大切な人(乾×手塚)
愛らしく、どこか寂しげで哀しげな犬の表情が、手塚の涙腺を直撃した。
スクリーンに映し出されているのは、実在した盲導犬の生涯を綴った映画だ。
日曜日の昼下がり。
映画館にいるのはカップルか家族連れ、あるいは友人と連れ立って来ている女性ばかりだ。
それなりに体格のいい、男子中学生が二人というのは、手塚と、隣にいる乾だけだった。
『割引券もらったんだけど、観に行くかい?』
きっかけは、乾の何気ない一言だった。
『次の日曜日、春休み中だし暇だろう? デートしよう』
取り立てて断る理由もなかった手塚は、あまり深く考えずに頷いて。
今、こうして映画館に並んで座って観ているのだが……。
尽きることのない無償の愛と信頼を注ぐ盲導犬が、パートナーとなった人間と別れるシーンになった時。
パートナーを見つめる犬のつぶらな瞳に心臓を鷲掴みにされたようで、手塚の涙腺は崩壊した。
かけがえのない存在との、永遠の別れ。
深い絆で結ばれて、離れては生きていけないと思うほどの存在を知った今。
別れのシーンで涙せずにはいられなかった。
けれど、まさか自分が映画を観て泣くと思っていなかった手塚は、ハンカチを用意していなかった。
最近の映画館やレストランのトイレでは、ハンカチを持参していなくても不自由しないだけの設備が整っている。
それに慣れてしまっていて、持ち歩く必要性がない、と判断してしまったのだ。
もしかしたら…と胸やスラックスのポケットを探ってみたが、やはりハンカチは入っていない。
そうしている間にも、一度崩壊した涙腺から涙が止まることはなく、次から次へと溢れて頬を伝っていった。
目元を拭った指もすぐに濡れて、役に立たなくなってしまった。
「これ、使っていいよ」
不意に、隣から小さく声がかかった。
スクリーンから視線を外して隣を見ると、乾がハンカチを差し出していた。
思わず凝視すると、乾も目元が少し潤んではいるが、泣くまでは至らなかったようだった。
「俺は大丈夫そうだから。使っていいよ」
「すまない」
他の観客を邪魔しないようにと、手塚は小声で礼を言ってハンカチを受け取った。
どうやら涙腺が崩壊したのは手塚だけではなかったらしい。
周りからも、鼻をすすり上げる音がいくつも聞こえてきた。
手塚は少し安心して、ハンカチを顔に当てて涙を拭った。
スクリーンで映し出される映画はもちろんのこと。
乾が見せたさりげない優しさが、手塚の心を温かく包み込んでくれた。
「別れが身を裂かれるほどに辛い、と思えるほどの相手に出会えるってことは、幸せかもしれないな」
映画館から出て、一休みにと入ったコーヒースタンドで、乾がふと呟いた。
「別れるのはとても辛いし、どうしてこんな思いをしなきゃいけないんだ、って思うかもしれない。でも一生その相手と出会えないよりは、少しでも一緒に過ごす幸せを味わう方がいい。そう思わないかい、手塚?」
「そうだな」
そういう意味では、あの盲導犬も、盲導犬と共に過ごした人々も幸せだったのだろう。そう手塚は思った。
「俺は、お前に会えて良かったと思うぞ、乾」
心温まる、優しい映画を観たからだろうか。
いつもは言えない本音が、自然と手塚の口を突いて出た。
「手塚……。参ったな、そういう可愛いことを言ってくれると……」
「言ってくれると、何だ?」
「キスしたくなる」
「………ここでか?」
「うん。でも、さすがにここじゃマズイから、我慢するけどね」
そう言って笑う乾はヤケに大人びて見えて。
手塚は一瞬見惚れて、思わず視線を外してしまった。
そんな手塚を見て、嬉しそうに乾が目を細めるのを感じながら。
Fin