愛のあいさつ

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愛のあいさつ(鳳×宍戸)


 宍戸は、何ともいえない居心地の悪さを感じていた。
 明らかに場違いな所にいる、と思う。ベーゼン何とかというピアノも、スト何とかというバイオリンも、宍戸には全く縁がない物で。それらが奏でる高尚かつ格調高い音楽にも、全く縁がないものだった。
 であるにもかかわらず、最高級の音響設備を整えたこの音楽室にいるのには、ちゃんとした理由がある。宍戸は呼び出されたのだ。同じ部の後輩で、恋人でもある男に。
「おい、鳳。お前、レントの部分のフェルマータはもっと溜めてから次へ行け。それから、ウン・ポーコ・ピゥ・レント。あのメロディはもっとこぶしを回せ。そこは哀愁こもったジプシーの歌だからな」
「はい、跡部さん」
「それから、アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ。もうちょっと飛ばせるか?」
「うーん、あんまり速いとちょっとキツいですけど、もう少し速くても大丈夫っすよ。勢いで行った方がいいっすかね?」
「ああ。前にも言ったけどな、フェルマータの後の速いパッセージは、恐らくサラサーテも即興で弾いてたはずだ。別に、楽譜どおりじゃなくてもいいぜ」
「わかりました」
 床から一段高くなっている教壇で、ピアノの前に座っている跡部とバイオリンを奏でている鳳が交わす会話の内容も、宍戸にはさっぱりわからない。
 二人が演奏しているのは、間近に迫った開校記念日のステージで弾く曲だ。音楽教育に力を入れている氷帝学園の中で最も優秀な生徒が幼稚舎から大学までの各部から選ばれ、そこで腕前を披露するのである。中等部から選ばれたのは、ピアノの跡部とバイオリンの鳳だった。
 どちらも、数ある学生コンクールで優勝や上位入賞を経験しているだけに、当然といえば当然の人選だ。
(ったく、部活だけでも大変だってのに、どこにそんな余力があるんだよ、こいつらは)
 そう思っているのは、恐らく宍戸だけではないだろう。何せ彼らが所属しているのは、200人以上もの部員を抱え、負けたら即レギュラー落ちという厳しいルールが敷かれているテニス部なのだから。
 その跡部と鳳の練習場所に、何故か宍戸は連れて来られていた。
(いいじゃないですか。たまには俺のバイオリン、ちゃんと聴いて下さい)
 年下で聞き分けが良くて、自分より大人な恋人にねだられては、断れなかったのだ。
 テニス部の顧問兼監督でもある音楽教師、榊が来るまでに自主練習を、と鳳と跡部が弾いている曲も、どこかで聞いたことがあるような気がするが、曲名は知らなかった。
 もう一度最初から、と弾き始めた曲を聴きながら、宍戸はあくびを押し殺していた。途中からテンポが速くなって、鳳が凄いことをしているというのはわかるのだが、最初の方はテンポがゆっくりしていて、聴いていて退屈してしまうのだ。
 すると、そんな様子は弾いている鳳に伝わってしまったらしい。急に鳳が弾くのをやめた。
「すみません、退屈でしたか、宍戸さん?」
 身長が高くて体格がいいせいで、バイオリンが小さく見えてしまう鳳が楽器を肩から下ろして、申し訳なさそうに聞いてくる。
「別に、そういうわけじゃねぇけど……」
 そんな風に言われても、当の演奏者を前にして退屈だ、とは言えない。宍戸は適当に言葉を濁したが、鳳は柔らかく苦笑した。
「無理しなくていいっすよ、宍戸さん。……跡部さん、ちょっと休憩していいっすか?」
「俺は構わないぜ。つーか宍戸、てめぇいい加減少しはクラシックも覚えろよ」
「うるせぇよ、跡部。音楽は苦手なんだよ」
「……鳳、お前も少し付き合う相手を選んだ方がいいんじゃねぇのか?」
「宍戸さんはこれでいいんですよ。それに、耳の肥えた聴衆から満場の拍手をもらうより、全然関心のない人に感動してもらう方が、演奏者としては嬉しいですから」
 口が悪い跡部にも、鳳は笑顔で言い返す。
「宍戸さん。もし良かったら、気分を変えて別の曲でも弾きましょうか?」
 そしてそう言って、鳳はバイオリンを構え直した。柔らかく、流れるような動作で弓を弦に当てて奏で出された曲は、軽やかでどこか甘いメロディだった。
 最初のフレーズを聴いて、それが繰り返される時に跡部が伴奏をつけ始めた。鳳の手元を見て、抑揚をつける鳳にぴたりと合わせ、盛り上げていく。
 優しくて甘い旋律が、柔らかく宍戸を包んでいく。胸がちくりと痛むくらいに切なくて、少し気恥ずかしくて、けれど満たされる感覚だった。

 それはまるで……。

 思い出しかけて、宍戸は思わず赤面する。こんな場所で思い出すには、あまりに不謹慎だ。
 よりによって、こんな高尚なクラシックを聴いて、鳳に抱きしめられている時のことを思い出すなんて。
 そのまま視線を外そうとして、宍戸はそれに失敗した。
 軽やかに楽器を駆けていく鳳の指先に、柔らかく弓を操るしなやかな手つきに、いつも宍戸を優しく見守っている時と同じ眼差しに。宍戸は捕らわれてしまっていた。
 優しくて甘いその曲は短くて、すぐに終わってしまった。鳳のバイオリンから出てきた高音と、跡部のピアノの和音が溶け合った最後の余韻が消えても、宍戸は少し呆然としていた。
 曲の名前もわからない、もちろん作曲者など知らない。
 けれど、その曲は宍戸の心を大きく動かしていた。
「宍戸さん?」
 尋ねるように呼びかけられて、宍戸はようやく我に返る。そしてやっと宍戸は思い当たった。今聴いた曲、鳳が奏でた音色が、いつも自分を呼ぶ声にとてもよく似ていたことに。
「どうでした、今の?」
「どうって……良かった、と思うけどな………」
 本音は隠したままで、宍戸は言葉を選びながら答える。すると、鳳が満面の笑みを浮かべた。
「それって、宍戸さんの最高の誉め言葉っすよね。嬉しいっす。この曲、宍戸さん専用なんで」
「俺、専用……?」
 聞き返すと、鳳は笑顔のままで頷いた。視界の隅で、ピアノに向かっている跡部が「やってられっかよ」といった表情で深くため息をつくのが見えた。
「今の曲、エルガーって人が作った『愛のあいさつ』っていうんです」
「…………」
 曲名を聞いて、その意味に気がついて。
 宍戸は耳まで赤くなった。

Fin



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