯浴びろよ。そのまま入るのは、それこそマナー違反だろう」
「あ、ああ……」
「……っす」
 乾に軽く睨まれて、海堂と柳は名残惜しげに視線を外してそれぞれに手桶を持って体にお湯をかけた。下半身は特に念入りに、というのが共同浴場でのルールである。
「へぇ、露天風呂に泡風呂が3種類、水風呂にサウナにハーブ風呂ねぇ。いろんな種類があるんだな」
 浴場内の案内板を見ながら、乾が感心したように呟く。
「とりあえず、泡風呂にでも入ってみるか」
 柳はスタスタと歩いて浴槽の底から泡が湧き出ている風呂に入っていった。
「なるほどね」
 乾も柳に続いていく。海堂もその後を追った。
 そこは寝そべって入る風呂になっていて、3人は一人ずつ手すりの間に入って床の傾斜にそって寝そべった。
「うわ、結構深いね。っていうかこうなってるんだ……」
 乾が驚いたような声をあげる。体が浮かないように手すりに掴まって寝転がると、ちょうど肩や腰や足の裏が底や壁面から出てくる泡に当たるようになっていた。
 だが、身長が180センチを越える柳と乾にはこの浴槽は長さが足りないらしい。足を折り曲げていなければ入れないために、膝が水面から出てしまっていた。
「もう少し長さがあれば、ちょうどいい場所に泡が当たるんだが…」
「底だけじゃなくて、壁からも泡が出てるんだね、ここ」
「って乾先輩、眼鏡曇らないんすか?」
「うん、これくらいの湯気なら平気だよ」
 海堂と柳に挟まれて真ん中にいる乾は、自然どちらの言葉にも答えるようになっていた。
「……意外とお湯の温度が高いね、ここ」
「7人しか入れないようになっているからな。回転をよくするために、わざと高めに設定しているんだろう」
 柳が答えるのを聞きながら、乾は手すりに掴まって体を起こした。彼には、このお湯の温度は高かったらしい。
 泡が当たっていた肩の部分がほんのりと紅くなって、白い肌もかすかに赤みが差していた。抜けるような白い背中を、お湯が行く筋も滑り降りていくのを、海堂は思わず凝視してしまった。
(すげぇ……マジで色白いっすよ……)
 40度を少し越えるくらいの温度のお湯に浸かっているためだけでなく、海堂の心拍数が上がっていた。
「ふぅ、ずっと入ってると、肩と背中が痒くなってくる気がするよ」
 乾はため息をついて、そのまま頭を置くようになっている部分を越えて、浴槽の縁に腰をかけて足だけお湯につける格好になった。
 視界の端に入る乾の足も、日頃長ジャージを愛用して短パンをはくことはほとんどないためか、背中や腹に負けないほど白い。
(どっちにしても、心臓に悪いっすよ、乾先輩)
(昔から日に焼けない体質だったが、白雪のような肌は相変わらずだな、貞治)
 海堂は自分の左側を、柳は自分の右側を、チラチラと横目でうかがっていた。
「海堂も蓮二も、よくいつまでも平気で入っていられるね」
「お前がそう言うなら、そろそろ別の風呂を試してみるか?」
「っすね」
 乾がそう言い出したのをきっかけに、海堂も柳も体を起こして、細かい泡があちこちから出ているジャグジー風呂に移動した。そこを堪能したら今度はハーブ風呂に。そしてそろそろ空いてきたようだから露天風呂へ移動しよう、と薬草風呂から上がった時。
「……っ?」
 海堂は軽い眩暈を覚えた。
「どうした、海堂?」
「いや、ちょっと……」
 耳の奥でドクドクと脈打っているのが妙に大きく響く。自分を気遣う乾の声が、どこか遠くに感じられていた。それに頭も鈍く痛む。
「顔色が悪いようだな。湯当たりでもしたか?」
「この様子じゃ、その確率が一番高いな。少し休んだ方がいいぞ、海堂」
 柳にまで心配されて、海堂は乾に促されるままにデッキチェアに腰を下ろした。背もたれがほどほどの角度に倒されているそこに体を預け、腰にタオルをかけて目を閉じて、ふぅ、と深く息をつくと少し楽になった。
「すみませんっした、先輩。俺から誘ったのに、こんな……」
「気にするなよ。ここのお湯、温度がちょっと高いってわかってて、あちこち続けて連れ回した蓮二と俺も悪かったんだから」
「乾先輩……」
 俺に構わず風呂巡りして下さい。そう言おうとして目を開けた海堂は、視界いっぱいに飛び込んできた光景に言葉を失った。
 部活や毎日のトレーニングで鍛えられ、細いながらも均等に筋肉がついていて、真ん中で割れている腹。同様に鍛えられている胸。湯に浸かっていたせいでほんのりと紅潮した白い肌。細い腰のライン。
 目の前に現れたそれを見た瞬間に、抱きしめてしまいたいという強烈な衝動が海堂の背中を駆け抜けて行った。同時に、少し落ち着きかけてきた心臓がバクバクと音をたてて、下半身の一点に血液が集まっていくのがわかった。
(ヤバッ。つーか、こんなトコでサカってどうすんだよ、俺っ!?)
 さすがに、こんな公衆の面前で男の本能を剥き出しにするわけにはいかない。ましてや目の前には乾がいて、薄いタオルが1枚腰にかかっているだけという状態では、変化が起こればたちどころに知られてしまう。
「本当に大丈夫か、海堂?」
 とっさに目を閉じて顔を背けた海堂を、乾はよほど調子が悪いのだろうと誤解して、気遣わしげに声をかけてきた。が、まさか乾の裸を見て欲情しかけました、とは言えない。瞼を閉じても、しっかりと目に焼きついた乾の悩ましげな腰のラインが浮かんできた。
(つーか、この人の裸は心臓に悪ぃっすよ)
 毎日同じ部室で着替えをしているというのに。
 合宿に行って同じ風呂に入ったこともあるというのに。
 至近距離で乾の裸を拝んだのはこれが初めてなのだと、今更ながら海堂は気がついていた。
「飲料水があったから、持ってきたぞ。飲めば少しは楽になるはずだ」
「ああ、ありがと、蓮二」
 こいつさえいなければと毎度思っているのだが、今度ばかりは柳がいて助かった、と海堂は思った。
「これでも飲んで休んでいることだな。その間、貞治は借りていくぞ」
 冷たい水が入った紙コップを海堂に手渡すついでに、柳は海堂を牽制してきた。
「今だけっすよ」
 紙コップはありがたく受け取って、海堂は意地で言い返していた。
 そしてしぶしぶと、海堂は露天風呂へつながるドアを開けて外へ出て行く乾と柳の後姿を見送った。


「ふう、これで邪魔者は消えたな」
 海堂が湯当たりで脱落したのをいいことに、柳は乾を独り占めすることに成功していた。幸いなことに、露天風呂には柳と乾の他には誰もいない。
 二人きりで露天風呂でしっぽり…という柳の下心丸見えの呟きは、乾には聞こえていない様子だった。
「うーん、一人で置いてきちゃったけど、大丈夫かなぁ、海堂」
「幼稚園児ではあるまいし、大丈夫だろう」
「だといいんだけど……」
 言いながら、乾は露天風呂に肩までつかって、けれどすぐに湯から上がって大きな岩に腰をかけた。くるぶしから下の部分だけを湯につけて、足湯状態になってしまった。
「貞治?」
「俺も湯当たりしそうだから」
「なるほど、お前はぬるめの湯が好きだったな」
「うん。ここのお湯、俺にとってはちょっと温度が高いんだよ」
 柳にとってはちょうどいい温度なのだが、乾にしてみれば熱いらしい。
「こういう露天風呂、嫌いじゃないんだけどね」
 ポツリと言いながら、自分と柳の二人しかいないのをいいことに、乾は足を動かしてパシャパシャと水面に波を立てる。水しぶきがあがって、波紋が柳の体や周囲の岩にぶつかって、一部は向こう岸まで広がっていく。
「そういう子供じみたことをするのも、相変わらずだな」
「だって、家の風呂じゃ絶対できないだろ、こういうこと。それに、今は俺と蓮二の二人しかいないんだし、ここ」
 他に誰かいたら遠慮していると言う乾に、柳は自然と微笑がこぼれた。
「後輩の前で、そんな子供っぽい姿を晒すわけにはいかない、か?」
「そんなに肩肘張ってるつもりはないよ、俺は」
 言いながら乾は体をかがめて手を湯に浸し、引き上げて、滴り落ちる水滴が作る波紋を楽しんだ。そんな乾に柳は改めて見入っていた。
(日焼けの跡もほとんど残っていない…綺麗な肌だな)
 毎日外で何時間も練習しているというのに、乾の肌にはポロシャツの跡はあまり残っていない。所謂、テニス焼けというのをしていないのだ。
 二の腕から下がかすかに茶色がかっているだけで、顔も襟元も白いままだ。ましてや、全く日に晒していないと思われる胸や腹、足などは抜けるように白い。
 そんな滑らかな肌の上で、水滴が玉となって太陽の光を反射する様子は本当に綺麗だ、と柳は思っていた。
できることなら、その肌に手を這わせて感触をじっくりと楽しみたい。今は湯で紅潮しているその肌に紅い痕跡を残し、別の方法で昂ぶらせてみたい。
 さっき海堂が乾を見て、目を逸らしたのは気分が悪いからではない。恐らく自分が今乾に対して思っているのと同じ、劣情にその身を任せてしまいそうになったからだ。
 そんなことを考えていると、柳も湯に浸かっているだけではなく、別の理由も加わって心拍数が上がってきた。
「……どうしたんだ、蓮二? 俺の顔に何かついてるか?」
 自分が柳を魅了しているのだとは露ほども思っていない乾が、的外れな問いかけをする。柳は口から滑り出てしまいそうになる下心をぐっと抑えて、適当に誤魔化すことにした。
「綺麗だと思ってな」
「何が?」
「お前が」
「……そういう冗談はよしてくれ」
「冗談で言っているつもりはないが」
 からかわれていると思って真に受けない乾に苦笑して、柳は立ち上がって乾の隣に腰を下ろした。
「試合をした時に随分とパワーがついたと思っていたが……細いな」
「これでもウエイトトレーニングとか、ちゃんとしてるんだけど」
「小さい頃と比べると丸みが取れて、均整の取れたいい体つきになっている」
「それもデータに加えるつもりかい?」
「そういうことにしておくか」
「……?」
 乾の体を至近距離で見ていたい、というのが本音なのだが。柳は都合よく誤解した乾の言葉に同調した。
(俺は貞治の裸を見て欲情しかけてのぼせる、などと愚かな真似はしないが…気持ちはわからないでもないな)
 柳の記憶にあるのは、小学生の頃に同じテニススクールに通い、練習が終わった後でシャワーを浴びる時に見た幼いものだ。思春期を迎えて乾の体からは丸みが取れ、男性らしい体つきになっている。細いにもかかわらず、貧相な感じがしないのは、テニスで体を鍛えて程よく筋肉を付けているためだ。
 このままずっと二人きりで、乾を眺めていたい。
 溢れんばかりの下心に満ちた柳の望みは、どやどやと外に出てきた壮年の男性たち5人によって打ち破られた。
 大音量というわけではないが、それなりに大きな声でうちの嫁がどうの、娘がどうのと家族の愚痴を言い合っているのは聞いていて気分のいいものではない。
 柳と乾は顔を見合わせて、もう一度軽く肩まで湯に浸かって、露天風呂から上がって中に戻っていった。
「海堂、大丈夫かな?」
「そろそろ落ち着いてきただろう。一度上がって休憩室にでも行くか?」
「そうだね」
 デッキチェアに寝転んでいた海堂に声をかけて、柳と乾は3人で連れ立って一度浴場を出て行った。


 休憩室で適当に休みを取りながら、結局3人は外が暗くなるまで風呂を堪能した。
「あーあ、日頃の疲れが取れたような気がするよ。また来ような」
 外に出て伸びをしながらそう呟いた乾に、海堂も柳も心の中で呟いていた。
(今度は絶対に二人きりで来てやる)
 と。


Fin


written:2004.2.22

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