いざ宵の月

いざ宵の月

 廊下に出ると、月明かりが庭を照らしていた。
 秋が深まってきた今、日が落ちるのが早くなってきている。
 各地に放っている忍の者からの報告を読んで必要な指示を出し終えると、すっかり日が落ちて蒼い月が冴え冴えと天空から地上を照らしていた。

 どうせなら、昨日晴れてくれりゃ良かったんだがな。

 小十郎は心の中で呟いて、苦笑を洩らした。
 昨日は八月十五日、中秋の名月だった。
 伊達家では、戦がない限りは毎年盛大に月見の宴が催される。
 初夏に小さい小競り合い程度の戦はあったものの、その後は表面的には穏やかな日々が続いていた今年は、現当主である政宗の下で盛大な宴が催された。
 戦場に出れば六本の刀を振るい、鬼神のごとき強さで敵を圧倒する政宗だが、常の彼は和歌や漢詩、茶の湯や香道、能楽にも通じている。花見や月見など、風流な行事も好んで行う。
 だから昨夜も、政宗が自ら厨房に入って餡を作り、宴の席で月見団子が振る舞われた。

 ……のだが。
 女心と秋の空は、変わりやすいのが常だ。
 一昨日と今日は天も晴れていたのだが、昨日の午後から天候が荒れた。灰色の分厚い雲が出てきて、雷があちこちに落ち、土砂降りの雨が降って、せっかくの名月を隠してしまったのだ。

「せっかくの月見なのに、天気が荒れちまったな」

 呟いた主の声が、寂しげに聞こえたのは、小十郎の気のせいではなかった。
 家臣たちの前ではそんな素振りをみせることはなかったが、政宗は小十郎の前でそうポツリと呟いたのだ。できれば晴れてほしかった、と。
 昨夜は張り切って宴の支度をしていた主の心を曇らせた月を、小十郎は少し恨めしい気持ちで見上げた。

「小十郎」

 柔らかい青銀の光を見上げた時、ふいに主の声が自分を呼んだ気がした。

「政宗様……?」
 振り向いても、返事があるはずもない。
 城主である政宗の部屋は、小十郎の居室から離れた奥にある。
 長年傍に仕えてきた者としての勘が働いて、小十郎は城内の見回りも兼ねて政宗の部屋へ向かった。
 廊下を歩きながらも、小十郎には何となくわかっていた。恐らく、主は部屋にはいないと。部屋をこっそりと抜け出して、どこかへ姿をくらましていると。
 政宗の部屋へ向かうのは、それを確かめるためだ。
「政宗様」
 案の定、政宗の部屋には人がいる気配がない。試しに呼びかけてみても、返事はない。

やはり、な。

 小十郎が予想した通り、政宗は部屋にはいない。
 他の者ならば血相を変えて探し回るところだが、小十郎は違う。
 隻眼のために「独眼竜」の異名をとる政宗が失った右目の代わりとして主の分まで物事をよく見、戦場においてはその背中を守る者として「竜の右目」の二つ名を賜っているのだ。
 政宗の行き先は、わかっていた。
「かっ、片倉様っ!」
 厨房に顔を出すと、夕餉の片づけをしていた者たちが驚きを隠せない様子で振り向いた。
 料理が趣味でもある政宗、自分の畑で育てた野菜を自ら料理することもある小十郎共に、厨房に顔を出すのは珍しいことではない。だが、厨房に立つ時は事前に周囲の者に伝えておくのが常であり、不意打ちのように顔を出すことはあまりない。
 驚かれるのも無理はない、と小十郎は心の中で苦笑した。
「ちょっと野暮用だ。仕事の邪魔してすまねぇな」
「い、いえ、そんな……」
「大丈夫っすよ、片倉様」
 口では大丈夫と言いつつも、仕事を進める手がいささか緊張しているのを見てとった小十郎は、手早く目的の物を揃えて厨房を出た。
 政宗がいるはずの場所へ、いち早く向かうために。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 小十郎が城内で政宗の不在に気付いた頃、政宗は城から少し離れた寺にいた。
 そこは、元服前に政宗が師である虎哉和尚から教えを受けていた寺でもある。寺の一角には畑があって、虎哉がここで暮らしていた頃から野菜を育てていた。小十郎が傳役についてからは、主に小十郎が畑の面倒を見るようになり、虎哉が役目を終えて米沢を去った今でもそれは続いている。
 普段着にしている稽古着のままで、誰にも見つからないように城を出た政宗は、ここの縁側に腰掛けて畑越しに月を見上げていた。城主である政宗にとって、見張りや砦番の目を盗んで城を抜け出すことなど、造作もない。見つかったとしても、政宗を慕って従う者の多い伊達軍には、お忍びで城を出ようとする城主を見とがめる者などいない。
 ただ一人、政宗の側に仕える腹心、片倉小十郎を除いては。

あいつのことだ、今頃は俺がいないことに気づいてるんだろうな。

 青銀の光を放つ見事な月を見上げて、ふと思う。
「小言の一つや二つは、覚悟しねぇとな」
 ポツリと呟いてから、思い直す。
 小十郎の小言が一つや二つで済めばいいんだが、と。
 けれど同時に確信があった。
 小十郎ならば。元服前から政宗に仕え、自分の右目として苦楽を共にしているあの男ならば。自分が城を抜け出してここにいる理由は、誰よりもわかっているはずだと。
 なにせ、中秋の名月に合わせて政宗をここに連れてきたのは、他でもない小十郎なのだから。
 口角の端を引き上げて、その口元に笑みを浮かべながら、政宗は思い出していた。
 初めて、二人でここに来た満月の夜のことを。

 あれは、まだ政宗が梵天丸と呼ばれていた頃のことだった。
 小十郎が政宗の傅役になって間もない中秋の名月の夜、伊達家では月見の宴席が設けられていた。
 城内では酒が入って騒ぎ、浮かれる声があちこちに響いていたが、政宗は自分の部屋にこもっていた。病気で右目を失明し、目の光だけでなく母の愛も失った政宗は、自室にこもって人を遠ざける生活を送っていた。
 その夜も、宴へと誘う父輝宗の誘いを断り、政宗は自室で本を読んで、いつもと同じように過ごしていた。
 けれど、本音は。
 宴の席に出て日頃は口にできない料理を食べ、父と共に中秋の名月を見上げたい。そう思っていた。
 だがそれ以上に。病気ですっかり変わってしまった自分の容貌を疎み、奇異の目を向けてくる大人たちと顔を合わせるのが嫌だった。

「梵天丸様……」

 いつもと変わりなく過ごしているように見せていたにもかかわらず、小十郎は政宗の本音を見破った。
「先ほど夕餉を下げに行きました折、見事な月が出てきたと義姉が申しておりました」
「喜多が?」
 小十郎の義姉は、政宗が心を許す数少ない乳母、喜多だった。喜多の名前を持ち出されて、政宗はうっかり書物から目を離して小十郎の顔を見てしまった。
「今頃は恐らく、宙で美しく輝いておりましょう」
「……俺は宴に出る気はない」
「ええ。ですがこの小十郎、今宵の美しき月を見てみたく思います。梵天丸様はいかがですか?」
「それは……」
 中秋の名月が格別なのは、幼い頃の政宗でさえもわかる。
 ましてや今宵は雲一つない空で、喜多も小十郎も見事で美しいと称している。
 見たくないはずがなかった。

「宴に出ずとも、月を見ることはできます」
「……っ!?」
 思いがけない言葉に、政宗は思わず小十郎を凝視した。
 すると小十郎は、穏やかな笑みを浮かべて続けたのだ。
「今宵は城下からも客が招かれております。城の警備も手薄になっているものと思われます。抜け出すことは、さほど難しいことではないと」
「城を抜け出すと申すか?」
「はい。そうすれば、城内の誰にも気兼ねすることなく、存分に月見を堪能することができましょう」
 政宗のためとはいえ、伊達の次期当主になる嫡男を勝手に城外へ連れ出したことがバレたら、小十郎はただでは済まない。
「この小十郎にお任せを、梵天丸様」
 それを事もなげに言ってのけた上に、小十郎はまんまと政宗を城外へ連れ出して、この寺へ連れてきた。

あの夜の月は、格別だったな。

 年を重ねるごとにおぼろげになっていく幼い頃の記憶。
 だが、あの夜に小十郎と見上げた見事な月のことは、今でもよく覚えている。
 中秋の名月から一夜遅れてしまったが、今宵の月はその時のことを彷彿とさせる見事な満月だ。
「いい月だ」
 縁側に腰掛けて、片膝を立てて呟いた。
 その時、聞き慣れた声が聞こえてきた。

「政宗様!」

 やはり、来た。
 政宗は一瞬笑みを深くして、けれどその笑みをすぐに消して声が聞こえた方へ顔を向けた。
「遅かったじゃねぇか、小十郎」
「今日中に片付けておきたい書状がいくつかございました故、遅くなりました」
「そりゃ御苦労だったな。今夜はもう、ここには来ねぇかと思ったぜ」
「お待たせしてしまいまして、申し訳ございません」
 憎まれ口を叩いてみたものの、政宗が本心から怒っているわけではないことも、小十郎には見抜かれている。小十郎はわずかに苦笑を浮かべながら、手にしていた羽織を政宗に着せかけてきた。
「あん?」
「昨夜から今朝方にかけての悪天候の後、寒さが増しております。お風邪を召されては困りますゆえ……」
「Ha! 気が利くじゃねぇか、小十郎」
「この小十郎、伊達に竜の右目の二つ名を賜ってはおりません」
 政宗が好んで着る青い羽織を着せかけられて、政宗は自分の体が思いのほか冷えていたことに気付いた。
 そして政宗が手振りで横に座るように示すと、小十郎はそれに従って縁側に腰を下ろした。

「お前の言う通り、ちょっと冷えてたみてぇだな」
「貴方のことだ、時も忘れて見入っておられたんでしょう、あの月に」
「まぁな。今宵の月は特に、あの日のことを思い出さずにはいられねぇ、見事な月だから余計にな」
「確かに、今宵の月はよく似ておりますな。貴方の傳役になってから、初めての中秋の名月をここで共に見上げた時の月に」
 政宗の胸の内を覗き見たかのように、小十郎は政宗が黙って城を抜け出してここへ来た理由を言い当てた。
「Ha! それもお見通しかよ」
「貴方の右目でござりますれば」
 言いながら、小十郎は懐からごそごそと包みを取り出して、政宗に差し出した。
「あん?」
「厨房から失敬してきました」
 竹の皮でできた包みを開くと、中から緑色の鮮やかな餡を塗した団子が出てきた。
「これ、ずんだ餡の……?」
「ええ、昼間に畑で採れましたので。潰して餡に致しました」
 小十郎が育てた畑で採れた豆を甘く煮て潰した餡は、政宗の好物でもある。
 幼い頃、小十郎が政宗を連れ出して共に月を見上げたあの夜も、小十郎は喜多から持たされたのだというずんだ餡の団子を政宗に差し出した。
 思えば、ずんだ餡を好むようになったのは、あの夜以降のことだった。と政宗は思い返す。
「そうか。それは美味そうだな」
 つい、笑みが漏れる。
 政宗はひと串手にして、口に運んだ。

「……」
 団子を一つ頬張って、気付く。
 ほんのりと温かい。
 そしてわずかに焦げがある。
「焼いてきたのか?」
「ええ。その方が美味いですし、お好きでしょう?」
 どこまでも抜かりのない腹心の配慮に、苦笑にも似た笑みがこぼれる。
 口の中に広がる食感と餡の程よい甘さが、あの夜の記憶をも呼び覚ます。
「お茶もございますゆえ、こちらを……」
 団子だけではなく、ちゃぷんと音がする竹筒まで取り出して、縁側に置かれるのを見て、政宗は苦笑した。
 今に始まったことではないが、この男は用意周到にも程がある。

 時折お茶を口にしながらひと串食べ終えた政宗は、ふと気がついた。
 ここまで用意周到にしてきたということは、恐らくもう一つ、小十郎は何かを懐に忍ばせているはずだ、と。
「小十郎」
「何でしょう?」
「ここまでしっかり準備してきたってことは、当然アレも持ってんだろうな?」
 ニヤリと不敵な笑みを浮かべて問いかけると、小十郎は至極当然といった表情で頷いた。
「もちろん、用意して参りました」
 言いながら小十郎が取り出したのは、政宗が予想した通り、彼が日頃から愛用している篠笛だった。
 包みを解いて笛を取り出し、吹き口を口元に当てる。
 そんな何気ない仕草でさえどこか洗練して見えるのは、この男が剣の達人でもあるからかもしれない。と政宗はそれを眺めながらぼんやりと思った。

 初めは、ひっそりと囁くような音色だった。
 息の入れ方でどうにでも変化させられる笛の音は、小十郎の息遣いがそのまま反映される。
 聞き覚えのある旋律は、幼い頃からよく聴いていたものだ。
 蒼銀の月の光に溶け込むような音色に聴き入って、政宗は闇夜を照らす十六夜の月を見上げる。
 頬を撫でる冷えた空気も。
 冴え冴えと地に降り注ぐ月の光も。
 小十郎の笛の音も。
 何もかもが心地よかった。

 幼い頃、初めて小十郎と二人で月を見上げた夜のように。
 政宗は一夜遅れの月見を満喫した。

Fin
written:2010.10.04



「月夜舞」に続いて、またしても月見ネタ(汗;)
しかも、中秋の名月から約2週間遅れで完成することと相成りました。
筆頭の前立てが三日月ですし。
小十郎は陣羽織の背中に下弦の月を背負ってる&月の名前がついてる技が多い。
ってことで、やはり伊達主従には月がよく似合うと思います。



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