バレキス

| HOME | 乾受け作品集 | バレキス |

banboo.jpg

バレンタインキッス



「悪いけど、しばらくこの部屋から出ないでくれるかな」
 そう言って貞治が出て行ってから、もう1時間近く経っていた。
 立春を過ぎて、建国記念日で休みがあった週の土曜日。俺は貞治の家に呼ばれてきた。
(今度の土曜日、ハル君のご両親出かけるそうなのよ。それで、蓮二に泊りに来てほしいって言われたんだけど、行ってあげてくれる?)
 貞治の母親が俺の母親にかけてきた電話に、俺は二つ返事で頷いていた。親公認で泊りに来られて、かつ二人きりという状況を逃すほど俺は馬鹿ではない。
 俺と貞治は小学校時代にダブルスを組んでいたこともあって、小さい頃から気心の知れた仲だった。俺が引っ越す時に不手際をしてしまったせいで一時期交流は途切れてしまったが、再会した時に何とか挽回して貞治に許してもらった。
 再会してからは時々互いの家を行き来するようになって、貞治はたちまち俺の親に気に入られ、今ではすっかり「ハル君」で通っている。
 そして中学3年に上がる直前に、俺と貞治は幼馴染関係を解消して、恋人になった。
 といっても、俺も貞治も学校や部活、親の都合だってある。だから月に一度会えるかどうか、という遠距離恋愛状態で、二人きりで一晩を過ごすなどといったことも、そう何度もあるわけではなかった。
 だが、今日は。
 誰に気兼ねすることもなく、貞治と二人きりの夜を過ごすことができるのだ。
 それを楽しみに、約束の時間に寸分も違うことなく訪ねてきたのだが。
(ごめん、蓮二。悪いんだけど、ちょっと今手が離せなくてね。これでも見ててくれるかな)
 俺を部屋に通すと、貞治はお茶と茶菓子を置いて、最近行われた全豪オープンテニスを録画したものを流して、そそくさとキッチンへ消えてしまった。
(……どうしたんだ、貞治は?)
 何か手伝おうか、との申し出はあっさりと断わられた。その上、絶対に部屋から出てくるな。出てきたら、今夜は別の部屋で寝かせる。そう俺を脅しつけた。
 貞治にそこまで言われては、おとなしく言う通りにするしかない。
 せっかくの、貞治と二人きりで過ごす恋人同士の甘い夜を、台無しにしたくはなかった。
 のだが……さすがにちょっと心配になってしまう。
 部屋から出るな、とは言われたが。小用を足す、とトイレに立つくらいは見逃してくれるはずだ。
 そう思って立ち上がろうとした時、貞治が部屋のドアを開けて入ってきた。
「一人にしてごめんな、蓮二」
 床に座布団を敷いて座っていた俺と目線を合わせるように、貞治は床に座り込んだ。
「……用事は終わったのか?」
 申し訳なさそうに言う貞治にそう尋ねると、貞治は黙ってコクリと頷いた。
「ごめん、せっかく来てもらったのに」
「気にするな。まだ日も高いし、そう焦ることもないだろう」
 この時間ならまだ、あと24時間は余裕で二人きりの時間を楽しむことができる。
 そう微笑してみせた時、フワリと何やら甘い香りが貞治から漂ってきた。
「貞治?」
「何?」
「何か甘い香りがするな」
「え……そうかな?」
 指摘すると、貞治が一瞬マズイ、という表情をした。がすぐにいつもの飄々としたポーカーフェイスに戻ってしまった。
「お前、俺に隠れて何をしていたんだ?」
「夜になってからのお楽しみだよ。今はまだナイショだ」
 俺の質問は、何か悪戯を思いついた子供のような顔をした貞治によって、煙に巻かれてしまった。
「あ、それより蓮二。この試合、ここからが凄かったんだよ。お前の家、衛星放送入ってないから、見てないだろう?」
 その言葉をきっかけに、俺の関心は全豪オープンテニス男子シングルス決勝戦に移ってしまった。


 貞治が用意してくれた夕飯は、味の濃さもちょうどよくて美味だった。
「ごちそうさまでした」
 きちんと両手を合せて貞治に言ってやると、貞治は少しはにかんだような顔をした。
「そんなにかしこまらなくてもいいのに」
「せっかくお前が俺のために用意してくれたんだ。これくらいの敬意を払うのは当然だろう」
「……そういう事、よく真顔で言えるよね、蓮二」
 こういう仲になってそろそろ1年になるというのに、未だに貞治は愛情表現を受けることに慣れない。そんなところもたまらないほどに可愛らしく、俺はいつも、度が過ぎない程度に加減して貞治に伝えることにしている。 
 俺がどれほど、貞治を大事に思っているかを。
 もちろん、俺達は言葉にしなくてもお互いの気持ちがわかるほどに、お互いをよく知っている。だが、言葉が足らないばかりに貞治を傷つけるような過ちを二度も犯すほど、俺は愚かではないつもりだ。
「だが、まんざらでもない、といった顔をしているぞ」
「………相変わらず性格悪いなぁ」
「誉め言葉として受け取っておこう」
 苦笑する貞治の言葉をさらりと受け流して、俺は食後にと出されたお茶に手をつけた。
「先に片づけ済ませるから、ちょっと待っててくれるかい」
「手伝おうか?」
「いいよ。蓮二に任せたら、皿が何枚あっても足りないからね」
 テニスじゃ器用なクセに、家事全般は本当に不器用だ。そうボヤきながら、貞治はテーブルの皿を下げてキッチンに入った。
 砕けた私服にエプロン姿で家事をこなす貞治を見るのは、心地いい。特にこうして二人でいると、一緒に暮らしているような感覚を味わうことができる。
「……何ニヤニヤしてるんだ?」
「いい眺めだと思ってな」
「………」
 絶句してプイ、と片づけに専念するふりをして下を向いた貞治の心境を、俺は言い当ててやった。
「このスキモノめ、とでも思っているのか?」
「………」
「どうやら、当たっているようだな」
 青学の人間は、貞治のことをポーカーフェイスだの、何を考えているかよくわからないだの思っているようだが。俺にしてみれば、貞治の考えていることは手に取るようにわかる。
 連中に対して見る目がないと思う反面、俺だけがわかっていればそれでいい、と思う。
 つくづく、人を恋うるというのはわがままで、矛盾していて、時に制御のきかないものだ。だがその相手が貞治となると、そんな自分に付き合ってやるのも悪くないと思えてしまうのだから、不思議なものだ。
 このままキッチンで作業をする貞治を見ていたいと思ったが、貞治が機嫌を損ねてしまわないうちに俺はダイニングテーブルからリビングのソファへ移動することにした。
 テーブルの上に置かれていた新聞をめくって、テニスに関する記事を目にした時。俺はふと思い出した。
 甘い香りがする、と言った俺に貞治は確か、夜になるまではナイショだ、と言っていた。
 外はもう真っ暗になっているし、夕飯も終えて、「夜だ」と言っても誰も疑いようのない時間だ。ということは、そろそろ教えてくれるのだろうか?
「蓮二」
 そんなことを考えるともなく思っていると、いつの間にキッチンから出てきたのか、貞治に声をかけられた。
「……何だ? 片づけは終わったのか?」
「食器洗い機に入れるだけだからね。スイッチを入れたら、後は自動的にやってくれるんだ」
「ずいぶん味気ないものだな、それは」
「でも、手洗いするより水道代は安く上がるんだよ」
 俺の言葉に苦笑しながら、貞治はエプロンを外してダイニングの椅子の背もたれにかけた。
「それで、何を考えていたんだい?」
「何がだ?」
「考え事をしてただろう?」
「……当ててみるか?」
「そういうのは、蓮二の方が得意だろ」
 話しながら、貞治は食器棚からティーカップやポットを出して、紅茶を煎れる用意をしている。
「もう少し待っててくれ。……と、俺がそっちに持っていくまで、こっちを見るなよ」
「わかった」
 貞治に言われた通り、俺は新聞に視線を移して貞治が紅茶を持ってくるのを待った。トレーごとテーブルに置いて、俺の好みに合せて薄めに出した紅茶をカップに注ぎ終えると、貞治は再びキッチンへ戻って行った。
「蓮二、悪いんだけど……」
「どうした」
 今日の貞治は妙に注文が多い。珍しいこともあるものだと思ったが、恋人のわがままに付き合うのも楽しいものだ。
「そのまま、目を開けずにちょっと待っててくれるかい?」
「わかった」
 言う通りにしていると、トサッと隣に貞治が座る衣擦れの音がした。俺の右側がほのかに温かくなる。
「目、開けるなよ」
「わかっている」
 念を押す貞治に、俺は目を閉じたまま頷く。
 俺の反応に満足したのか、貞治がふっと微笑する気配がした。と思うと、貞治の右手が俺の左頬に触れてきた。
「こっち向いて」
 貞治の手と声に促されるままに、俺は隣にいる貞治の方を向いた。
「口、開けて……」
 請われるままに口を開ける。貞治の部屋で香ったのと同じ甘い香りを感じたと思った瞬間だった。
「――っ!?」
 貞治に唇を塞がれたと思ったら、口の中に何か冷たくて、適度な固さを帯びた塊を押し込まれた。貞治が俺の舌の上にそれを乗せて転がすと、それは俺と貞治の体温と唾液ですぐに溶け始めた。
(甘い…これは……)
 チョコレートだ。
 と思った時、貞治は俺から唇を離した。
 口の中で甘く溶けていくチョコレートを味わって貞治を見ると、貞治は俺の顔色をうかがうように、けれどどこか照れたような表情をしていた。
「昼間お前が言っていたのは、これのことだったのか」
「……ああ。ちょうど作ってる最中にお前が来てしまったからね。美味い?」
「甘いな」
「ごめん、甘さは調節したつもりだったんだけど」
「そういう意味じゃない」
 微笑してみせた俺の顔は、多分蕩けるような表情をしていただろう。
「お前のキスもチョコレートも、甘くて美味かった」
「良かったよ。お前の口に合わなかったら、どうしようかと思った」
 俺の言葉に、貞治はほっとしたように表情を崩した。
「お前が作る物で不味いものなどないだろう」
「それって、野菜汁も込みで言ってる?」
「……それは例外だ」
「酷いなぁ」
 貞治が作る物は全て美味い、と言いたい所だが。特製の野菜汁はどうも俺には味が強すぎて、あまり得意ではなかった。
「お前がこういう演出をするとは思わなかったな」
「今日だけだ。特別な日だからね」
「特別?」
 そう言って苦笑する貞治に一度聞き返して、俺は気がついた。確かに、こうして二人きりで過ごす夜は特別だ。
 そんな風に答えると、貞治は違う、と言い返してきた。
「蓮二、今日が何の日だかわかってるかい?」
「今日は…2月14日で土曜日だが」
 それがどうかしたのか?と言い返すと、貞治は呆れ果てたような顔をした。
「もしかして、本当に今日が何の日か、わかってないんだ?」
 ふぅ、とため息をついて貞治はもう一度聞き返してきた。
「だから、今日がどうしたというんだ?」
「……蓮二が純和風の達人で、欧米から入ってきて日本流にアレンジされた風習には疎いっていうのがよぉくわかったよ。いいデータが取れたな」
 貞治にそう言われても、俺にはピンとこなかった。
「蓮二、今日はバレンタインデーだよ」
「バレンタインデー?」
「……もしかして、本当にわかってなかったんだ?」
 貞治に解答を示してもらって、おれはやっと理解した。
 貞治の両親が二人だけで出かけたことも。
 貞治が俺にチョコレートを作ってくれたことも。
 貞治が俺に部屋から出るなとか、夜になったら教えてやると言ったことも。
 さっき、口移しでチョコを食べさせてくれたのも。
(今日がバレンタインデーだから、か?)
 頭の中で、今更のように2月14日という日付とバレンタインデーというイベントが結びついた。
「それで、今日は特別だと言ったんだな」
「やっと理解したみたいだね」
 貞治はクスッと笑って紅茶を口にして、自分で作ったチョコレートを一つ、口に放り込んだ。
「うん、やっぱりよく出来てる。実験の甲斐があったな」
「……そんなに何度も試作していたのか?」
「何度もってほどじゃないけど、3回ほど。なかなか蓮二好みの味にならなくてね」
「その度に、俺以外の誰かに食べさせていたというわけか? 少し妬けるな」
「ただの味見で妬いてどうするんだよ? 本命チョコは蓮二だけだけど?」
「当然だ」
 貞治が俺以外の人間に本命チョコを贈るなど、絶対にあり得ない。それは百も承知の上だ。
「だが、お前の作ったチョコを他にも味わった人間がいるのかと思うと、少し腹立たしい」
「……独占欲強いなぁ。前からそんなだったっけ、蓮二?」
「恋をすると人は貪欲になる」
「まぁ、確かにね」
 クスクスと笑いながら、貞治がチョコをもう一つ口に運んで味わう。俺も抹茶パウダーをまぶし、口に入れるとフワリと溶けていくそれを味わった。
「それで、今日俺にくれるのはチョコレートだけか?」
 チョコレートの甘さを邪魔しない濃さに煎れている紅茶を口にして、俺はわざと回りくどい聞き方をした。
 俺も貞治も、お互いのプレイスタイルはもちろんのこと、思考回路まで知りつくしている。どんな言葉の選び方をすればいいかも、当然わかっている。
 貞治は俺が何を言おうとしているのか、全く違うことなく言い当てた。これが聞きたかったんだろう?と挑発的な顔をして。
「まさか。何のために父さんと母さんが二人でデートするように仕組んだと思ってるんだい?」
 俯いて上目遣いで俺を見上げてくる貞治の目が、眼鏡のレンズから上半分だけ覗いて見える。
「お前、自分の両親を罠にかけたのか?」
「気を利かせた、と言ってほしいね」
 そう言って、貞治は得意げな顔をしてソファに背中を沈めた。その姿勢でひと息ついて、ティーカップを手に取る。
 全く、我が恋人ながらこの男は……。
「相変わらず計算高いというか、策士だな、お前は」
「でも、そういうのが好みなんだろう、蓮二?」
「確かにな」
 頭のいい、計算高い人間は好きだ。普通に会話をしていても、頭を使うし油断もできない。俺の言葉に時として思いがけない発想の答えが返ってくる。そういう意味でも、俺にとって貞治はかけがえのないパートナーだ。
「蓮二とこうやって会うのは正月以来だからね。今年は上手い具合にバレンタインが土曜日だし。この機会を逃す手はないと思ったんだよ。……俺だって、蓮二と一緒にいたいし、今日が楽しみだったんだよ」
 遠まわしな言い方をして俺を煙に巻くかと思えば、突然素直な気持ちを語る。俺をこれ以上魅了してどうするつもりだ?と思うほどに、貞治は巧みに俺の心を掴んで離してくれないのだ。
「でも、蓮二とこうして他愛ない話をする時間も楽しんでいたい。って思うのは、俺のわがままかい?」
「……わがままだな」
「やっぱり?」
「だが、悪くない」
 これだけ自己主張をしておいて、やっと俺の顔色をうかがってくる貞治に俺は笑ってみせた。そして閉じていた瞼を開けて、貞治と視線を合わせた。
「お前がもう一度、このチョコレートを食べさせてくれたら、あと1時間、お前との言葉遊びに付き合ってやろう」
「……やれやれ、仕方ないな。わがままなのはどっちなんだか」
 言いながら苦笑して、貞治は俺に向き直った。邪魔にならないようにと眼鏡を外すと、睫毛の長い二重の綺麗な目が顕になる。
「食べさせてやるから、目を閉じて口を開けろ」
「わかった」
 貞治の素顔をもっと見ていたいという気に駆られたが、どうせ後でじっくり見られるのだ、と思い直して俺は目を閉じた。
 貞治が顔を近づけてくるのが、気配でわかる。
 ゆっくりと貞治の唇が触れてきて、深く重なったと思うと貞治の舌が口の中に潜り込んできて。
 口の中に押し込まれてきた甘いチョコレートを、俺は貞治と二人で分け合って味わった。
 貞治のキスと一緒に。


Fin

written:2004.2.11

inserted by FC2 system