Chapter:24 みぞの鏡
そこは、昔使われていた教室のような部屋だった。
机と椅子が黒い影のように壁際に積み上げられ、ゴミ箱も逆さにして置いてある。
ところが、リョーマが寄りかかっている壁の反対側の壁に、この部屋にそぐわない物が立てかけてあった。それはまるで、通りのじゃまになるから、と誰かがそこに寄せて置いていたようだった。
リョーマは誘われるようにその前へと足を向けた。
それは天井まで届くような、背の高い見事な鏡だった。金の装飾豊な枠には、2本の鍵爪状の足が付いている。枠の上には、何やらよく読み取ることはできなかったが、文字が彫ってあった。
「―――っ!?」
鏡の前に立ったリョーマは、思わず叫び声を上げそうになり、両手で口を塞いだ。急いで振り返って、あたりを見回した。叫ぶ本を開いたときよりも、ずっと激しく動悸がした。
鏡に映ったのは、自分だけではなかったのだ。リョーマのすぐ後ろに、大勢の人間が映っていた。
(でも、俺以外に誰もいないんだけど……)
リョーマは軽くあえぎながら、もう一度そっと鏡を振り返ってみた。
そこには、少し脅えた顔のリョーマが映っている。その後ろに、少なくとも10人くらいの人がいる。肩越しにもう一度後ろを振り返ってみたが、やはり誰もいない。
(……まさか、透明人間がたくさんいる、とか。そんなワケないよね)
自分で考えたそれを、自分で否定する。
もう一度鏡をのぞき込んでみた。リョーマのすぐ後ろに立っている女性が、リョーマに微笑みかけて手を振っている。
後ろに手を伸ばしてみても、空をつかむばかりだった。もし本当に女の人がそこにいるのなら、すぐ側にいるのだとしたら触れることができるのに。その人の体温を感じることもできるのに。
何も感じられないし、何の手応えもなかった。
その女の人も、他の人たちも、鏡の中にしかいなかった。
綺麗な人だ、とリョーマは思った。
リョーマとよく似た目をして、同じ髪の色をして。
リョーマは鏡にもっと近づいてみた。すると、その女の人が泣いていることに気づいた。微笑みながら、泣いている。
「何で、泣いてんの?」
思わず、小さく声に出して尋ねてみた。けれど、返事は返ってこない。
優しくリョーマを包み込むような微笑に、一つの考えがリョーマの頭に浮かんだ。
この人は、もしかして……。
「母さん?」
その女性は、微笑みながらリョーマを見つめるばかりだった。リョーマは鏡の中の他の人々の顔をジッと眺めた。自分と同じような、強い光を湛えた目の人、そっくりな鼻の人。
リョーマは確信していた。
これは、自分が会ったことのない、いや正確には父親の南次郎が会うことも、写真を見ることも許さなかった越前家の人たちなのだ、と。
リョーマは生まれて初めて、自分の母親の顔を見た。胸の中に、喜びと深い悲しみが入り混じったような強い痛みが走った。
どのくらいそこにいたのか、自分でもわからなかった。
鏡の中の姿はいつまでも消えず、リョーマは何度も何度ものぞき込んだ。
やがて遠くの方から物音が聞こえ、リョーマはふと我に返った。
(いつまでも、ここにいるわけにはいかないか。ベッドに戻らないと、マズイよね)
リョーマは鏡の中の母親から思い切って目を離し、透明マントを体に巻きつけて、振り返らずに急いで部屋を出た。
「どうしたの、リョーマ君? あまり食べてないみたいだけど」
鏡を見つけた翌朝、リョーマは珍しく食欲がなかった。ベーコンを1枚食べただけで、後は何も喉を通らなかった。
「なんだ、越前? 風邪でも引いたのか?」
からかうように堀尾が聞いてきたが、リョーマは取り合わなかった。
リョーマが軽くため息をついたとき、目を閉じているのかと思うほどに細い目をした、黄色かかった毛のふくろうがリョーマの前の前に降りてきた。嘴に銜えた手紙をポトリ、と落として再び飛び上がっていく。
そのふくろうには見覚えがあった。乾が飼っている、蓮二という名のふくろうだ。
(先輩が…俺に何の用なワケ?)
リョーマは不思議に思った。何か伝えたいことがあるなら、直接言えばいいことなのに。それをわざわざ手紙で寄越してきたということに引っかかりを覚えて、リョーマは皆から離れて一人になった時にその手紙を開けた。
昨日の夜、閲覧禁止の棚に忍び込んだみたいだが、何か収穫はあったかな?
ベッドを抜け出すのは、ほどほどにしておけよ。
それを読んで、リョーマは思わず心の中で呟いた。
(ほんっとーにヤな先輩)
思い返せば、透明マントを使って夜中の図書室に忍び込め、と暗に促したのは他でもない乾だった。どこかから監視でもしていたのか、と思わずにいられない目ざとさである。
だが、いくら乾でもあの鏡のことまでは知らないだろう。その中に、リョーマの母親が映っていたことも。
(別に、会えなきゃ会えないでいいんだけど)
少し意地を張ってそんな風に考えてみたものの、結局その日は一日、鏡で出会った母親のことが頭から離れなかった。
そして、もう一度会いに行ってみよう、そう思っていた。
(……俺、自分がマザコンだったとは思わなかったんだけど)
でも、心のどこかでいつも会いたいと思っていたのかもしれない。
リョーマは何故か、そう思い直していた。
授業が終わった後、リョーマは人目を避けるようにして再びその部屋に向かった。まるで、吸い寄せられるように。
鏡の前に座り込んで、じっと鏡を見つめる。
昨夜そうだったように、リョーマのすぐ隣には母親が寄り添っていて、そっと肩を抱いていた。その場にいるのはリョーマ一人だけなのに、鏡の中では母親が自分に寄り添っている。鏡の中だけで出会うことのできる、母親。
俺らしくない、そう思いながらもリョーマはそこから離れることができなかった。
どれくらいそうしていたのか、自分でももうわからなくなった頃。
どこからともなく一羽の鳥が現れた。リョーマは鏡越しに、その鳥がリョーマの頭の上を旋回して飛び、鏡の上に止まるのを見た。
黄色い羽に、閉じられた目。
その鳥には見覚えがあった。
(あれは、確か……)
前にも一度見たことがある。そう記憶を辿りかけた時、鳥が急に話し出した。
「見つけたぞ、貞治」
(貞治……って、誰だっけ?)
どこかで聞いたことがあるような気がする。考えるともなく思っていると、バタバタと足音がいくつか聞こえてきた。バン、と音がしてドアが開く。
「いたっすよ、乾先輩!」
走ってきたのか、息を切らして入ってきたのは桃城だった。その後ろから、乾と海堂、大石と不二と…グリフィンドールのクィディッチチーム全員が現れた。
「こんな所で何をしている」
眉間に皺を寄せて歩み寄ってきたのは、部長の手塚だった。近づいてくる手塚と入れ替わるように、黄色い鳥はパタパタと羽を羽ばたかせて指を差し出した乾の手に止まった。
「ご苦労だったね、蓮二君2号」
乾に声をかけられて、黄色い鳥は周りの空気に同化するようにして消えた。
「練習に来ないから、心配したぞ、越前」
「そーそー。おチビってば、朝から様子がおかしかったにゃ」
「朝食も、ほとんど食べてなかったみたいだからね」
大石と菊丸と不二が、手塚に続いて中へと入ってきた。
「それにしても、こんな部屋があったんだね。初めて入ったよ」
「あ、タカさん。何かでっかい鏡があるっすよ」
物珍しいといった様子で部屋の中を見回しながら壁沿いを歩く河村に、桃城がリョーマの目の前にある鏡を指差した。
「何だ、ただの鏡じゃねぇか」
リョーマの後ろから鏡を見た海堂が、フシューと息を吐き出しながら呟く。そのまま鏡をのぞき込もうとして、海堂は乾に止められた。
「それ以上近づかない方がいいぞ、海堂。越前、お前もだ」
「乾先輩?」
海堂が乾を振り返ると、乾は鏡の枠の上の方をじっと見ていた。
「すつうを みぞの のろここ のたなあ くなはで おか のたなあ はしたわ」
乾は枠に掘られた文字を一つ一つ、呟くように読み上げた。そしてローブからノートを取り出して数枚めくり、枠の文字とノートを何度か見比べた。
「……なるほどな。これは、みぞの鏡だ」
「みぞの鏡?」
乾が告げた言葉を、大石や桃城、リョーマと菊丸の4人がほぼ同時におうむ返しに尋ねていた。
「なるほどな、今朝越前の様子がおかしかったのは、この鏡のせい、というわけか」
一人納得したように呟きながら、乾は金色の枠に触れてまじまじと観察していた。
「この鏡は、何百人もの生徒を虜にしてきた、魔法の鏡だよ」
「どういう意味なんだ、乾?」
大石にせがまれて、乾は説明を続けた。
「この鏡が見せてくれるのは、心の一番奥底にある一番強い『のぞみ』だ。それ以上でも、それ以下でもない。だからこの鏡の前に立つと、自分が一番強く望んでいるものが見える」
「それってつまり……」
「鏡に映るのは、あくまでも自分の願望や野望だ。真実の姿じゃない。それが現実のものか、実現可能なものなのかもわからない。だから、この鏡を見た者の多くが鏡の前でヘトヘトになったり、鏡に映る姿に魅入られてしまったり、発狂したりしたらしい」
「じゃぁ、越前がおかしかったのは……」
大石の視線が、鏡とリョーマの間を何度も往復した。
「偶然この鏡を見つけてのぞき込み、魅入られてしまったんだろう」
乾から結論を引き取ったのは、手塚だった。
「練習があることも、時間も忘れてしまうほどにな」
「あ……」
手塚に言われて、ようやくリョーマは思い出していた。今日がクィディッチの練習日だったということを。
「この週末は、寮対抗杯がかかったハッフルパフとの対戦がある。練習には忘れずに参加しろ、そう言っておいたはずだな、越前?」
問い詰めるような手塚の口調は、厳しいものだった。
「お前は明日、グラウンド100周だ。走り終えるまで、練習には参加させない」
「……はい」
手塚のグラウンド100周という言葉に、その場にいた全員がザワついた。
「100周って、ちょっと厳しすぎるじゃない、手塚?」
「どんな理由があったにせよ、無断で練習を休んだ罪は重い。罰は罰だ」
少し軽くしてやったらどうだ、と暗にほのめかす不二にそう言い置いて、手塚は踵を返して部屋を出て行こうとした。
「どこへ行くんだい、手塚?」
「ダンブルドア先生に話して、鏡を別の場所へ移してもらう。俺たち生徒が探せないような場所へな」
大石に尋ねられて、手塚は簡潔にそう答えて部屋を出て行った。
「越前、お前がこの鏡に何を見たのかは聞かない。でも、お前もわかったはずだ。この鏡が見せたのは、現実でも真実でもないってな」
「……っす」
床に座り込んでいるリョーマの前にしゃがみこんで、目線を合わせて話す乾に、リョーマはただ頷いた。
「夢に耽ったり、生きることを忘れてしまうのは簡単だ。でも、それじゃ前に進めない。とりあえず、今の俺たちにできることは、週末の試合までに練習を重ねて、寮対抗杯をスリザリンから奪い取ることだよ」
「そうっすよね、乾先輩。次の不動山戦で勝てば、俺らグリフィンドールは7年ぶりに寮対抗杯を取り戻せるんですよね?」
「そうそう。頑張らないとにゃー」
乾の言葉に、桃城は深く頷いて目を輝かせた。そして菊丸はふざけて、後ろからリョーマに抱きついてきた。
「ほーら、おチビも。暗い顔するんじゃないよ」
「って、重いっす、菊丸先輩」
「こ、こら、英二……」
菊丸に押しつぶされそうになるリョーマを見て、大石が慌てたように菊丸をたしなめる。
「それにしても、やっぱり手塚は厳しいな。グラウンド100周なんて、初めて聞いたよ」
「うん、今までで最高記録だろうね」
「ああ。俺のデータによれば、今までの最高記録は菊丸と不二の70周だったからな」
河村と不二と乾の会話に、海堂がフシューと不機嫌そうに息を吐く。
その時、全校生徒に大広間に集まるように知らせる鐘が聞こえてきた。夕飯の時間である。
「よっしゃ、メシメシーっと」
「お腹すいたにゃー」
「今日のメニューは何かな?」
その鐘にいち早く反応した桃城に続いて、菊丸がリョーマから離れて立ち上がる。それに不二も続いて部屋を出て行った。
「俺たちも行こうか」
大石に声をかけられて、リョーマも立ち上がった。
先輩たちに続いて部屋を出る直前、リョーマはもう一度だけ鏡を振り返った。鏡の正体がわかったせいか、この部屋に入ってきた時のように、鏡を見つめていたいという思いはもうわいてこなかった。
もう大丈夫だ、とリョーマは自分に言い聞かせた。
そんなリョーマの様子を誤解したのか、一番後ろにいた乾がリョーマを振り返った。
「まだ気になるのか、越前?」
「……別に」
「あれを見て悪夢にうなされた生徒は少なくない。もし眠れないようなら、俺が睡眠薬を調合するから、遠慮なく言ってくれ」
乾はそう言って、何か面白い物を見つけた子供のような微笑を浮かべて、廊下のろうそくの炎を不自然に眼鏡のレンズに反射させた。
乾が調合する魔法薬の完成度の高さは、嫌というほどわかっている。だが……。
「いらないっす」
リョーマはポツリと答えた。
以上、24章をお届けしました(^^)。
そして久しぶりにレギュラー9人全員が揃ったような気がします、ハリポタdeテニプリ(笑)。
正直なところ、リョーマをどこまで凹ませるか迷いました。
ハリポタ本編では、ここでハリーはかなり凹むんですよね(苦笑)。
でも、リョーマは両親亡くしたわけじゃなくて、片親がおりますし、そこまで凹むような子じゃないわよねぇ、と。
そしてこのお話では、監督生たちが非情に優秀なので(笑)、先生の出る幕がなくなってしまいました。
なお、乾が連れている蓮二君2号は、分室の別室で行われている企画の影響がかなり色濃く出ております(笑)。
「しょーがねぇなぁ」ということで、ご容赦下さいませ。
さて、次回はちょっとした番外編です。
いよいよ25章です(^^)。
が、1・2年生男子たちは何やら災難に遭う模様(苦笑)。
お楽しみに♪
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