オイディプス王

オイディプス王

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(2002年7月21日 大阪シアター・ドラマシティ)

作:ソフォクレス   演出:蜷川幸雄   音楽:東儀秀樹
出演:野村萬斎  麻美れい  吉田鋼太郎  菅野菜保之  川辺久造  山谷初男  菅生隆之  妹尾正文  沢竜二
物語:何者かに王を殺され、荒廃したテーバイの国。国境には巨大なスフィンクスが立ちはだかり、旅人に謎をかけては答えられぬ者を食い殺していた。
 放浪の旅を続けていた隣国コリントスの王子オイディプスは、誰一人解けなかったスフィンクスの謎を解き、前王の妻を娶って、テーバイの新しい王に迎えられる。
 輝ける日もつかの間、再びテーバイの国を災いが襲った。疫病が蔓延し、アポロン神の神託は、「前王ライオスを殺害した者を捜し出し、この国の血の穢れを払え」と告げる。オイディプスは、殺された王の復讐を果すことを神前に近い、市民たちに協力を訴える。
 案内の者に導かれて現れた盲目の預言者テレイシアスは、王と口論のうちに忌まわしい真実を語り始めた。

 これ以上に不幸で、忌まわしい人生があるだろうか。
 「オイディプス王」を観て、あるいは話を聴いたことのある者ならば、そう思わずにはいられないだろう。
 この話は、心理学用語である「エディプス・コンプレックス(同性の親に対抗し、異性の親を慕うことから起こる心のわだかまり)」の語源になっているギリシャ悲劇である。「自分の父親を殺し、母と交わるであろう」との予言を受けたオイディプスに対して、その予言成就を阻むために彼や周りの者がとった行動が、結果として予言の成就につながってしまう、という何とも皮肉な話である。
 よく、「運命なんてこの手で変えてやる」といった言葉を口にする者があるが、この悲劇を目の当たりにした者にとっては、その言葉は、抗いようがなく、忌まわしく、言葉も出ないほど残酷な運命に直面したことのない人間が言っている戯言だとしか思えなくなってしまう。

 蜷川幸雄が、このギリシャ悲劇を舞台化するのは、これが三度目なのだそうだ。
 舞台のセットは全面鏡張り。時に客席を劇に取り込み、人物が客席から舞台へと降りていく。そんな演出もあって、私は一人の観客でありながら、テーバイの市民の一人として、自分の王に降りかかる災いと恐ろしい運命を目の当たりにし、限りなく深いその慟哭に共感し、悲しみと苦しみを抱え込んでしまうような錯覚を覚えた。
 舞台は、国の荒廃に悩むテーバイの民が苦しむ様子から始まる。彼らは自らの困窮ゆえにもがき苦しみ、王に改善を訴える。そして彼らにもたらされる神託のままに、前王を殺した犯人を暴き出す、その推理劇の目撃者となる。暴き出された真実はあまりに重く、忌まわしく、不幸なものである。その全てを目撃した民は、冒頭で見せた以上にもがき苦しみ、自分ではどうしようもないほどの重荷を背負わされることになる。
 自分が王の転落を目撃する、テーバイの民の一人である、という錯覚を覚えるのも、そんな演出の妙があるからこそなのだろう、と思う。

 音楽を担当したのは、雅楽師の東儀秀樹。脚本を読んだだけで数曲ひらめいた、という彼の鋭い感性から生み出された音楽は、とても美しいメロディで、雅楽特有の複雑な和音と相まって、物語の悲劇性をよりいっそう高め、また重苦しいものにする。王への嘆願者たちが笙を吹きながら舞台へ上がっていったり、嘆願者の一人が舞を舞ったり、というのも彼が音楽を担当したからこそ、の演出なのだろう。
 また、衣装もとても美しかった。オイディプスと妃イオカステの二人は高潔さを印象づける白。装飾は赤。特に、オイディプスの白い衣装は、彼が血まみれになって登場するシーンでよりいっそう血の赤さを引き立てる。

 主演の野村萬斎と麻美れいも、とても素晴らしかった。狂言と宝塚。環境は違えども、舞台で鍛えられてきた彼らの演技力は、やはり並ではない。ささやく声でさえ、後ろまで明瞭に届くというのは、やはりさすがだと思う。
 麻美れいの演じる妃イオカステはとても美しい。夫であるオイディプスに対して愛情を見せるシーンではとても妖艶で。オイディプスの忌まわしい真実が明らかになり、自らの罪を自覚するというシーンでも、一言のセリフをしゃべることもなく、恐ろしい運命に打ちのめされ動揺し、苦しむ様子を見事に演じていた。
 野村萬斎の演じるオイディプスは、悲しいまでに高潔で、力強く、威厳に溢れていて美しい。しかし、彼が高潔であればあるほど、彼を襲う運命と真実の残酷さと、彼の悲劇性が強まっていく。血まみれになって泣き叫ぶ彼の演技には、圧倒されて自然と涙がこぼれてきた。

 今回の「オイディプス王」は、途中休憩がない。約2時間、ぶっ通しで演じられる。観客には酷だ、との感想をもらしていた人もいたようだが、私は休憩なしでよかったと思う。話のテンポがよく、私たちはまるでジェットコースターに乗っているかのように、輝かしい栄光から、最悪の不幸へと転落していくオイディプスの人生を目の当たりにする。役者の演技の巧みさもあったのだろう、本当に引き込まれるようにして私はオイディプスの身にふりかかる悲劇に共感し、哀しまずにはいられなかった。
「ああ、なんてかわいそうな人。あなたにはもう、この言葉しか言ってあげられない」
 真実を知り、嘆きながら、血を吐くような思いで口にしたイオカステのこの言葉は、まさに私たちがオイディプスにかけてあげられたら、と願う唯一の言葉でもあった。
 誰よりも知恵があり、輝かしい王である高潔なオイディプス。そんな彼が、自らは知らぬこととはいえ、父を殺し、母を娶り、自分の子供が同時に兄弟でもある、という忌まわしい血縁関係を築いてしまう。
 美しい妃イオカステも、予言の成就を阻むために我が子の殺害を企み、図らずも命を救われてしまったその子と、父を殺したその息子と結婚し、子をなしてしまう。
 二人の罪は、彼らが「犯人を決して許すな」と言い「真実を明らかにするのだ」と宣言し、「神託などあてになるものか」言うほどに、真実が暴かれたときに重くのしかかる。二人は自分で自分に呪をかけ、破滅へと向かっていくのである。これほど、皮肉なことがあろうか。
 彼らの行動も苦悩も、神から見れば所詮は掌で踊っているだけのように見えるのだろうか。…と感じている私たちもまた、時にテーバイの民となり、時にオイディプスやイオカステと共感しながら、結局は神の視点でこの悲劇を鑑賞していたのかもしれない。

 カーテンコールで拍手が鳴り止まない、本当に圧倒された素晴らしい舞台だった。ひざの上に荷物を載せていたばかりに、スタンディング・オベレーションできなかたったのがまことに残念だった。

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