Adagio Cantabire(跡部×乾)
広い邸宅内を案内されて歩いていると、穏やかなピアノの音色が聴こえてきた。
跡部の自宅に招かれるのは、これが初めてのことではない。だが、跡部の家――というには、あまりにも大きいのだが――は広すぎて、案内なしでは跡部の自室に辿り着くことさえ、データの宝庫である乾にとっても難しい。
「お待ち申し上げておりました」
自動的に開かれた門から、プールのある広大な庭を歩き、ようやく建物まで辿り着いた乾を待っていたのは、跡部の執事である黒田と名乗る、初老の男だった。
執事というだけあって、黒田は静かで、落ち着いた物腰の男だ。必要以上に話をしない、というのも執事の仕事のうちなのだろう。乾から話しかけない限り、自分から何かを話してくることはない。
「このピアノは、跡…いえ、景吾君が?」
「さようにございます」
「弾いている最中に部屋に入っても、大丈夫なんですか?」
「景吾坊ちゃまから、あなた様だけはお通しするように、と仰せつかっております」
質問に答えてくる黒田の表情は、乾にも読めない。
「そうですか。あの……」
「何でございましょう」
「景吾君は、よくこうしてピアノを弾かれるんですか?」
乾が尋ねると、黒田は少し考えるような様子を見せて、答えた。
「坊ちゃまは昔からピアノがお上手でございましたから。ただ……」
黒田は一度言葉を切った。言うべきかどうか、考えるように。
「ここ数ヶ月は、今お弾きになっておられるような、優しく穏やかな曲を好んで弾いておられます」
「好みが変わった、ということですか?」
「さぁ。それは、あなた様のほうがよくご存知ではないかと思いますが」
答えて、黒田はわずかに笑みを浮かべた。ぼんやりしていたら見逃してしまいそうなほど、一瞬だったが。
それを見て、乾は悟った。黒田は、乾が跡部にとってただの友人ではない、ということを知っているのだと。
「こちらでございます。どうぞ」
跡部から、ノックの必要はないと言われているのだろう。黒田はノックも何もせずに重厚な木製のドアを開けて、乾を中へと導いた。そして、黙って深々と頭を下げると、音を立てないようにドアを閉めた。
この部屋に入るのは、初めてではない。乾が住んでいるマンションの4LDKを全部合わせたよりも、まだ広いのではないか、と思われるほどの広さがある、跡部の自室だ。
廊下に通じているこの部屋にはグランドピアノが置かれ、応接室として使用しているのだと、乾は初めてこの部屋に招かれた時に聞かされていた。
ドアが開いて乾が入ってきたことに気づいた跡部は、指を休めることなく、顔だけを乾に向けてきた。いつもは自信に満ちてクールな表情をしている跡部が、乾を認めた瞬間に蕩けるような微笑を浮かべる。
眩しいものを見るように細められた目が、しばらく自分の奏でるピアノを聴いていてほしい、と訴えていた。それを読み取って、乾はソファに浅く腰掛けて、部屋の中に流れている音に身を委ねた。
跡部が奏でている曲は、聴いたことがある。けれど、曲名までは思い出せなかった。
跡部と付き合うようになってから多少クラシックの知識は増えたが、乾はもともと音楽には疎い。今誰が売れている歌手で、どんな曲が流行っているか、なんてことも乾は知らない。
テニスに関すること以外は、乾は周囲が呆れるほどに無知なのだ。
(綺麗な曲だな……)
以前、跡部が乾を思って弾いてくれたことがある曲にも通じるものがある。
穏やかで、優しくて、甘い響きを帯びていて、けれどどことなく切なくて。
包み込むように降り注いでくる音の波に誘われるように、乾は目を閉じた。そして音に導かれるままに、心を委ねていく。その時。
(あ……これ、は……)
乾はこの上ない幸せに満たされた。
ふっと目の前が暗くなって、乾は目を開けた。
一瞬、跡部の顔が見えたと思った次の瞬間、唇が塞がれる。目を閉じる暇もなく、軽く触れただけで跡部の唇は離れてしまった。その目に、悪戯っぽい色が浮かんでいる。
「なんだ、寝てんのかと思ったぜ」
「音に集中するのが心地よかったからね。やっぱり、君のピアノは綺麗だよ」
「ありがとよ」
乾の賛辞に、跡部は素っ気なく、だが嬉しそうに口の端を歪めた。
「今の曲、何ていう曲なんだい?」
「ああ、あれか?」
「聴いたことはあるんだけどね。曲名が思い出せないんだ」
「ベートーヴェン作曲のピアノソナタ『悲愴』の2楽章だよ」
「『悲愴』の2楽章……」
「ああ」
適度に張りがあって、歌うような声が静かに答える。
「有名で、メロディも綺麗な曲だからな。いろんな人間が歌詞つけて歌ったり、メロディ使って別の曲にアレンジしたりしてんだよ。だから、聴いたことあるんだろ」
「なるほど、そういうことか」
解説する跡部に、乾は深々と頷いた。
「お前、ホントにテニス以外のことには疎いな」
「ああ、そうみたいだな。君と一緒にいると、特にそうなんだと実感するよ」
「なんだよ、やけに素直に認めるじゃねぇか」
クス、と笑った跡部が乾の隣に腰を下ろした。肩に腕を回されて、ふわりと跡部が嫌味にならない程度に身につけているコロンと、同じ香りをベースにしているシャンプーの香りが、跡部の体臭と混ざって乾の鼻をくすぐった。
その時、乾は先ほどの曲を聴きながら感じたことを思い出した。
「あ……」
「どうしたよ」
思わず、といった様子で漏らした声にも、跡部は反応した。乾のことが気になって仕方ない、という表情をしている跡部を見て、乾は心が温かくなって自然と微笑していた。
「貞治?」
いぶかしげに尋ねてくる跡部に、乾は自分から腕を回して抱きついた。
「俺の自惚れなのかもしれないけれど、さっきの曲。もしかして、俺を思って弾いてくれていたのか?」
尋ね返すと、跡部が息だけで苦笑したのがわかった。
「たりめぇだろ。あんな曲、お前を思った時じゃねぇと弾けねぇよ」
「それはつまり、俺を思って弾いてくれる時はいつも、あんな優しい曲を選んで弾いている、ということかい?」
「それは……」
少し体を離して顔色を窺う。跡部は困ったような、照れたような顔をして、バツが悪そうに口元を押さえた。
(跡部がこんな顔をするなんて、珍しいな。いいデータが取れた)
滅多に見られない跡部の表情を見て、乾は不謹慎だと諭す声を心のどこかで聴きつつも、そう思わずにいられなかった。
「ったく、お前には叶わねぇ。そうだよ。お前を思い浮かべたら、自然とああいう曲が弾きたくなるんだよ」
「そう、か……」
照れながらも乾への気持ちを見せてくれる跡部に、乾は自然と表情が綻ぶのを感じていた。
「さっき、黒田さんが教えてくれたんだ。景吾がここ数ヶ月、さっきみたいな優しい曲を好んで弾くようになった、ってね。……もしかして、俺と付き合い始めてからじゃないのか?」
「……」
沈黙は、肯定の証だった。
「さっき、君が弾いてくれた『悲愴』の2楽章を聴きながら、とても幸せな気分になったよ。まるで、君に抱きしめられているみたいにね」
こうして間近で跡部に触れて、乾は確信した。先ほど『悲愴』に心を委ねながら味わった幸福感は、跡部と共に触れ合う時に心を満たしていく幸福感にとてもよく似ている、と。
「貞治……。ったく、お前はホントに……」
乾の言葉に、跡部はぽかんとした表情をした。しかしそれもわずかの間だけで、すぐに跡部は前髪をかき上げて顔を歪めた。
そんな仕草も、とても様になっている。やはり、さすがは跡部だ。
考えるともなく思っていた瞬間、乾は力いっぱい跡部に抱きしめられた。
「そういうことを何のてらいもなく言われたら、抱きたくなるだろうが、あぁ?」
口調はどこかケンカ腰だったが、声には嬉しさがにじみ出ていることを乾は聞き取っていた。
率直すぎる言動は、自分を偽ることのない跡部らしい。乾は跡部に悟られないように微笑した。
「いいよ」
「貞治……」
「俺も、君が奏でる音楽じゃなくて、君に抱かれたい」
はっきりと乾がそう口にすると、跡部は絶句した。
「――……お前ってヤツは、本当に……」
そう繰り返した跡部が、乾から体を離して顔を覗き込んでくる。眼鏡を外された、と思った次の瞬間に。
乾は息もできないほど深く、口づけられていた。
(初出:2005.2.4)